第四十四理― <再会>しかし彼女は堕ちていた
輸送船“K・Wirbelnden”船首甲板――――とある騒動で人気のなくなったその場所には一人の少女が、夜風に長い銀髪を靡かせながら静かに佇んでいた。
その表情は何処か虚ろな、まるで感情がないかのような――もとい感情を殺されたかのような面持ちで、その整った顔立ちとのギャップがマネキンや西洋人形の類を彷彿とさせる神秘的にも不気味にも見えるその姿はやはり尋常ならざる異常だった。
「ここにいたか、シェーヌ」
“鎖”と呼ばれた少女は、不意に背後からかけられた厳格な声に半身振り返る。
そこに立っていたのは毅然とした礼服に身を包んだ精悍な初老の紳士。しかし、その実体は文字通りの悪魔――“伯爵”ことソロモンの悪魔の一柱、ハルファスだ。
「何か御用ですか、御主人様」
元々はエステルと呼ばれていたはずの少女はハルファスのことを『御主人様』と呼び、自身の名を失ったが故に自分のものではない名を粛々と受け入れていた。
「今のお前なら言わずともわかるだろう」
「そう……ですわね」
「この船に鼠が紛れ込んだ。プロロゴが降りたが、恐らく手に負えないだろう」
「ロロは元々戦闘用ではありませんもの。仕方ありませんわ」
伯爵と平然と言葉を交わしたシェーヌは上品な所作で髪を払うと、伯爵とすれ違うようにして船内へ戻る階段を上りシェーヌが出てきてから開かれたままになっていた水密扉をくぐる。
「我が輩は、騒がしい夜を好まない」
「存じていますわ」
伯爵の言葉に今度は振り返ることなくそう返したシェーヌはそれきり口を噤み、小さな足音を寂しげに鳴らしながら船内の暗闇に姿を消した――。
船内下層大型コンテナ格納庫――。
クレアの圧倒的とも言える大勝で低級悪魔の群れと呪術書をあっさり突破した後、ボクとクレアはすぐに上層階を目指して格納庫側壁に備えられた階段を上っていた。と言うのも、シグエンサ戦の後、クレアが強い気配――本人曰く“伯爵の気配”を上の階層から感じたらしいのだ。
そこであまり一ヶ所に長居するのはセオリーではないと言うクレアの判断もあって、伯爵らしき気配に向かうことになったのだった。尤も、そういうセオリーを知らないボクからすれば、もうクレアに付いて行く以外の選択肢は残されていない現状だけど。
「ギャッギャッ♪」
ふわふわと浮かびながら先頭を進む新しい仲間は、相変わらずあまり可愛くない鳴き声を上げながら楽しげな様子で尻尾を泳がせている。外見も決してすごく可愛いと言えるものではないものの、もしかしたら犬並みに感情豊かかもしれない尻尾やパタパタと揚力とは無縁そうに羽搏いている小さな翼など、動きには何処か愛嬌を感じさせる。
クレアは『日本の魔法少女の使い魔みたいね♪』と若干興奮気味に語っていたが、小さな身体と無害そうな外見と侮る無かれ、船体に易々穴を開け、高速で打ち出された金属杭を到達までに溶解するほどの高熱線を放ったりする破壊力抜群の戦闘能力を持っている。単純な瞬間火力だけなら、クレア以上の攻撃力すらあり得るというから驚きだった。
「アッレは道わかったりしないのかな?」
上下にゆらゆらと揺れながら飛ぶアッレの後ろ姿を見ていてふと思い付いたことをそのまま口にすると、名前を呼ばれたのがわかったのかアッレは振り返って「ギャヒ?」と首を傾げて見せた。
「多分無理ね。悪魔の契約は狡猾で慎重。後腐れなく使役するために、下級悪魔の契約中の記憶は殆ど抹消されてしまうもの。契約したことは覚えていてもその間に何処を通ったとか何を見たとか、少なくとも意識的に記憶したこと以外は忘れていると思うわ」
「何だか、それって少し寂しいね。思い出を忘れちゃうなんて……」
「……彼らはそういう生き物なの。自我が薄く、魔力のためだけに契約期間満了まで絶対服従を誓う。それ以上でもそれ以下でもないただそれだけの存在なのよ。最も原始的で単純な悪魔だから、案外ただの人間にも呼び出せたりするのだけれど、近代以前には悪魔契約の作法も知らない人間が下手に手を出して、契約違反の対価に魂を魔力に変換されて持っていかれるなんて話もよくあったみたいね」
「く、黒魔術ってやつかな……」
「ギャヒ♪」
無邪気(?)に振り返る本人は至って無自覚のようだった。
「黒魔術といえば……って黒魔術とは関係ないかもしれないけど、さっきのシグエンサっていう娘もクレアと同じ呪術書なの?」
ボクがタイミングを窺っていた質問を切り出すと、クレアは一度だけボクの方を一瞥したものの、言葉を返すことなくそのまま視線を宙に彷徨わせた。
「あれ……もしかしてこういうのってホントはあんまり訊いちゃダメ……とか?」
クレアの微妙な反応に気まずい思いをしながらもそう訊いてみると、クレアはその態度に自覚がなかったのかハッと息を呑んで慌てた様子で首を横に振った。
「そうじゃないのよ。ただ……ミズハは本当に、私やあの子が根本的に危険な本であることを特別視したりしないのね、と思ったの。ミズハって最初は驚いても、すぐに平然と受け入れてしまうじゃない? それが不思議でならないの」
「え、えっと……うーん? そう言えば何でなんだろ。危険って何度も聞いてるけど、実際にそういうところに当てられたりしてないからなのかな……?」
「本質的に取り扱いの難しい物であることはさすがに理解していると思うけれど……。まぁ、ミズハは感覚的に物事を捉えているのかもしれないわね。そういう変に理屈っぽくないところも、女の子みたいで私は好きなのだけれど」
「それボクにとっては褒め言葉じゃないからね!?」
ショックを受けつつそう返すと、クレアは可笑しそうに小さく笑った。確かに周りにいる女の子たちに比べたらボクなんてびっくりするくらい弱っちいけど、これでも一応歴とした男なんだから、女の子みたいと言われればそれなりにショックだ。
母さんやたまに会う親戚の人たちにはボクは母さん似だとよく言われてるけど、どうせならあと少しくらい父さんに似て欲しかったと思う。ただでさえ女顔なのにこの年になっても撫で肩が変わらないし、筋肉をつけようとしてもトレーニングの仕方が悪いのか目に見えるような男らしい筋肉が全然できないし、寧ろ引き締まってしまった脚は昴に「小鹿みたいな脚線美だな」なんて評される始末だ。
そんなの欲しくないのに。
「それで……そうね。さっきの彼女と私のことだけれど、同じ呪術書と言うのは少し語弊があるわね。人に害を為す為に作られた呪いの書という意味では確かに同じだけれど、彼女は呪術書で、私は呪法書だから本質的に同じとは言えないわ」
「え? 呪法書と呪術書って違うの?」
どちらも普遍的に使われる言葉としての“呪い”をかける本のことで、一般的には“呪術書”、クレアは区別するために便宜上“呪法書”と自称しているのだと勝手に納得していたのだけど、どうやらしっかりとした定義があるらしい。
「確かその辺りはミズハにはまだ教えていなかった気もするわね。道すがら説明してあげるわ」
クレアがそう言って右手を胸の前の辺りで広げると、その掌の上に古めかしい装飾の古書が浮かび上がるように現れる――――“Creazione E Distruzione”。
クレアの本体と言える呪法書だ。
「人の姿でも出せるんだ」
「今はあくまでも私の自我がある方が本体で、今この本は形を保っているだけの脱け殻に過ぎないけれど。ちなみに逆のこともやろうと思えばできるわ」
抜け殻みたいになった人型クレアなんて何か怖いから見たくないです。
ついそう思ったのが顔に出ていたのか、クレアはボクを見て少し悪戯っぽく微笑むと、ちょうど差し掛かった踊り場でくるりと振り返った。
「呪術は別名“呪性加害魔術”。文字通り、この世界を構成している理の一部を一時的に改変・悪用して対象に害為す魔術の一種で、あくまでも魔術というカテゴリの一部でしかないのよ。だから魔術にできないことは呪術にもできないし、呪術でできることは魔術でできることに限られてくるの――――対して私、呪法は既存の理に縛られない。相手に害を為すことを前提に創られた新しい摂理そのものなのよ」
「新しい摂理そのもの……!?」
「正確には、いくら私でも世界を構成するために用意された摂理……則ち原初の理を表す者に反することはできないから、単純上位互換と考えてもいいかしらね」
「……クレアってもしかしてかなり特殊なの?」
「あら、随分と特殊事例だと思うわよ? 人間やそれに準ずる知的生命体が書いた害典を呪術書とするなら、私のお父様みたいに現世の摂理に触れることができる存在が書いた害典が呪法書。尤も、私の呪法も正確に呪法と言えるのは百六十九分の百六十七だけれど」
百六十九分の百六十七? 残る二つは何?
思わずそんな疑問が頭に浮かんだものの、クレアはボクの変化に気付いた様子を見せながらも不思議な笑みを見せるばかりで今度はボクの疑問に答えてくれようとはしなかった。
「お父様が何故私を書いたのかも未だによくわかっていないの。何しろ、私が呪役者として目覚めた時、お父様はもういなかったものだから」
少し淋しげにそれだけ言ったクレアが再び階段をゆっくりと上り始めた、その時だった。
「アギャ?」
いつの間にか勝手に上っていたらしいアッレの妙に間の抜けた疑問色の声が、二階分ぐらい上の踊り場の辺りから聞こえてきた。
「どうかしたの、アッレ?」
ボクと同じく不審に思ったらしいクレアが、上を見上げながらカンカンと足音を響かせて階段を上っていく。そしてボクも半階分遅れて追いかけ始めた――――瞬間だった。
ひゅっ、と手すりの外で何かが落下していった。
「……え?」
小さなテニスボール大の球状の、翼と尻尾の生えた何か。
間違いなくさっきまで上にいたはずのアッレだった。
「飛び降りて、ミズハッ!」
次いでクレアの声。
振り返ると、慌てて引き返してきたらしいクレアがボクに飛びつくような勢いで抱きついてきて、瞬く間にボクもクレアも手すりを越えて外に身体を投げ出していた。
轟ッ!!!
そして、呼吸音。人のものではない、上階の踊り場を激しく赤熱させ破壊的な輝きを放つ巨大な赤い炎が周囲の酸素を纏めて吸い込む、燃焼音そのものだった。
「解放:“引力呪法”!」
クレアがそう叫ぶと不意に落下が和らぎ、次の瞬間にボクとクレアは元いたコンテナ格納庫の下層に再び降り立っていた。クレアの手には空中で捕まったらしいアッレが手の中から這い出そうと藻掻いており、その奇妙な愛嬌のある姿に混乱した頭がほっと一抹の安堵を覚える。
そして、その安堵を切っ掛けに急速に頭が冷え、ようやく状況を把握できるまでには落ち着いた。
「鼠さんはいらっしゃいますか」
聞き覚えのあるその声に、ボクは頭上を振り仰ぐ。
高熱で溶け、途中から千切れて斜めに張り出して未だ燃え続けている鉄階段とちょうど重なるような位置に、声の主は――彼女は、いた。
激しい熱風に銀髪を靡かせ、空中で静止するように背中の翼をゆっくりと羽搏かせて、虚ろなままに攻撃的な視線を向けてくる彼女の名は――
「エステルさん……!」
「私の名は、シェーヌです」
――囚われの身になっているはずのラウラの姉、エステリーゼ=ヴィランドリーだった。




