第十九理― <決意>それでも足を踏み入れた
「逃げて、ミズハっ! 久遠を連れて早くここから離れてッ!!!」
悲痛な叫び声。
ボクはその声に突き動かされるままに、泣いている久遠の手を引いて必死に森の中を走っていた。
最後に見たのは突然現れた大きな影と、ボクに逃げろと言った誰かの後ろ姿。
この光景は――そう、昔の記憶だ。
まだ幼い子供だった頃の記憶。
こんなに鮮明にあの時のことを思い出すのはいつ以来だろう。
いつからか思い出すのをやめた、すごく曖昧なぼやけた記憶――その断片。
前の日曜日、ミコに魔法の存在を知らされた時、少しだけ昔のことを考えていた。その時に、無意識に色々思い出してしまったのかもしれない。
あの日のことを――。
『貴方は選択する必要がある――――このまま、理外側に関わり続けるつもりなのかを』
何処からかクレアの声が聞こえてくる。今にも消えそうなぐらい微かな声――――だけどはっきりと聞き取れた。
『平和ってのは争いが起こらないことじゃなく、争いが起こっても大事な人を守れる連中だけが手に入れられるモンなんだよ』
テクスの言葉が脳裏を過る。
『みっくん。これから、どうするつもりですか……?』
久遠の不安げな声がする。
特別遺失物取扱課……理外側……人外――総じて非日常の世界。
銃や剣。
ボクが触れたことすらなかったそれらの武器を使いこなしていた、テクスやミコ、リリス――。
ボクも彼らのように――――強く、なれるだろうか。
誰かを、大事な人を守れる力を――。
ボクは――。
――目が、覚めた。
わずかに残っていた眠気もその瞬間に吹き飛び、ボクは身体から力を抜いて再び身体をベッドに預ける。
色々と思い出した。いや、もしかしたら思い出し過ぎたぐらいなのかもしれない。
――何より、夢見のタイミングが良過ぎた。
「はぁ……」
自然と溜め息を吐く。
「どうかしたの、ミズハ?」
「うわぁっ!」
突然隣から聞こえた声に飛び退くと、ベッドのすぐ隣にクレアが寝転がっていた。
「クレア、何でそこにいるの!?」
久遠が一般側ではないと判明したおかげで、クレアは久遠の部屋の方に泊まってもいいと許可が出ていたのだ。特失課から。
「少し早く起きてしまったからミズハの可愛い顔を眺めてたのだけれど、何かいけなかったかしら?」
「可愛いないからっ! 全然可愛くなんかないからっ……!」
「服装次第で女の子でもイけると思うわよ? 実のところを打ち明けると、最初ミズハは女の子かと思ったくらいで」
「そんな打ち明け話は要らなかったよ!?」
「私、基本的に男って好きじゃないもの。その私がこれだけ普通に話せるってことはそうそうなかなかあるものじゃ――」
もう流すことにした。
「久遠は?」
「今度着せ替え遊――起きてるわよ?」
「今何か危ない願望が聞こえた気がするんだけど!?」
流せなかった。
「今は向こうの部屋で朝食の支度をしているわ。あら? そう言えばミズハを呼んでくるように頼まれていた気がするわね……」
「思いっきり遊んでたんだね……」
ボクで。
着替えだけ手早くバスルームで済ませ、クレアと一緒に久遠の部屋に入る。
「みっくん、おはようございますっ」
「うん、おはよ」
久遠は今日も元気だった。
卵を落としたお味噌汁とご飯、漬物と比較的食べやすい(無論焼き魚がないから)朝食が始まる。
「……」
久遠もクレアも黙々と食べているというだけのことなのだけど、何処となく無言が気まずい。
ボクは一口目のご飯をお味噌汁で流し、喉が潤ったことで少しだけ気分も楽になった。そして、昨日寝る前にしていた話を――
「昨日のことなんだけど……」
――切り出した。
「はい」
帰ってきた久遠の声は、少し強張っていた。
「……あら、案外結論を出すのは早かったのね」
こくんと喉を鳴らして噛んでいたものを飲み込んだらしいクレアがそう言った。
「あ、ううん。まだ一歩手前なんだけど……久遠に聞いておきたいことがあるんだ」
「何ですか?」
久遠が箸を置いて、ボクの目をじっと見据えてくる。
何となくボクの声色から、真面目な話だということを察したみたいだ。久遠はこの手の勘はかなり鋭い。時々、ボクが何かを言う前に話したいことを先んじて言ってしまうこともある。
ボクは急に渇いてきた喉を潤すためにごくりとつばを呑んで、
「秧鶏さんのこと――」
ピクリ、と久遠の前髪が揺れた。
久遠の表情に影が差し、テーブルの下で膝に置いた手をぎゅっと握ったのがわかった。
ボクは久遠の反応をできるだけ気にしない内に言葉を続ける。
「久遠が……ってことは、秧鶏さんもそうだったってことだよね……?」
テーブルの上に視線を落として俯いたまま、久遠は微かにこくりと頷いた。
あぁ……やっぱり、そうだったのか――――箸を持つ手が緊張で引き攣る。
「秧鶏というのは誰なの?」
首を傾げていたクレアが、特に躊躇う様子も見せずに聞いてくる。いや、たぶんわざとなのだろう。クレアの性格上、久遠の様子が少しおかしいことに気づかないわけがないから。
「……久遠のお姉さんだよ」
「お姉さん……」
ふうん、と相槌を打つように言って、クレアが少し前傾気味だった姿勢を正す。
火喰鳥秧鶏。
今朝の夢で、ボクと久遠に逃げろと言ったその人だった。
当時、ボクたちが何で森に入ったのかは憶えていない。憶えていないけれど三人で入ったその森で、ボクたちは“あれ”と会った。
“あれ”というのが具体的に、どんな姿形をしていたかはまったく憶えていない。
当時は、本能的な恐怖と秧鶏さんの言葉に従って、振り返ることなくボク同様に幼かった久遠の手を引いて逃げた。それだけ。
それだけしか、憶えていない。
それこそ、秧鶏さんの顔も憶えていなかった。
歳はボクと久遠より三つ上。
生きていれば、今年で二十歳になるはずだった。
あの後、ボクは気がついた時に、秧鶏さんが亡くなったことを知らされた。
“あれ”からボクたちを逃がすためにただ一人残って犠牲になった、と説明されたような覚えがある。少なくともボクも久遠もそう理解していた。
「久遠は、あの時見たものが何か知ってるの……?」
久遠は無言で首を横に振った。
そして数秒後、かすれたような声で「教えて……くれませんでした……」と呟いた。
「何となく、だけどさ……。やっぱり“あれ”は、こっち側の何かじゃないかと思う……。もしそうならボクは――」
言葉に詰まる。
クレアはボクと久遠の遣り取りでその事情を何となく察したらしく、食事を続けるでもなく喋るわけでもなく、ただ黙ってボクの次の言葉を待っていた。
「みっくん」
久遠が、先んじて口を開いた。
思わず、背筋がぴんと伸びる。
「お姉ちゃんのことを、みっくんが気に病む――気に負う必要はないんですよ……?」
この話になった時、久遠はいつもそう言ってくれていた。そう言う久遠の方がずっと傷ついて、辛そうな表情なのに――。
久遠は昔から、ボクのために傷ついてきた。痛みを被って、傷ついた心を隠して、無理して、引き返せないところまで一人で思い詰めて、放っておいたら本当に壊れてしまう。
その寸前まで。
でも昔のボクは、久遠に優しくなかった。
その寸前になるまで、ボクは久遠の気遣いに気がついてない振りをしていた――――そんな時だってあった。
「もう、あんな思いはしたくないんだ……」
守られるぐらいなら、守りたい。
ボクは所詮、何もできない。久遠のように優秀でもない、一般人でしかないボクには、久遠を守ることなんて、大切なものを守るなんてできない。
昔はそう思っていた。目を逸らしてきた。
そんな選択をすることすら間違っていることにも気付いていながら。
でも今は違う。久遠も守れる力が、どんな形のものにせよ手に入るかもしれない。強くなれる、変わることができる、その可能性がある。
ボクはここ数日で、そういう世界を見てきたのだ。
「ボクは久遠を守りたいから……」
これは、今まで楽をしてきた――楽に逃げてきた自分への正当な罰だ。
「みっくん……」
久遠の目元に涙が浮かぶ。
「あら? 私のことは守ってくれないのかしら?」
少し重くなった空気を吹き飛ばすように、クレアが悪戯っぽい拗ねた口調でそう言う。
「クレアは……守れる機会なんてあるかな……?」
どれで比べてもボクより圧倒的に強い気がする。
クレアは「心外だわ♪」と言ってふふっと笑うと、久遠の肩に手を置いた。
「久遠。私は貴女とミズハの過去に何があったのかは知らないし、二人から話してくれるまでは追求する気もないけれど、私はミズハの決意は尊重したいし、案外間違った選択ではないと思うわ。これでミズハが変われるなら、ね」
何でクレアはさも昔からボクを知っているような口ぶりで言うんだろう。
「そう……ですね。私も、みっくんを尊重したいです……」
少し声は震えていたけど、久遠は笑顔を浮かべてそう言った。
「さぁ、食事を続けましょう♪ オミソシルが冷めちゃうわよ」
どうしてそこだけ急に片言に。
問題は特失課の皆が、それを許してくれるかというお話になるんだけど――――とボクは一人、これからのことを何となく想像しながら、不安な気持ちになるのだった。




