第六理― <事情>事件は始まっていた
暗く冷たい、地下牢。
床も壁も天井も、見える視界に映るのは剥き出しのコンクリートと唯一の出入り口である扉。そして私の四肢に嵌められた鎖。
私は、囚われていた――。
私にとっては何ということもないはずのただの革製の首輪を嵌められ、切れても切れない矛盾した金属鎖によって、まるで犬のように繋がれていた。
首輪も、鎖も、地下牢も――――本来なら私を拘束するにはあまりにも弱い。首輪は指をかけるだけで千切れ、鎖は引っ張るだけで砕け、壁や天井は吐息を解放するだけで貫き消し飛ぶ。
でも今の私には、自力でこの檻を壊すことはできなかった。
一秒、一分、一時間、一日、一週間。
冷たいこの地下牢で過ごす時間が増えるにつれて、私は自分の心が段々と冷えきっていくのを感じていた。ボロボロと、悠久の時を経た古城が自然と瓦解していくように、緩やかにじわじわと崩されていく。
誇り高き血を持つ私が、他者の所有物であるその現実。
屈服するまでの段階を飛ばされていなかったらここまで苦しまずにいられたかもしれない。屈辱と苦痛に苛まれ、自ら折れていたなら背反する心と現実の差異に悩まされることはなかったかもしれない――――そんな自己破滅的なことを考えてしまうほどに、私の心は壊れていた。
堕落の段階を経ず、一足飛ばしに隷属を強いられるこの感覚は凡そ他の誰にも理解できない。
私は、プライドがズタズタに引き裂かれ穢されていくのを黙って眺めていた。否、黙って眺めることしかできなかった。それも違う。黙って眺めることを強要されていたのだった。
カツン、カツン、足音が聞こえる。
また来たのだろう。
私を陥れ、絶対の服従を強いて奴隷のように貶めた、あの悪魔が――。
扉が開く。
「仕事だ、シェーヌ」
やめろ、私をそんな名前で呼ぶな――。
私は、そんな名前じゃない――。
私の名前は――。
「私の名前はラウラ、ラウラ=クリスティアーネ=ヴィランドリー」
クレアがベンチに腰を下ろすと、隣に座ったラウラは再び名前を――今度はフルネームで名乗った。
(ヴィランドリー……ね。聞いたことぐらいはあるかもしれないけど、何処で聞いたのだったかしら……?)
聞き覚えはあるけれど詳細までは思い出せない、そんなままある感覚を軽くスルーして、クレアは疑問自体を放棄する。
「それで私を誰と――いえ、何と間違えたのかしら?」
「……アイツが使ってた呪術書。あなたに似てる気がする、けどあなたの方が本質は圧倒して上。少なくとも向こうは使われてただけだったから」
使われてただけ。
おそらくラウラは何かを意図して言ったわけではないし、クレアも文脈からニュアンスが違うことはわかっているが、それにしてもその言葉はクレアにとっては重過ぎる響きを含んでいた。
「呪術書……ね」
しかしクレアは動揺して、軋む心を表には出さない。これまでに幾度となく繰り返し言われてきたそんな言葉だ。悪意を以て言われたとしても受け流す自信があるクレアにとって、この程度は温いくらいだった。
「……それで“アイツ”というのは誰のことかしら?」
「人じゃない、黒い男。私の姉さまを拐った」
「穏やかじゃないわね……。貴女のお姉さんの名前は?」
「……エステル」
「私が言えることではないかもしれないけれど、そのテの人脈にはちょっとした伝があるの。協力できないかどうか打診してみるわ。たぶん、このテの事件はあの子たちの管轄だと思うし」
もちろんそれはミズハの、延いてはその携帯から能動的に連絡を取れる特失課の不動律巫女のことだった。
クレアは、特失課の管理を受ける誘いを蹴ったからといって、それを引け目に感じるほど可愛らしい性格をしてはいない。むしろその辺りを気にするのは日本人の特質というべきであって、特に“見知らぬ国”をいくつも渡り歩いてきたクレアからすれば、その国の警察等の国家機関を頼る程度のこと――――それ以上に公共交通機関を使う程度に自然なことだった。
(あるいは、直接特失課の支部に押しかけてもいいけれど……)
「ほんと……?」
「え、えぇ。まだ少し待ってもらうことになるけれど、それでもいいかしら? 実のところ私も、今は表立った活動は自粛しようと考えていたのよ」
「ダメ。今すぐ」
「結構ワガママね、貴女。でも人助け……身内ならやっぱりそうなのかしら?」
身内のいないクレアからすればよくわからない感覚だったが、大切な人という意味では確かに形振り構ってられる余裕はないかもしれない、とそんな風に思っていた。
「わかったわ、それじゃ……この国の専門機関に頼ることにしましょう。これからそこの支部に向かうから、とりあえずその翼を何とかしなさい」
「え?」
ラウラは振り返り「あ」と単音呟く。
どうやら翼を開きっぱなしだったことに気づいていなかったらしい。ベンチに背もたれがあれば、当たって気づいたのだろうが。クレアの危惧していた通り、人気がないとはいえ、人払いもせずに街中でルツェルンハンマーを振り回したことといい、翼を簡単に広げたことといい――。
(この子、人のいる場所に出たことないみたいね……)
一緒にいるだけで心労が増えそうな存在である。
「人前でそんなものを広げていたら、貴女、お姉さんを助けるどころの話じゃなくなってしまうわよ? これで何かあったら事故でもないから、しばらくは拘束されると思うわね」
「それは……困る」
微かにぷるぷると身震いしたラウラは、素直に翼を小さく畳む。原型を保ったまま肩甲骨の辺りで小さくなっていった翼はすっと消える。
(相変わらず変化系のこういうところ、不思議な感じね。どうやっているのかもわからないし……)
元々、竜の本来の姿はメートルで数えるべきスケールの生命体。それが人と同じサイズに姿を変えることを考えれば、今さら翼が隠れることを不思議がっても詮無いことなのだが。
「それじゃあ、善は急げとも言うらしいし。行きましょうか」
またも考えることを放棄したクレアはさっと立ち上がると、自分の呪術書に意識を移す。
「解放:“指針呪法」
指先に光が点る。
次の瞬間、クレアの頭の中に浮かんだレーダーのような同心円図に予め登録しておいた二つの点が――その方向と距離が浮かび上がる。
この点は、一つがミズハのアパート、もう一つが特失課のオフィスだ。これを繰り返し確認しながら歩くことで特失課支部に辿り付ける、というわけだった。
(あら? これ、学校があった辺りじゃなかったかしら……? 意外と近いのね。本当はこんなに早く支部の場所を知ってることはバレたくなかったのだけれど……まぁ、いいか)
思考放棄は、案外クレアの癖みたいなものだった。
そもそも初期の人間が高度な思考を必要とし、頭脳を研鑽してきたのは、生きるため。弱い身体でも、何とか生き残っていくためだ。それを考えれば、そもそも生存能力の高い人外は人間より考えることは少なくても、その強力な特質で生き残っていける。
しかし、そんなクレアでも、やはり気になることがあった。
クレアは視線を下げて、見る。
近くで佇み、自分を見上げてくるラウラ――その右手に握られたルツェルンハンマーを。
「ひとつだけ訊いてもいいかしら?」
「いい。さっきの借りもある」
「そのさっきことなのだけれど。私の防御呪法――物理障壁を簡単に抜かれてしまったわけだけど、どうやったのかしら? 自分で言うのも変だけれど、それなりに強力な術式だったのよ?」
「障壁……あった?」
予想外の言葉に、少し構えていたクレアはガクンと脱力した。
(障壁を張ってたことにすら気づいていなかったのかしら、この娘……。だとしたらどうして――)
目の前の説明不能な事態に、せめて自分の納得のいく予想だけでもつけておこうとクレアの思考回路が高速回転を始めた時、ラウラはルツェルンハンマーを持ち上げた。
「これのおかげ」
「え?」
「このルツェルンハンマー、盾や鎧は無視できる。それは、見えなくても同じ」
「無視できる……? ってまさか……っ」
「この武器を受け止める方法、事実上存在しない」
クレアは絶句した。
(事実上、と言うよりはおそらく史実上。盾や鎧を無視できる、ってことは防御能力の無力化。つまり、元々の特性を下敷きにした意味の拡大解釈……!)
ラウラのたどたどしい日本語から、クレアは付与された術式の内容を類推する。
そしてルツェルンハンマーという武器のことを識っていたクレアの推測は、狙い澄ましたように核心を突いていた。
ルツェルンハンマー全盛期当時、重く扱いづらい代わりに当てれば重装備の兵士も一撃で倒すことができ、盾で受けたとしてもそれを支える腕を破壊して突破できるこの武器を受ける術は事実上――史実上存在していない。
ラウラのルツェルンハンマーはその事実をベースにして都合よく解釈し、“間合いに入った相手に対して防御能力を無力化する”能力を発現しているのだった。
その効果は当然の如く絶大。
こと守るために使われているものなら、戦闘用防具だけにとどまらず硬質の防弾ガラスや戦車の装甲板でさえ紙のように引き裂き、厚さ数十センチにも及ぶ金属防壁でさえ朽ち木のように粉々に砕く。あまつさえ攻撃ではなく受けに転じたと見做されれば、それが武器だろうが易々と破壊する。
そして魔法を使った物理障壁もその術式の適用範囲内だった。
その事実を理解した時、クレアは思わずラウラに抱きついていた。
当然、愛らしい容姿を持つ彼女に抱きつくのを我慢していたというのもあり、その暴走の結果とも言えるかもしれないが、ルツェルンハンマーに付与された術式の正体を理解したこの一件は間違いなくそのきっかけだっただろう。
「すばらしいわ! 貴女、その歳でその術式を組みあげたの!?」
抱きつかれたことに驚いているのか、ラウラは頬をわずかに赤らめてがくがくと揺すられるに任せる。そして、聞き逃しそうな声で「う、うぅ」とどうとも取れない返事を漏らす。
実際、それは肯定の返事だったのだが、
「私、そういう才能が大好きなの♪」
クレアは返事を聞いたのか聞いていないのかもわからない喜びようで、ラウラを再び強く抱きしめた。
若干、可愛いものが好きという悪癖とも取れない性格が暴走気味――――である。




