嘘でない本当のことです。
チェットさん、一体貴方は何をしていたんですか。
リリーさんを助ける王子様の出番は、もう終わってしまいましたよ。
どうやら、外は雨が降り出しているらしく、
チェットさんの髪や服は、軽く水滴を含んで濡れていました。
呼びかけられた声にリリーさんが顔を向けると、
チェットさんはちょっとほっとした顔をしていた。
のに、なんででしょうね。
「のろまだね、リリー。あんな奴らに捕まるなんて、
みっともない」
(助かってよかった)
あいかわらず、へそ曲がり具合180度です。
それに、怖く大変な思いをしたであろう奥さんに、
言うセリフとしては0点です。
「さっさと、帰るよ。あんまり、俺の手を煩わせないでよ」
(家に帰ろう)
私には、チェットさんの本音が聞こえているのですが、
リリーさんには聞こえないのですよ。
だからそんな言い方すると、リリーさんは怒っちゃいますよ。
いえ、リリーさんが怒らなくても、ここは私が。
そう思って、リリーさんの前にずいっと出ようとしたら、
リリーさんに、腕を軽く引っ張られて止められました。
何で?
リリーさんを見返すと、首を横に振られ、
その目には、何も言わないんでくれという意志がはっきりと示されていた。
リリーさんは、さっきから浮かべていた、ふわりとした優しい笑顔を
見せながらチェットさんに返事をした。
「チェット、心配かけてごめんなさい」
その言葉に、私は心で、何故?って問いかけたかった。
もともと、チェットさんのお陰でこんなことに巻き込まれたんですよ、リリーさん。
「心配?そうでもないよ。
面倒ごとを起こさないで欲しいって心配ならしたけどね」
(気にしなくて良い。心配させてくれ)
いちいちの、チェットさんの言葉と本音のつりあいの無さに、
がくっと肩が落ちそうになります。
リリーさんは、そのままの笑顔で、チェットさんの失礼極まりない言葉に耐えている。
私だったら、多分、穴を掘って、チェットさんを埋める計画を立てるかもしれない。
「そう、そうね。心配かけたのでなければ良かったわ」
眉をちょっとだけ下げて、柔らかな笑顔のリリーさん。
「リリー? 何が良かったの?」
(何かオカシイ。リリー、何があった?)
チェットさんの軽口が、ちょっとだけ重くなった。
「安心して、チェット。もう、これで、最後だから」
リリーさんは、一気に息を吐きながら言葉を一緒に紡ぐ。
「最後?」
(どういうことだ?)
チェットさんの右手が、リリーさんに伸ばされた。
その手が肩にたどり着く前に、リリーさんの言葉が追い討ちをかける。
「貴方を解放するわ、チェット。
もう、私の側に、無理に居てくれなくていいの」
リリーさんは、チェットさんの正面に立ち、顔を見上げて視線をあわす。
「リリー? 解放って、いったい……」
(側に居なくていいってどういうことだ?)
チェットさんの顔が、困惑で白くなる。
リリーさんは、チェットさんの様子を見て、
その目を閉じて、そして、ゆっくりと開けた。
私は、その時、わかった。
リリーさんの心は、もう悲鳴を上げてない。
以前に見た壊れそうな、何かに押しつぶされそうなリリーさん。
その片鱗はどこにも見当たらない。
ああ、リリーさんは、自分の中で見つけたんだ。
いい方向に向かう為に、未来の為に、決めたんだ。
チェットさんと別れることを。
はっきりとした口調で、チェットさんに告げた。
「別れましょう、チェット。
今まで、夫婦として一緒に居れて、本当に嬉しかった」
リリーさんの言葉にも表情にも、全くといって躊躇が無い。
別れの言葉を言われたチェットさんの顔は、いきなりの別れの宣言に困惑を隠せない。
「別れるって? 今、何?
今まで、嬉しかったって、嘘も休み休み言ったらどうだ。
なれない冗談も大概にしろ」
(嘘だ、冗談と言ってくれ。リリー)
淡々と同じ口調で、言葉を話すリリーさんに対して、
どんどん声が、大きく荒くなるチェットさん。
声に反比例するように、小さくか細くなるチェットさんの本音。
「いいえ。チェット。 私は、本当に別れようと言ってるの。
本当は、貴方に別れを告げるには、遅すぎたかもしれない。
もっと早く、貴方を解放してあげるべきだった。
ごめんなさい、チェット」
チェットさんの、リリーさんに伸ばした手が震えていた。
その震えさえも、今のチェットさんには、感じることすら出来ないだろう。
呆然としている。
それが、一番正しい表現だろう。
なにも言えなくなっているチェットさんの目の光が、
だんだん弱くなっていく。
「そして、貴方と結婚していろいろあったけど、
それもすべて含めて、私は幸せだったの。だから、嘘ではないわ」
リリーさんに伸ばした手は、迷った挙句に、そのまま上にあがり、
チェットさんは、自らの頭に手を差し込み、蜂蜜色の髪をぐしゃと潰した。
(君も、やっぱり皆と同じなのか)
(君まで、俺を捨てるのか)
チェットさんの、心の声が絶望の色に染まっていく。
どんどん小さくなっていく。
手の影で、顔は全く見えない。
でも、チェットさんは、手の震えも、心の動揺も、
髪を掻き揚げるしぐさに、まぎれこませていた。
そして、すべてを隠すかのように、後ろを向いた。
「わかった」
(もういい)
ぼそりとつぶやいたチェットさんの返事。
でも、それ以上に小さなチェットさんの本音。
否定され、放棄した、チェットさんの本当の心。
チェットさんの顔が、人形のような感情の全くない表情をしていた。
その様子は、今までのチェットさんですら、無い表情だった。
人形のような、自分の意志すら、感じさせられない。
人間であることすら放棄した、失った友人の顔と、重なる。
違う、そうじゃない。
チェットさん、間違ってる。
そう、思ったとき声が出ていた。
「チェットさんの、弱虫」
私のいきなりの暴言に、意表を疲れたチェットさんとリリーさん。
でも、いち早く反応したのは、チェットさんでした。
「なんだよ、よそ者は引っ込んでろ」
忌々しそうに、鋭く反論してきた。
小さくなってしまった本音は聞こえない。
「本当は、リリーさんにずっと側にいて欲しいって、言いたいくせに」
答えて、チェットさん。
心を閉じるには、簡単すぎる。
あきらめるには、早すぎる。
「お前には関係ないだろう」
関係ないで、終わらすわけないでしょう。
あんなに、リリーさんを好きなチェットさんの心を否定してしまうなんて、
間違ってる。
放棄なんてさせない。絶対に。
私の頭の中に、自分でも抑えることができない
強い感情が渦を巻いていた。
過去の自分への決別?
そんなものじゃない。
自分勝手なことを言ってるのは、わかってる。
でも、同じことを繰り返すの?
放っておくの?
答えは、否だ。
「関係? なくてもあるのよ。
いい加減、嘘をつくのはやめてください、チェットさん」
チェットさんは、私の挑発に鬱憤を晴らすかのように、
乱暴に言葉を返してくる。
顔は相変わらず能面のよう。
まだ、聞こえない。
「嘘? どうして俺が嘘をついていると思うんだ。
お前にわかるわけが無い。俺ですら、もうわからないのに」
それも、これも、皆、嘘。
心の声は、まだまだ聞こえない。
チェットさんは、全部を嘘で塗り固めて、本当が見えなくなってるんだ。
「わからない?
いいえ、わからない振りをしているだけ。
本当は、怖くて、震えているだけ」
駄目、チェットさん。
心を消してしまわないで。
本当は、チェットさん自身もわかっているはずなのに。
心を消すことで、自分を守ろうとしているってこと。
でも、それでは守れないんですよ。
「怖い? 何が怖いんだ。
俺には、怖いものなどないよ」
鼻先で、ふんっと笑った、けど、顔は相変わらず。
嘘の鎧は、なかなか頑丈だ。
「ずっと、人を試すような言葉ばかり言ってるのは、何故ですか?
その人を、信じたいからでしょう。
でも、信じたい自分をも、信じられない。
だから、突き放すんですよね」
そうだ。
いつもいつも、挑発するような言葉ばかり選んで口にしていた。
あれは、試していたんだ、他人を、そして、自分を。
「わかったような事ばかり、言ってるんじゃない。
もう、いい加減にしてくれ」
チェットさんは、苦しげな、いらいらしている顔を私に向けた。
でもその顔に、以前、倉庫で見せた一瞬の顔、
リリーさんを心配し、心から求める本当の顔が重なった。
あのとき、リリーさんを助けたいって顔に描いてあった。
どうしたら、あんな顔を引き出せる?
ぐるぐると、頭の中で自問自答しながら、口に出す。
「チェットさんは、認めてしまうのが、怖いんです」
無意識に出した言葉。
そうだ、そうだったんだ。
自分で納得する。
「認める? 何を」
チェットさんの、目の奥の光が揺らぐ。
「リリーさんの心を信じることを、怖がっている。
そして、そんな自分を認めることを怖がっているんです」
そうだ、だから、弱虫って言葉が最初に出たんだ。
いままで、チェットさんの暴言に対して、いろいろ文句を言いたいと
思っていたけど、最終的にでた言葉は、それだった。
「…なにを馬鹿なこと。あんまり言葉が過ぎると、本気で怒るよ」
顔は、だんだん感情が出てきたけど、それは嘘の感情表現。
「本当のことを言われたから、怒るんでしょう。
チェットさん、認めてください。
そして、嘘から出てきてください。 まだ、間に合います」
まだ、間に合う。
その言葉に、チェットさんの目の奥の光が揺れた。
動揺してるのは、今までの自分を捨てる覚悟が出来てないから。
本当のチェットさん、出てきてください。
「もう、いい加減にしてくれ。 俺をほっといてくれ」
(本当に?まだ間に合うのか)
聞こえた。
小さいけど、確かに聞こえた。
嘘の鎧に、ヒビが入り始めた。
「チェットさん、彫刻とか、細かいことするのが、得意なんですか」
「は? だから、なに?」
(そうだよ)
「あの獅子のパイプセット、素敵だった」
チェットさんの目が、びっくりしたように瞬きを繰り返した。
「私の大好きな人に似ているって、そう思ったんです。
雄雄しいのに優しい目、同じだったんです。
あんな獅子の彫刻をつくれるなら、間に合うはずなんです」
チェットさんの目は私の言葉の続きを促す。
「貴方は、自分を、人を好きになりたいんです。
本当は、人に優しくしたいんです。
気がついてください、チェットさん。
一歩を踏み出す勇気を持ってください」
チェットさん、失くしてからでは遅すぎるんです。
食い入るように、私の顔を見ているチェットさん。
私の後ろで、息をのんで、私達の会話を聞いていたリリーさん。
貴方達のすれ違いは、嘘で終わらせてはいけないんです。
そんな悲しいことは、あってほしくない。
その時、木をノックする音がした。
ドアの方を振り返ると、オーロフさんが、扉の内側に立って、木の扉を叩いていた。
「教会の説教よりも聞き応えがあるが、そろそろ場所を変えてくれないか。
雨が酷くなってきたし、そろそろ移動しようと思うんだが、どうだい」
オーロフさんは、顎をしゃくって、外へと私達を促した。
私達は頷き、外に向かって歩いていった。
リリーさんは、私の袖をぎゅっと掴んでた。
顔をみると、不安げな表情が浮かんでいた。
私は、にっこりと微笑んで、リリーさんと手を繋いだ。
リリーさんは、にっこり笑って、ぎゅっと私の手を、握り返してくれました。
チェットさんを先頭に外に出たら、外は雨です。
何台かの馬車が、残っているだけで、
あれだけいた沢山の警邏の人たちは、居なくなっていた。
オーロフさんは、一番右端の馬車を指差した。
建物の軒下に入るように、何台かの馬車が止まっていた。
「あれに乗ってくれ。まずは医者だ。警邏に医者を配置してる。
まずは、治療を受けてくれ。 それから、家に送り届ける」
医者?
こんな時間なのに、診察してくれるんですか?
親切なお医者様ですね。
「メイさん。セラン先生が待っているぞ」
うぐ。
セラン? 警邏で待っているのはセランなんですか?
「かなり、ご立腹だ。しっかりと怒られてくるんだな」
オーロフさんは、にこにこと嫌なセリフを言う。
肩に重石が、ずしって乗った感じです。
足が重く感じますよ。
「まあ、俺からちょっとだけ補足を入れとくよ。
あまり、怒ってくれるなってな」
本当ですね。
絶対ですよ。
涙目で、オーロフさんを見上げた。
雨が、だんだん酷くなってきて、真っ暗な景色が、雨に閉ざされたように感じた。
雨音が激しさを増して、バケツの水をひっくり返したような雨だった。
1m先の足元が怪しいほど、雨水が跳ね上がって、音を激しくする。
溜まった水溜りが、排水溝に流れ込んで、ずずずっと鈍い音を立てていた。
オーロフさんを誰かが呼びに来た。
緊急のようで、オーロフさんは、急いで馬に乗って、
その人と一緒に駆けていった。
待ってください。補足はどうなるんですか?オーロフさん。
なんなんですか、私を窮地に押しやるあの男の人は。
うん? 見覚えがある男の人。
あれ? 確か、ボスのところにいた厳つい大男です。
あの、するっとの妙技を、披露してくれた人ですよ。
あの人、警邏だったんですか。
びっくりです。
人は顔じゃわからないんですね。
明らかな悪人顔でも警邏だったなんて。
ちょっとだけショックでした。
軒下で、お互いに先を譲歩しあうチェットさんとリリーさんに、
いい加減しびれをきらして、先に馬車に乗り込んだ。
何をしているんですか。
チェットさんもリリーさんも、
お互いに何かを言いたそうで言わない。
じれったさに、しびれがきれそうになった時、聞こえるはずの無い声が外からした。




