マリアの神
昼間の太陽の暑さでほてった肌が、この塔に入るとひんやりと涼しくなる。
石造りの塔は、年中冷たい空気が漂っている。
王妃であるマリアは、いつもの様に裾を軽く持ち上げ、
上にあがる螺旋階段を一段ずつ、ゆっくりと上がっていく。
階段を上る度に、カツカツと靴底が音を立てる。
削れて丸みを帯びた石の階段は、真ん中の部分が歪曲にゆがみ、
足を包み込むように滑らかなカーブを保っていた。
明らかに人の足で使い込まれて削られたのが目に見えてわかる形。
近年、その石を削ってきた一因を担ったと、
頷くしかない人物がこのマリアである。
この城に来て10年以上、ほぼ毎日、ここに通っているからだ。
どんなに忙しくても、来れる限りは必ずくる。
この塔にある小さな礼拝堂が、
マリアの唯一の心休まる場所であったからだ。
誰もいない教会で祈りの誓言を唱え、神に深く額ずく。
神に祈りを届ける、ごくごく一般的な作法。
それはマリアが、この国に来る前からの習慣でもあった。
マリアがこの国に来る前は、いつもこうして一人で祈っていた。
朝の祈りと夕刻の祈りで神に話しかけ、
日々の平穏を訴えるように聖書の文句をつぶやく。
その時だけは、何も考えなくてよかった。
自分が誰かにとってどんな存在かとか、
これから起こりくるであろう未来や漠然とした暗い不安など、
面倒な事を考えることもなく、すべてから逃れられた。
誰一人として、マリアの祈りを邪魔するものは無かった。
それは、平穏であり、孤独であり、無関心なのかもしれない。
だが、それでよかった。
それが、マリアにとっての日常であり、
心が平穏に保たれる為に必要なことでもあったからだ。
だが、強制ともいえる縁組の結果、
この国に、ランスーリン家の妻としてハインツの元に嫁いで、
マリアの日常は大きく変わった。
大きな波に浚われる無力な木切れの様に、マリアには何一つ逆らう術も、
抗う意思さえも持つことが出来なかった。
かつての自分が、大きな力に押しつぶされるのを黙って耐えた。
この国の王妃として立つ以上、
隣国の影響を思わせるアトス教への傾倒は望ましくないと、
周囲が言っているのは知っていた。
だが、唯一残されたこの習慣を変えようと考えるだけで怖気づく。
砂粒程しか残らない自分が消えるようで恐ろしかった。
だから夫となった、ハインツが黙認してくれるのを良いことに、
なに一つ、変えようとしなかった。
ここは、マリアにとって唯一の安息の場所。
マリアだけの揺り籠。
大きな秘密も、小さな嘘も、
聞きたくない現実も、受け入れがたい夢も
すべて、ここに置いておくことが出来た。
王妃としての責務は多忙を極めるが、心の平穏を求めて、
マリアは朝か夕に、決まって礼拝堂があるこの塔を訪れていた。
だが、今日は例外だった。
それは、今朝起こった事件のせいであった。
王妃付の侍女アデルの死は、この王城に、
いや、正確にはいつも王妃が篭るこの塔に不吉な影を落とした。
誰もが自分の前では言わないが、あんなところでどうしてと、
王妃に何か関連があるのではと、
すれ違う幾多の目が告げているような気がして、
覚えのない嫌悪が、記憶の端にしか止めない些事が、
マリアの心を焦らせた。
どうしようもなく気味が悪い、そして、何かが真綿で首を絞めるような、
じわじわと何かが闇の中をせり上がってくるような、
そんな不吉な予感を感じていた。
マリアは不安を振り切る様に足早に階段を駆け上って首を振った。
何を考えて、私はどうしてこうまで急いでいるのか。
自分の心に自問自答するが、答えは返ってこない。
アデルが死んだとて、私の日常が変わったわけではなかったではないか。
アデルの侍女としての仕事は大した重責ない物ばかり。
使用人の代わりなど、そう、なんとでもなる。
事実、マリアの側には、古参の侍女であるマーサがついた。
アデルより古参のマーサの方が仕事も的確で何一つ漏れがない。
現に何時もより仕事が速く終わった。
だから、時間に余裕が出来た。
教会に行く時間があった。それだけだ。
螺旋階段を上りきり、部屋のドアに辿り着いた。
黒い鉄の枠組みの重そうな木の扉。
そのドアを見つめ息を整えてから、手をポケットに伸ばす。
冷たい鉄の鍵の感触に、マリアの感情の蓋がゆっくりと閉じた。
鍵を握りしめた時、マリアは、全ての感情を暗い闇に落とす。
そうして人形の様な無機質な瞳が、マリアの仮面を完成させ、
長年培ってきた無表情に冷たい影を落としていた。
ポケットから鍵を出して、ドアの鍵穴に差し込む。
ガチャリ。
鉄の鍵が開く音が、塔の内部に鈍く響く。
続いて、重く黒い鉄の格子が入ったドアを内側に押し開く。
ギイイィ。
錆びた鉄の音が、塔の内部にエコーを響かせ、
耳に嫌な音を残す。
部屋の足を踏み入れると、天井が高く狭い空間があった。
塔の小部屋、マリアの小さな教会、アトス信教の拝殿であった。
正面上部の壁棚には、アトス神の型代である銅像
それを掲げるかのごとくに、銀の大皿と供物を置いた机。
その横に聖水と聖書。
そして、それらに額ずく為の低いビロード張りの椅子。
長時間その椅子に膝をのせて祈っても、痛くないように出来ている。
現在は昼間の為、ランプに火は灯っていない。
天窓からはいる太陽の光が、
狭い部屋全体を明るく照らし出している。
塔の内部の白い壁は、白い漆喰で塗り固められ、
太陽の光の反射が、白色に発光しているようだった。
マリアは、いつもどおり拝殿の前にぬかずき、
祈りの言葉をつぶやき神に許しを願う。
マリアにとって、祈りは自分とともにあり、
最大の贖罪を許してくれる、無くてはならないもの。
自分が、自分であるために必要なものだった。
そのマリアの背後にできた影に、
小さな影が近寄ってきた。
「ねえ、何を祈ってるの?」
マリアは、頭を上げて、ゆっくりと立ち上がった。
「聞きたい事があります」
その影に向かって、マリアは真っ直ぐに向かい合った。
顔は、無表情の仮面をかぶったままだ。
「ああ、貴方の声を聞いたのは、久しぶりだ。
2年ぶりくらいかな。 嬉しいよ」
影は、長い髪を揺らしながら、にっこりと笑った。
「アデルを殺したのは、貴方ですか?」
影の口が、にいっと大きく横に開かれ、
くっくっくっと面白そうな笑いがその口から漏れる。
「さあね。 神様は知ってるだろうね。
アトス神様に教えてもらったらどうかな?
貴方の信じる薄情な神様にね」
マリアの人形のような美しい顔が、反射的に歪んだ。
「ああ、貴方のその表情が見れたのは、
アデルがそれなりに苦労した甲斐あったってことかな」
影は、嬉しそうに体をくるくるとその場で回す。
銀の髪が白い光を浴びて、蝶が鱗粉を撒き散らすように、
空中に奇跡を残す。
「やはり、そうだったのですね。
何故、アデルを殺したのですか?」
マリアの口調が詰問する為にきつくなる。
「さあね。それを貴方が知って、どうしようというのさ。
何も変わらない。どうしようもない」
銀の光を伴った悪魔の影が、ゆっくりとマリアに近づく。
その歩調にあわせて、マリアの足も後ろずさる。
「貴方は、何も出来ないし、するつもりもない。
だから、これからも黙っていればいい。そうだよね」
マリアの背が、いつの間にか白い漆喰の壁際についていた。
小さな銀を伴った影が、マリアのすぐ側に立ち、
下からマリアの顔を覗き込む。
「まだ、何か、するつもりなのですか?」
マリアの背中に冷たい汗が流れる。
瞬きをするたびに、目の前が段々と暗くなる。
影は、くすくすと小さく笑いながら、
楽しそうに、くるりとその場で廻った。
「貴方の神様が、神罰を与える?
ありえないよ。アトス神は何もしてくれない。
だから、好きにするよ」
覗き込まれる紫の光が、狂気をはらんでいる。
これは、マリアが神様を裏切った罪。
それを見たくなくて、マリアは目をそらした。
「そうそう、アデルの代わりだけど、面白そうなのを見つけた。
侍女のお仕着せを着てた子だよ。
新しい子だよね。面白そうだから、
明日から、ここにつれてきてよ」
影は、髪をいじりながら、軽い口調で要求を伝える。
「新しい子? ああ、あの子は臨時です。
ここに入れるわけにはいけません」
マリアの脳裏に、新しく入った彼女の顔が浮かんだ。
きちんと顔を覚えているわけではないが、余り特徴の無い、
平凡で善良そうな顔のどこにでもいる様な子に見えた。
あの子は、一月ほどでいなくなる。
王から頼まれた、預かり物である。
「そんなのどうでもいいよ。
あの子が来ないなら、そうだね、次はローラあたりが、
真っ赤に染まるかもね」
マリアの顔に動揺が走る。
「脅すのですか?」
尋ねる声が震えるのを、とめることが出来ない。
「さあね。 貴方の神様にきいてみたらどうかな?」
影が拝殿の供物である小さな果実をひとつ手にとり、
口に入れる。
「今日の供物は、美味しいね。
口に含むと赤い果汁が溢れてくる。
まるで、あの時のアデルのようにね」
その表情は、アデルの最後を思い出し、
愉悦を含んだ顔をしていたように見えた。
これは、狂ってる。
これは人の顔をしているが、悪魔だ。
絶対に、いや、きっとそうに違いない。
マリアは、そのまま、逃げるようにきびすを返した。
急いで、ポケットの中の鍵を出し、
扉を閉め、鍵を閉め、その場を後にした。
この塔から、悪魔から、一刻も早く離れたかった。
滑りそうな螺旋階段を一心不乱に駆け下りる。
入り口の渡り廊下に繋がるドアの前で、なんとか弾んだ呼吸を整える。
大きく息を吸い込み、胸に手をあてて、
動揺を隠す為にいつもの無表情の仮面をかぶる。
そして、黒いベールで顔を隠し、いつもの様に背筋を伸ばす。
ドアを開けて、渡り廊下の先で待っている護衛の一団に目を向けた。
あの侍女の姿は無い。
一瞬いぶかしむが、マーサもいないので、
多分シオンの所だろうと予測をつける。
確か、シオンと仲が良いらしいとマーサが言っていた気がする。
ゆっくりと呼吸を整えながら、
渡り廊下を渡ると、ふと階下が騒がしいことに気がついた。
警邏の制服が見えた。
ああ、アデルの事件の調査だ。
目線を下にすると、ベールの隙間から、
木々に散った赤黒い斑点と
ペンキで塗られたような赤い線が目に入った。
ベールの下で目を細め、首を軽く振り、目線を正面に引き戻す。
見たくなかった。
足早に、その場所を去り、自室に帰る。
部屋に入ったとたん、自分が息を止めていたことに気がついた。
目の前に垂れ下がった、黒いベールをむしりとる。
呼吸が苦しく、ヒューヒューと肺から音が聞こえた。
部屋の中の空気が、暖かくやわらかい。
そして、むさぼるかのように空気を吸い込み軽く咽る。
呼吸が落ち着いた頃、足元を見ると、
夕焼けの斜めに入る赤い光が部屋を赤く染めていた。
吐き気がした。
先ほどの一瞬で目に入った赤い斑点が、
部屋中に飛び散っている幻覚が見えた気がした。
「王妃様、どうなされたのですか?」
マリアが部屋付の侍女が不在であった為、
侍従が申し訳なさそうに、部屋の扉を叩いた。
「な、なんでもありません」
はっきりとした口調で、侍従が入ってくるのを拒む。
今の自分の状態を、誰にも見られたくなかった。
「ですが……」
侍従の言葉は、反論する様子を見せる。
そんな気遣いが、今は鬱陶しかった。
いらつきを抑えながら夕日がかげるのを待つ。
自分の斜めの影が、塔でみた、
ニタリと笑う三日月型の口を思い出させた。
ああ、早く手配しなければ。
「ネイシスを、呼んで来てください」
そう、ネイシスに相談しなければ、あの子を塔に行かすことは出来ない。
「ですが……」
口ごもる侍従の反論に命令を被せる。
「早くなさい」
頭の中で、警告音が鳴り響いていたが、
それよりも、自分の心が静まるほうが大事だった。
侍従が足早に走り去る音が、ドアの向うから聞こえた。
「神よ。あの悪魔から、どうかお守りください」
膝をつき、自分の身を抱きしめながら、
神に助けを求める。
自分の声が耳に反響する。
その声に被さるようにして、塔の悪魔の声が届いた。
『アトス神は何もしてくれない』
マリアを助けてくれる神はいない。
そう、悪魔の声が耳の奥で囁いていた。
マリアの震えは止まらなかった。
夕日がかげり、闇に夕日が飲まれる頃に、
ネイシスが、マーサを伴ってマリアの部屋にやってきた。
「王妃様、お呼びと伺いましたが、いかがなさいましたか?」
ネイシスの硬い声が、救いの声に聞こえた。
「新しい侍女の子、名前なんて言ったかしら」
前置きさえも飛ばして、本題に入る。
早く、一刻も早く、心に平穏が戻って欲しかった。
「あの子をアデルの代わりの職に就けてください。
これは、命令です」
考えようによっては、これは最善の手かもしれない。
あの子が、あの影の相手をしてくれる。
それで、私の平穏が守られる。
それならば、これは神の御意志かもしれない。
勝手な理屈だと、冷静ならば考えられただろうが、
今は、それだけが正しいことにしか思えなかった。
「王妃様、あの子はまだ入ったばかりですし、
一月もして裁判が始まれば、侍女の仕事どころではなくなります」
ネイシスが、淡々と反対の意見を述べる。
「そうですよ。 彼女は臨時ですし、王からのご命令は、
常に王妃と一緒にということでしたが、よろしいのですか」
マーサが、ネイシスの言を押す。いつもなら、そこで考え直す。
だが、今の切羽詰ったマリアには、反対意見など考える余地も無かった。
「あの悪魔が望んだのです。
私の責ではありません」
いささか大きな声で2人に言い放つ。
「王には、アデルの代わりが入るまで、
アデルの仕事を変わってもらうといえば納得するわ」
口早に、正当化するための理論を述べる。
これは、神の御意志。
そうよ、私ではない。
「王には、私からお願いするわ。
だから、明日からそのように。
いいですね」
王は、私の願いを断らない。
それを、私は知っている。
マリアの頭の中には、アトス神の偶像が浮かんでいた。
その幻影をみて、初めてほっとした笑いを浮かべる。
目の前の2人の侍女は、納得していない様子だったが、
小さく頷いて部屋を出て行った。
その後姿を見送りながら、いつ王の下にお願いにいこうかと
算段をつける。
明日から、その様になることに、間違いがあってはならなかった。
これは、神の御意志。
私に責任はない。
マリアの体の震えが止まり、美しい顔に微笑みが浮かんだ。




