チェットの真実。
軒下から広場に向かって、ゆっくりと足を踏み出した。
奴の視線から決して目を離さず、奴から円を描くように雨の中を移動した。
乾いていた服も、髪も、雨によって重く濡れていった。
だんだんその重みと降りしきる雨の冷たさで、体が鈍くなっていく。
頭の先から足のつま先まで、雨の冷たさで、体の体温が失われていく。
温かみが奪われていくにしたがって、頭の中が冷えていく。
「お前は嘘つきで真実を言うことはない」
奴の言葉が、今更のように、脳裏を舐めるように覆い尽くす。
重い風が、俺の後ろから、雨を斜めに打ちつける。
雨のしずくが、髪をつたって口に入り、ざらりとした埃交じりの雨の感触が口内に残る。
ああ、そうだ。
真実は俺にとってもっとも、遠いもの。
あの子は、まだ間に合うと言ったが、今更だ。
今更、あんな言葉にすがろうとするなんて、滑稽すぎる。
俺は、その場所に、決してたどり着けないし、ここから動けない。
何度も何度も、絶望が希望を打ち砕き、救いはこないとわかっていたはずだった。
「あの世で嘘でもついてろ」
大きく振りかぶられたナイフの切っ先の軌道を、目でただ追う。
あれは、この世界との決別を自分にもたらすもの。
そう思ったとき、浮かんだのは歓喜。
やっと終わる。
このくだらない自分の周囲。
この馬鹿馬鹿しい自分の人生。
この忌々しい何時までも迷い続ける自分の心。
希望を持つことにも、誰かに救いを求めることも、あきらめた。
自分に唯一残ったのは、小さなリリー。
どんなに酷い言葉をぶつけても、どんなに過酷なことを強いても、
ずっと側にいてくれた小さなぬくもり。
リリーの与えてくれる世界は、ほのかな明かりと暖かな毛布。
でも、リリーに別れを告げられた時、その世界も瓦礫に変わった。
もう、自分には何も残ってない。
何を執着するわけでもあるまい。
この生を終わらすことには、異存は全く無い。
奴のナイフがこの胸に刺さり、俺の命はここで終わる。
それは、俺にとって、もっとも望んでいるもの。
スローモーションのように、奴のナイフが
ゆっくりと振り下ろされるのを見つめていたら、俺の周りの空気が揺れた。
乾いた暖かな感触が、冷え切った自分の体に覆いかぶさる。
それは、自分を見捨てたはずの俺の光、リリー。
リリーの体が、俺の体より先にナイフの軌道上にいる。
一瞬でそれを理解した。
自分でも、意識してないうちに体が、勝手に動いた。
下げられていた腕がリリーを庇うために、リリーを抱きしめ囲い込む。
体の中の小さな温み。
失いたくない俺の唯一のもの。
「駄目ーーー」
声が響いたとき、目がくらむほどの閃光と
耳が痛くなるほどの轟音、と同時に襲った衝撃。
体が一瞬で沸騰するような熱と、切り裂かれるような痛み。
痛みが体を麻痺させ、自分の体の血管が、断ち切れる音が耳に残る。
死ぬと思った時、腕の中のリリーの体に自分の頭を押し付けていた。
そのとき、するっと俺達の周りに柔らかなものが包んだ。
くらんだ視力で見渡してもわからないが、何かが俺達を守っているのがわかった。
痛みが、痺れが余韻のみ残して、意識を分散させる。
守られてる。
それが何であっても、極度の安心感が体の力を奪う。
(大丈夫、眠りなさい)
誰かの声がした。
意識が時途切れた時、その言葉の通り、もう大丈夫なのだと感じ、
全ての力が抜けた。
白い花、黄色の花、赤い花。
沢山の花が、敷き詰められたミリアの両親の葬列。
それを、側にいけない自分は、高台の上から、ただ見ていた。
カランカランと葬列の先頭の男が、鎮魂の鐘を鳴らしながら歩く。
次頭のオーロフさんと両親の遺品を掲げ持つミリア。
その2人は、固く引き結ばれた口と、泣きはらした目元、そして、
怒りを秘めている目、それらを携えて真っ直ぐに前を見て歩いていた。
小さな時から、何度も遊びに行ったミリアの家。
暖かく出迎えてくれた、ミリアの母。
手造りの御菓子やおやつを用意してくれて、家の中はいつも美味しそうな香りでいっぱいだった。
暖かな日差しと、春風に似た雰囲気をかもし出していた。
細くたおやかな体に、やわらかな笑顔と、はかないしぐさの美しい人。
いつも朗らかで、きさくで男らしいミリアの父。
遊びに行く時は、いつも俺とスミフの頭をぐりぐりと撫で回してから、
よしっ行って来い、と送り出された。
その大きな暖かな手が俺達は大好きだった。
それを壊したのは、俺の父親。
ミリアの両親を、ミリアから奪ったのは、俺の父親。
だれもが、お前のせいだとは口に出して言わなかったが、
視線で、態度でそれは明確に示されていた。
ミリアは、警邏から解放された俺をただ睨みつけていた。
ののしってくれたほうが、ずっと気は楽だった。
俺は、小さい時から、ずっとミリアが好きだった。
それに気がついたのは、事が起きて、取り返しがつかなくなった後。
あの手を、髪を、体を抱きしめたいと思ったのは、
睨みつけられ、決別の言葉を言われた後のことだった。
家も没収され、政府の管理宿舎での生活。
毎晩のように夢に見るのは、子供の頃の楽しかった思い出。
目が覚めて、いつも思うのは、もう戻らない過去への懐かしさ。
ミリアを思い続けることへの罪悪感。
そして、自分の未来に対しての閉塞感。
それらに息が詰まって、呼吸が出来ずに、
おぼれるように掴んだのは、空っぽの世界。
自分で自分を隠し、嘘で塗り固めた今の自分だけの世界。
それを選んだのは、俺だ。
両親は離婚し、父は死に、
自分は自由民から、犯罪者の息子で、
管理監視される行動制限自由民という位置に落とされた。
制限付きとはいえ、この街にいるのなら、
今までとは変わらないと役人達は言ったが、
それは紙の上からの言葉。
周りの目は、俺の周囲の環境は、驚くほどかわった。
まず、制限付きになると、役人ではいられない。
上司から、職を辞するように言われ、
友人だと思っていた奴らから、侮蔑の言葉を浴びせられた。
仲間だと思っていた奴らから、二度と声を掛けるなといわれた。
父の逮捕で、これまで仲良くしていた親戚も皆、関わりを拒んだ。
母は、さっさと父との離婚を成立させ再婚を決めた。
さらに、母は、俺との関係を絶つために手切れ金を用意させた。
以前は、うっとうしいほど好かれていると思っていた婚約者から、
軽蔑のまなざしと決別のあいさつ、
そして、失笑とともに近寄るなと言われた。
世の中は、至極簡単で、
自分の力でなんとでも変えられると思っていた
今までの自分は、笑えるほどおろかだった。
俺の父親が死に、罪人は墓を与えられないといわれ、
遺髪を受け取るように言われたが、
受け取っても恨み言を言うだけで、どうしようもなく手にあまった。
両親の、俺に対する愛情は、
子供の頃より余り感じられなかった。
仕事が忙しく、家に帰ることが少なかった父親。
だれかが、他の家に愛人を囲っていると教えてくれたのは、俺が5つの時。
母は、いつも美しく着飾り、外面がよく家では小言ばかりで、
俺の顔を見ると、不平不満ばかりを並べ立て愚痴をこぼしていた。
父に、母に、抱きしめてもらった記憶は一度もなかった。
俺の周りにいたのは、庭師のじいさんとその奥さんの家政婦。
幼馴染のミリアと、スミフ。
庭師の爺さんは以前、スミフの工場で木工細工師をしていた縁で、
一緒に前職場を尋ねて、スミフに会い、
スミフの母親とミリアの母親と仲が良かった縁で、ミリアと合った。
柔らかい物腰のスミフと、元気いっぱいのミリア。
直ぐに仲良くなって、何でも話せる仲になったし、
彼らと遊んでいる時は、自分の冷え切った家を忘れていられた。
それでも家に帰ると、とてつもない寂しさが俺を襲った。
その寂しさを紛らわすように、
庭師の爺さんが教えてくれた、
木工細工を片手間に作るようになった。
ただの木片が、自分の手の中で新たな物へと生まれ変わる。
その瞬間が途轍もなく好きになった。
その細工を褒められたのは、スミフとミリアそれぞれの誕生日。
スミフには船の木版画、ミリアには猫と花の木版画を送った時。
自分の作ったものを喜ぶ彼らの笑顔が、ただ嬉しかった。
凄い、かっこいい、可愛いとはしゃぐ彼らの態度が、満足感を与えた。
暖かな邂逅の日々。
ある日、久しぶりにかえってきた自分の父が、
俺の部屋の木工細工を、道具を、すべて取り上げて焼き捨てた。
父いわく、俺は役人になるのだから、目下のものとは関係を持つな。
父いわく、こんなみすぼらしい趣味を持つな。
父いわく、自分の息子らしく、自慢できる息子になれと。
子供心に父が怖かった。
殴るとか蹴るとかするでもないが、
人を常に見下す父の態度が。
自分がえらばれた人間であるかのような父の選民思想が。
自分とは違うと感じて怖くなった。
それでも、父親の息子でいたかったから。
どんな父でも、褒められ認めてもらいたかった。
側に、居て欲しかった。
だから、木工細工はやめた。
父に言われるまま、役人になると言い勉強した。
父と母に褒められるため、成績上位を取ることに集中した。
父と母に言われるままに、上位役人の娘と婚約した。
決められた線路の上を、ただ走り続ける事に、
周りが自分が見えなくなった。
だから、庭師のじいさんが死んで、その奥さんの家政婦が辞め、
俺の周りには、小言をいう母親と、
いつもくだらない世間話ばかりの新しい家政婦だけが残った時、
何も感じなかった。だた、むなしさだけが残った。
父の事件で、職を追われた俺は、
新たな職探しをしても、誰も雇ってくれなかった。
横領罪で捕まった父は、泥棒と同じくくりだったから。
泥棒の子供は泥棒だ。
世間の目は、風は、厳しかった。
スミフの父親が、自分の工房に、
下働き件事務員で雇ってくれたが、
そこで盗難騒ぎがあり、自分が一番に疑われた。
自分はしていない。
声高に訴えたが、スミフ以外は信じてくれなかった。
結局、犯人は、工房に出入りしていた、大砲職人の弟子だったが、
疑われ、問い詰められた周りの目が忘れられなくて、工房をやめてしまった。
スミフも止めなかった。
俺の言葉は、誰にも届かないし、信じてもらえない。
それは全てをあきらめた時に、わかったことだった。
周りの人間をわざと遠ざけ、
怒るように仕向け、心は決して見せない。
それでいい、俺の側から誰もいなくなれ。
そうやって、気がついたとき、俺の周りに残っていたのは、
くだらない言葉を交わす犯罪者達、
酒とばくちの関係者、
闇を背負う恐ろしい連中。
そして、リリーだけだった。
いつもいつも、優しい微笑みを浮かべ、
決して自分を否定しないリリー。
酒の力も借りて、リリーにすがりつき、
その体を抱きしめ、むさぼり、
自分の空洞を紛らわすように、リリーを酷く抱いた。
子供ができたと聞いたとき、動揺した。
リリーへの気持ちは、罪悪感で覆われていたから。
自分の都合ばかり優先して、
リリーの気持ちも体も労わったことは、一度もなかったから。
そして、あんな両親を持つ自分が、子供の親になる。
それは、苦く舌が乾くような、落ち着かない感覚に襲われる。
結婚式は、スミフとオーロフさんが立ち会っただけで、
リリーの両親も親戚も、誰も祝福に訪れることは無かった。
それでも、リリーは微笑んでいた。
だから、立ち直ろうと、リリーを信じようと、
神に誓いを立てた時に決めた。
リリーの子供ならば、愛せるかもしれない。そう思った。
しばらくして、子供ができていなかったことを、リリーから聞かされた。
ちょっと残念だったが、同時にほっとした。
自分の気持ちには変わりなかったが、
あんな事情でできた子供に背徳感があったからだ。
できてなかったなら、もう一度初めからやり直せる。
ある夜、結婚するために、リリーが嘘をついたのだと、
酒場で出会った、リリーの前職場の同僚から聞かされた。
俺は、はめられたのだと。
リリーが俺に嘘をついた。
そのことは、俺の誓いに、ヒビをいれ、
新たなる決心は壊れた。
俺は、リリーに嘘ばかりついているくせに、
リリーにつかれた嘘が、ただ許せなかった。
もう、誰の言葉も信じられない。
もう、誰の言葉にも動揺しないよう鍵をかける。
何重にもかけられ、自分でも、外すことが出来なくなった鍵。
なのに、あの子の言葉で心が動揺して、鍵がはずれかけた。
「弱虫」
「信じることを怖がっている」
「本当のことを言われたから怒る」
あの子の言葉が、どんどん俺の心に食い込んでいって、
守り固めて、堅くなった鎧に、鍵に沢山のヒビが入っていった。
そして、リリー。
ナイフの前に飛び出したリリー。
俺を庇うために、その命を投げ出した。
その瞬間、頭の中にあの子の言葉がするりと入ってきた。
「リリーさんを信じたいんでしょう。
貴方は、自分を、人を好きになりたいんです。
認めてください」
心の奥で、何かが音を立て、鍵が外れた。
それは、がらがらと崩れおち、
後に残るのは、俯いて小さくなった弱い俺。
小さく、愚かしいただの男の俺。
そんな俺を、暖かく癒し、満たしていくものがあった。
その何かに勇気づけられ、認めることに躊躇はなくなっていた。
そうだ、信じたい。
俺が、リリーに愛されていることを。
そうだ、信じたいんだ。
自分が誰かを、リリーを信じたい気持ちを。
そうだ、信じていたいんだ。
いまからでも、自分自身が変われることを。
誰かに後押しして欲しかった。
未来を夢見て良いんだと、誰かに言われることを、求めていた。
その気持ちが、どこからか光を呼び、ストンと胸に落ちてきて、
大きな光を胸いっぱいに広げた。
暖かい。
ああ、そうだ。
あの子が、言った。
「まだ、間に合います」と
この強い光とぬくもり。
これが、俺の胸にある限り、俺は信じられる気がする。
まだ、やり直せる。
俺は、光の中を歩いていける。
だから、信じよう。
あの子の強い目の光。
リリーの真実の愛。
リリーの言うとおりに、たとえ別れたとしても、
俺はリリーに側に居て欲しいと、何度でも告げよう。
愛していると言い続けることが出来るように、生きていこう。
くじけそうになるなら、
何度も何度も、繰り返し、自分に言い聞かせればいい。
そして、いつか、リリーに信じてもらえるように、
自分を偽らないで、歩いていこう。
そして、いつの日か、必ず手に入れられることを信じる。
俺は、本当に求めていた暖かな人生と未来を、
夢見ることを決して忘れない。
もう、嘘はいらない。
********
雨の降りしきる中、やってきたのは警邏の人たちではなく、
スミフさん、カゼスさん、何人かのお店の常連の人たち、そして、レヴィ船長とカース。
「ここです。皆、助けてください」
大きな声を張り上げて、皆に、
ぐったりとした2人を馬車まで運んでもらった。
後からやってきた警邏の人たちに、
雷に打たれて、立ったままの真っ黒漕げのボスを指差し、
警邏に気をつけて運ぶように言い、自分も馬車に乗り込んだ。
そして、馬車を可能な限り走らせ、待ち構えていたセランのいる
警邏の宿舎に2人を運び込んだ。
幾人かの警邏の人たちとセランの前で、
何が起こったのか簡単に説明した。
捕まって売られそうになったけど、
割符が違って売られずに済んだこと。
闇市の犯人達は、水路を使って逃げたこと。
そして、捕まったはずのボスが、
警邏の誰かにその縄を解かれ、
チェットさんを殺すため、私達を待ち構えていたこと。
ボスがナイフを振り下ろした時に、
雷がナイフに落ちて感電したこと。
そして、二人がその側にいたこと。
緊張しながら、それらの事情を話し、
セランや警邏の人々が所々で頷く。
私は、その横目で、チェットさんとリリーさんの様子を見ていた。
ボスは真っ黒になっていたけど、2人の体に焦げた様子は無い。
でも、雷が、あんな近くで落ちたのだ。
2人は、本当に大丈夫なのだろうか。
ばくばくという心臓の音を宥めながら、
両手をぎゅっと握り締め、セランの診察が終わるのを待った。
2人の診察を終えたセランの言葉。
「だたのショックで気絶しているだけだ。
直に気がつく」
はあああ
大きく安堵のため息がでて、そのまま、私の体から力が抜けた。
へなへなと床に座り込んだ。
「よかったー」
手のひらを床に着き、ぐらぐらとする頭を支える。
「メイ、しっかりしろ」
私の背後から、ぐっと抱きしめられる暖かな硬い胸。
見上げると、ずっと逢いたかったその人が、
恋しかったレヴィ船長の緑の目が私を見詰めていた。
ああ、かえってきたんだ。
もう、大丈夫。
ここは、安心できる場所。
もう、怖くない。
そう思った時に、涙腺が壊れたように涙が出てきて、
自分でも止められなくなった。
背中のレヴィ船長のぬくもりが嬉しかった。
それでまた、ぼろぼろと涙がこぼれた。
嗚咽とともに、レヴィ船長の抱きこまれ、
レヴィ船長の服を盛大に濡らす。
「大丈夫。 もう、大丈夫だ。俺がここにいる」
レヴィ船長は、私の耳元でささやいた。
その低い声は、耳に優しい感触を残した。
大きな硬い指で、私の顔や髪をなで、涙の跡をぬぐい、
背中をさすってくれた。
レヴィ船長の香りで囲まれ、深呼吸する。
そして、胸に顔をうずめながら、目を瞑った。
そのまま、コトンっと糸が切れるように、意識を失った。
その時、私の胸元の玉に、もう一色。
黄色が新たに追加されて、4色の玉になっていた。
気づくのは、こんこんと寝て、翌日早朝に目をさましてお風呂に入る時。
その時の私は、ただただ疲れ果て眠りたかった。




