FILE No.5「地縛荒神」
ペースが相変わらず遅いけども、続きなんとか完成しました。
見てくださってる方、マジありがとうございます。見られてるって思ったらモチベ上がるんで、頑張っていきます。本編長くなりましたが次は短くしようと思います。
スタンス的には あ、なんか続きあるわ。暇だし見るかとかそんな感じで
見てもらえたらと思います。
夜は、どこか鈍い色をしていた。
駅前のロータリーは人の流れが絶えず、その喧騒の中にいても、怜は妙な居心地の悪さを感じていた。
理由は分かっている。
ポケットの中のスマホ。
3時間程前だった。
ー「仕事が入った」ー
木庵から告げられた次の祓いの仕事。
怜本人はまだ、猿夢を祓った時の感覚を引き摺ったままではあるが、木庵の言葉もあり、前に進もうとしていた。
怖い。その思いだけは胸に秘めたまま。
自分で頑張れるのか、また死ぬ程危険な目に遭うのだろうか。
それらの感情がぐるぐると体を回っていく感覚。
「本当に私でいいのかな…」
怜は小さく呟く。
でも、行かないという選択肢はなかった。
怜は人混みを抜け、本部へと向かう。
駅から少し離れた、見た目は廃れたビル。ビルの中に入りエレベーターのボタンを押し、地下に降りていく。
エレベーターを降りて歩き出したその先に、黒い車が停まっていた。
見覚えがある。木庵がいつも乗っている型落ちの年季が入った黒いコンフォート。
ドアに寄りかかるようにして、木庵が煙草を咥え煙を吐き出していた。
「……来たか」
顔も上げずに言う。
怜は少しだけ足を止めてから、近づく。
「私、頑張るって決めたので」
「…そうか」
木庵は短く、そう呟くと吸い込んでいた煙を思い切り吐き出す。
「で、次はどんな怪異なんですか?」
恐らく木庵はこのままだろうと判断した怜は、自身を呼び出した理由を問いかけた。
問いかけると、木庵はようやく視線を向ける。その目が、ほんの僅かだが鋭い。
「ざっくり電話で説明したかもだが、廃神社に憑いていた下級の土地怪異が覚醒した」
「上級案件って言ってましたよね?どのくらい危険なんですか?」
「かなりヤバい」
木庵は即答した。
木庵の強さはまだ断片的ではあるが、少しは理解していたつもりだ。
気怠さの中に余裕を持ち、ピンチの中でも最適解を導く。
そしてなんとかする。それが怜の現時点での木庵に対する率直な感想だ。
その木庵がハッキリと「ヤバい」と告げた。
それだけで、十分だった。怜の肩が小さく強張る。
「大丈夫だ。絶対にお前は死なない」
「…木庵さん」
そんな怜の様子を見ていた木庵が短く告げる。
さっきまでダルそうにタバコを吸っていた木庵の表情は怜を真っ直ぐに見据えていた。
それ以上は言わない。必要ないからだ。
沈黙が落ちる。
「乗れ」
木庵は短く言う。
怜は一瞬だけ迷ってから、助手席に乗り込む。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
――――――――ーーーー
車は、夜の街を抜けていく。
街から離れて行くにつれ、街灯もまばらになる。
やがて住宅街を過ぎ、さらに奥へ。
怜はシートベルトを握ったまま、視線を落としていた。
考えないようにしても、移動中に木庵から告げられた言葉が頭から離れない。
「既にウチの人間が3人殉職した」
殉職。
それがどういう意味か、分からないほど子供じゃない。
「……」
息が浅くなる。気づかれないように、そっと呼吸を整える。
ラジオから流れる番組だけが辛うじて現実を繋ぎ止めている感覚。
しばらくしてから、
「ビビってるか」
不意に言われる。
怜は少しだけ顔を上げる。
「……当たり前じゃないですか」
強がる余裕もない。正直に答える。
木庵は小さく息を吐く。
「そうか」
それ以上は何も言わない。励ましもしない。
ただ、それだけ。
でもそれが、逆に少しだけ楽だった。
変に扱われるより、よっぽどいい。
やがて山の麓まで車を走らせ、立ち入り禁止の看板や厳重に封鎖されたフェンスを超え、山道に入る。
舗装が荒くなり、揺れが増える。周囲は完全に闇だ。
月明かりがある筈なのに一切見えないような完全なる闇。
周囲の気配は消えている。
「……ここ、どこですか」
「もうすぐだ」
短い返答。その時だった。
ふっと。
空気が変わる。
窓の外。
森の奥に、何かが“溜まっている”。
見えない筈なのに、分かる。
重い。
淀んでいる。
胸の奥がざわつく。
「……なに、これ」
思わず呟く。
木庵がわずかに視線を向ける。
「感じるか」
怜は小さく頷く。
言葉にし辛い違和感。
嫌な感じ。
近づいてはいけないものに、近づいている感覚。
やがて、見えてきたのは麓の厳重な封鎖が霞む程のバリケードやフェンス。入口を閉ざすように木々の間から垂れ下がった大量の札を貼り付けた
注連縄。
木庵は車を止め、エンジンを切る。
静寂。
ドアを開けると、重く冷たい空気を肌に感じる。
夜の山。
虫の声すら、聞こえない。
代わりに、耳鳴りのような圧がある。
怜は車から降りる。
足元の砂利が、やけに大きく音を立てる。
木庵はトランクを開け、準備を始めた。慣れた手つきで銃に弾を込め、祓いで使う道具を次々とバッグに放り込んで行く。
そして怜にも以前、初めて使った拳銃と道具を入れる用にバッグを渡す。
木庵から受け取った怜は、ぎこちない手付きで拳銃にマガジンを装填し、予備のマガジンと木庵から手渡された他の道具をバッグに詰め込む。
準備を終えた木庵はコートの内ポケットからタバコを取り出すと早速、火を付けタバコを吸い出した。
「この先だ」
木庵が顎で示す。
怜は思わず足を止める。
フェンスの向こう側、深い闇の中だがハッキリと分かる。
“普通じゃない”。
空気が淀んでいる。自分はこれからそこに足を踏み入れようとしているのだ。
「……行くんですね」
「来たからな」
当たり前のように言う。
怜は一瞬だけ目を閉じる。
怖い。
正直にそう思う。
でも――
「……はい」
小さく答える。
逃げない。逃げられない。
それだけを、自分に言い聞かせる。
その時。
自分達が来た方向から、このような山の中に似つかわしくないエンジン音を響かせ、スポーツカーのヘッドライトが2人を照らす。
「来たか」
やがて、ライトが消え暗闇の中から、一人の男が姿を現す。
月明かりが男の姿をぼんやりとだが、スポットライトのように映し出す。
着崩した法衣にミディアムパーマ。手には錫杖。
足取りは軽いが、隙がない。
怜は思わず息を呑む。知らない人間。
でも、なんとなくだが分かる。
同じ側の人間だ。
男は途中で止まり、こちらを見る。
一瞬の沈黙。
それから、口元だけで笑った。
「よう、待たせたな」
軽い口調。
だが目は笑っていない。
「来やがったな」
「面倒な仕事だ」
そう言ってから、視線を怜に向ける。
ほんの一瞬。
観察するように。
「そいつか」
短く言う。
木庵が答える。
「あぁ」
怜は戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
見透かされるような、冷たい観察。
怜は無意識に背筋を伸ばし、小さく頭を下げた。
「……篠山 怜です」
「よろしくな。俺は斎蔵院 宗近だ。こう見えてエリートで上級祓い屋だ」
宗近はそれに対して、ほんのわずかに顎を引くだけだった。
興味があるのか、ないのか分からない。
宗近は軽く自己紹介をして、怜との会話はそれで終わった。
「この辺の結界はお前か?」
木庵が聞く。
宗近は石段の上を親指で示す。
「そーそー、素人が入ったら困るしな」
短い会話。
怜の喉が乾く。
足が少しだけ震える。
怜の不安など、どこ吹く風で宗近が言う。
「行くぞ」
躊躇はない。木庵も動く。
怜は一瞬だけ遅れる。
暗い石段。
その先にあるもの。
怜の足が、ほんの少しだけ後ろに引きかける。
行きたくない。
本音が、喉の奥で形になりかける。
でも。
言えない。
言ったところで、何も変わらないのが分かっている。
2人は先に歩き出し始めた。
怜は一瞬だけ立ち尽くしてから、歯を食いしばって歩き出した。
山道を15分程歩き、鳥居に辿り着いた。
石段を上り始め、所々滑る。
苔が水分を含んでいて、足裏に嫌な感触が伝わる。
一段、一段。
登るたびに、空気が濃くなる。
息が重い。
肺に入る空気が、どこか粘ついている。
鳥居をくぐる瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。
そう感じる。
境内は、広くはない。
だが、妙に遠い。奥に社が見える。
屋根は崩れ、壁は半分以上朽ちている。
それでも、そこだけが異様に“残っている”。
壊れているのに、崩れていない。
そんな違和感。
その前で、宗近が足を止めた。
木庵も止まる。
怜は一歩遅れて、立ち止まる。
風が止み音が、消える。
——いる。
そう分かった瞬間だった。
「さーて、お出ましだぞ」
「なるほど、確かにこれは上級だな」
社の奥。
闇の中に、何かが“いる”。
見えていないのに、分かる。
脳が認識を拒み、視界が拒絶している。
それでも、意識がそこへ引き寄せられる。
黒い。
いや、黒ではない。
色として認識できない何か。
輪郭があるのに、形が定まらない。
視線を合わせた瞬間——
吐き気が込み上げた。胃の奥がひっくり返る。
喉が焼ける。頭がぐらりと揺れる。
「あ……」
声が漏れる。それは、“見てはいけないもの”だった。
人の形をしているようで、していない。顔があるようで、ない。
目の位置にあるはずの場所が、ただの深い穴になっている。
その“穴”が、こちらを見た。
見られた、という感覚が、皮膚の内側に刺さる。
ぞわぞわと、何かが這い上がってくる。思考が濁る。
言葉が出てこない。
ただ、理解だけがある。
——危険だ。
本能が叫ぶ。
逃げろ、と。
だが足が動かない。
地面に縫い付けられたみたいに、動かない。
地縛荒神。
"ソレ"は、そこにいた。
存在しているだけで、周囲の空間を歪める。
空気が腐る。
音が沈む。
そんな感覚が肌を通じて伝わる。
時間の流れすら、どこかおかしい。
見ているだけで、削られる。
理解しようとした瞬間に、拒絶される。
それでも、目が離せない。
視界の奥で、何かがじわじわと滲む。
気づいた時には、指先が震えていた。
呼吸が浅い。
胸が痛い。
「……っ」
怜は無意識に一歩下がる。
その瞬間。
地縛荒神の“穴”が、わずかに開いた。
空気が裂ける。
圧が押し寄せる。
逃げ場がない。
——来る。
その確信だけが、全身を貫いた。
廃れた神社の境内から、"ソレ"は形を変えていく。
まるで大地そのものが膿を孕み、そこから垂れ流すように形を得た存在。
巨躯は人型を模してはいるが、まともに「人」とは呼べない。
頭部には顔らしきものが複数、しかしそれらはどれも中途半端に崩れ落ち、口は裂け、眼は白濁し、何かを訴えるように口々をぱくぱくと開閉している。
両腕は異様に長く、骨ばった指は地面に突き立ち、まるで大地を這う根のように神社の敷地へとめり込んでいた。地を伝い、血のように赤黒い脈動が境内全体を覆い尽くし、土が呻き声を上げるかのように蠢いている。
体表には、乾ききった皮膚と膿のような肉塊がまだらに貼り付けられ、ところどころから白い骨が覗いていた。肉が裂ける度に、そこからは黒煙と蛆虫が噴き出す。腐臭は境内どころか山ひとつを覆い尽くすほど濃く、吐き気と目眩を誘う。
耳を澄ませば、風でも虫でもない音が響く。それは、地縛荒神の体内で押し潰された魂の呻き。幾百もの亡者が、肉の奥から絞り出すように呻いていた。
返せ……
殺す…
寒い……
痛い……
だが、そこに宿る感情は明確だ。
――排除。
侵入者を、土地から消し去るという、単純で強固な意思。
その声が木庵や宗近、そして怜の耳を揺らし、まるで直接脳髄に流し込まれるように侵食していく。
そして、それはゆっくりと首をもたげた。
複数の顔が同時に木庵たちを見据え、眼のない眼孔から黒い涙を垂らす。
次の瞬間、地縛荒神は大地を揺らし、無数の腕のような根を伸ばして襲いかかってきた。
その一撃は、ただの怪異の暴力ではない。
土地そのものを縛り、神域を腐らせ、祟りそのものと化した怨念の奔流だった。
地縛荒神の咆哮が、神社の廃墟を突き破った。
境内の石灯籠が粉々に砕け、鳥居の柱がねじ切れる。まるで土地そのものが拒絶しているかのようだ。
「噂以上だな、こりゃ」
宗近は片手で数珠を弾いた。
漆黒の数珠玉から青白い火花が散り、符のように周囲へ散布される。結界が瞬時に展開され、荒神の膂力を直接受け止める前に緩衝を張ったのだ。
「流石、上級サマの力は俺なんかと比べるまでもねぇな」
その様子を見ていた木庵はタバコの煙を吐き出しながら、銃を構えた。
「篠山、下がれ。そこから動くなよ」
木庵の声は低く、静かだった。
怜はその言葉に反射的に後退した。
足がまだ震えている。だが、言われた通り、社殿の陰へと身を寄せる。
木庵と宗近は、すでに前に出ていた。
「やっぱ、ただの土地怪異じゃねぇな」
「神域の残骸に、相当数の怨念が絡んでる」
木庵は頷き、符を構える。
「土地そのものが依代か」
「だろうな。祓っても、削っても、簡単には死なない」
宗近が地面に札を打ち込む。
次の瞬間、地面に文様が走り、結界が展開された。
地縛荒神が、動いた。
重い。
ただ一歩踏み出しただけで、空気が圧縮される。
地面が爆ぜ、土と石が弾丸のように飛び散る。
木庵はその場から飛び上がり、木を足場に飛来する石礫を躱しながら、手にしている銃を発砲した。
だが、手応えは薄い。
「これじゃダメージ低いな」
地縛荒神の腕――否、土地の一部が変形した塊が、横薙ぎに振るわれる。
宗近が即座に割り込み、印を結ぶ。
「――鎮」
結界が一瞬、実体化し、衝撃を受け止める。
衝撃波が走り、2人は後方に下がる。
「おー、危ねぇな」
宗近が着地し、足元を確認する。
「確かにコイツが相手じゃ、下級はそりゃ死ぬな」
「あの子は?」
「無事だ。今のところは」
宗近は一瞬だけ、社殿の陰を見る。
怜は膝を抱え、必死に息を整えていた。
荒神が、再び動く。
今度は地面そのものがうねり、2人の足元を飲み込もうとする。
木庵が符を撒く。
「――封」
符が地面に突き刺さり、瞬間的に動きを止める。
だが、それも一瞬。
「さて上級サン、どうする?」
「おいおい、まさか俺がこんなレベルだと思ってんの?」
2人の戦いを陰から見ていた怜は歯を食いしばる。
「……っ(これが上級の怪異…これが上級の祓い屋…)」
動くな。下がれ。
そう言われている。
木庵と宗近の戦闘は、さらに激化する。
地縛荒神は、土地を媒介に、次々と形を変える。
腕が増え、口が裂け、社殿の柱を引きずり込み、肉のように融合させる。
宗近の術式が、次々と放たれる。
だが、決定打にはならない。
「流石にこの程度じゃダメだな」
宗近の声に、苛立ちはない。
あるのは、冷静な評価だけ。
木庵が、短く言う。
「核が深い」
「だろうな。土地ごと焼くか?」
「バーカ、熊退治するのに山火事起こす気か?」
2人は、軽い言葉だけで意思疎通をする。
その様子を見ながら、怜は思った。
――自分は、ここでは役に立たない。
いや、違う。
役に立たない方が、まだいい。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
怜の身体の奥底から何かが反応している。
空気が、壊れた。
音ではない。衝撃でもない。
“場”そのものが、耐えきれずに軋む感覚だった。
地縛荒神の巨体が、更に形を変える。
社殿を中心に、地面が脈打ち、盛り上がり、裂ける。
「ったく、コロコロと姿変えやがって」
「攻撃来るぞ、備えろ」
宗近が短く言った瞬間だった。
荒神の胴体が、崩れるように分解し、無数の“腕”へと変わる。
それぞれが土地の怨念を凝縮した、鈍く黒い塊。
それが、無差別に叩きつけられた。
結界が一つ、弾け飛ぶ。
木庵が即座に符を展開するが、追いつかない。
「篠山!」
初めて、木庵の声が少しだけ強くなる。
怜は、身を屈めた。
だが、遅かった。
地縛荒神の一撃が、怜がいた木の陰を直撃する。
轟音。
木が砕け、土砂が崩れ落ちる。
「――っ!!」
身体が宙を舞った。
何かに打たれた感覚すら、曖昧だった。
ただ、全身を叩きつけられ、息が止まる。
視界が、暗転しかける。
「……篠山!!」
木庵の声が、遠くで聞こえた。
怜は、地面に転がりながら、必死に呼吸をしようとした。
だが、空気が入ってこない。痛い。痛い。痛い。
全身が焼けるように熱く痛む。
そして、胸の奥底からドロリと漏れ出るような黒い感情。
――まただ。
この感覚。
先程、地縛荒神と邂逅した時にも感じた。
死が、すぐそこまで来ている。
『……a33¥<○^#』
声にならない声で言っている意味は分からない。
ザラザラとした声が、怜の脳内にハッキリと響いた。
魂の内側を、直接撫でるような声。
『k@〒:0|$ⅰ[7<…』
怜の視界に、歪みが走る。
怜は、唇を噛んだ。
「……や、やめて…」
地縛荒神が、再び怜へ向けて腕を振り上げた。
木庵が割り込もうとするが、間に合わない。
「――クソッ!!」
木庵は地縛荒神に目掛けて銃を発砲する。
だが、その瞬間。
怜の中で、何かが“爆ぜた"。
音はしなかった。
だが、世界が一瞬、静止した。
地縛荒神の動きが、止まる。
怜の身体から、影が伸びる。黒い霧が足元から漂い始めた。
空気が、冷えた。
否。
冷えたのではない。
最早、温度という概念が、削り取られたような感覚。
怜の足元から、黒い亀裂が広がる。
「……コイツが例の」
宗近が、初めて言葉を失う。
木庵も、動きを止めた。
怜の身体が、ゆっくりと起き上がる。
だが、立ち上がった怜の背後に"ソレ"は浮かび上がっていた。
"ソレ"が、地縛荒神を見る。
ただ、それだけで。
地縛荒神が、震えた。
――恐怖。
明確な感情が内側から流れ出す。
『借り物の神格で、よく吠える』
声が、重なって聞こえた。
怜の声と、もう一つ。
全く別の“位相”から発せられた声。
怜が一歩、前に出る。
地縛荒神の巨体が、後退する。
土地そのものが、拒絶反応を起こす。
「木庵」
宗近が、低く言う。
「コイツは…」
「あぁ、お出ましだ」
木庵は拳を強く握っていた。
怜の身体から立ち上る黒い霧は、揺らぎながら、次第に形を成していく。
全身を覆うのは、時代錯誤な甲冑。
黒鉄を基調としたそれは、装飾の少ない実戦用の造りで、無数の傷と刃こぼれが刻まれている。
兜の下から覗く顔は影に沈み、目だけが鈍い光を宿していた。
その存在が一歩踏み出すだけで、空気が軋む。
木庵は言葉を失っていた。怜の中の存在を“見極める”つもりだった。
だが、これは想定を遥かに超えている。
怜は、ゆっくりと視線を下ろした。
足元に転がっていたのは、先ほど荒神の一撃で折れた社殿の木材。
怜はそれを拾い上げた。
次の瞬間。
木材が崩れて別の形に変質する。
木目は消え、漆黒の刃へと姿を変え、刀身には不気味な光が走った。
鍔も、柄も、いつの間にか存在している。
「……概念武装か」
宗近が、思わず息を呑む。
怜は刀を一度、軽く振った。
それだけで、空気が裂けたように錯覚する。
『――戯れ言、甚だしい』
感情の起伏はない。
だが、その声には圧倒的な“格”があった。
『地に縛られ、神を僭称するか。笑止』
地縛荒神が、咆哮を上げる。
土地の怨念を束ね、全力で抗おうとする。
だが。
怜は、踏み込んだ。
一振りの斬撃。
ただそれだけ。
地縛荒神の巨体が、縦に裂けた。
悲鳴すら上げる暇もない。
存在そのものが、切断され、崩れ落ちる。
「一撃か」
宗近が呟く。上級の祓い屋として、地縛荒神クラスの怪異なら幾度となく祓ってきた。宗近も木庵と同じく、怜の中の怪異を見極めるつもりだった。
だから、先程までの戦闘は加減しながら様子を伺っていた。
だが、目の前の"コイツ"はなんだ?
祓いでも、浄化でもない。
純粋な力でねじ伏せた。
怜は、刀を一振りして穢れを払う。
『これにて終いか』
淡々と告げた、その直後。
怜は、振り返った。
視線の先にいるのは、木庵と宗近。
『――次は、貴様らか』
湿った夜気の中で、黒い霧はなおも脈打っていた。
地縛荒神を斬り捨て、跡形もなく祓い去った直後だというのに、その異様な力は収束する気配を見せず、むしろ依代を得たことで輪郭を濃くしつつあるようにすら見える。
怜の背後に浮かぶ甲冑姿の怪異は、もはやただの影ではなく、夜の底から引きずり出された古い怨念そのものが実体を持ってそこに立っているかのようで、その足元に漂う黒い靄が石畳の隙間に染み込むたび、境内の空気がじわじわと腐っていく。
その中心で振るわれた刀は、先程までただの木材だったとは到底思えない。
黒く変異した刃は、光を吸い込みながら鈍く歪み、刃先から瘴気を尾のように引きずっていた。
そんな殺意を目の当たりにした2人は即座に構える。
「おいおい、俺達も狙われてねーか?」
「…」
木庵の返事はない。咥えたタバコの灰が自重で落ちる。
だが木庵は、すでに符を展開していた。
怜が動く。
木庵は術式を重ね、結界を展開し、攻撃を防ごうとした。
怜は、木庵の結界を紙細工を千切るように正面から斬り裂いた。
振り抜かれた刀の剣圧は凄まじく、耐えきれなかった木庵の身体が吹き飛ぶ。
「がっ……!」
受け身を取る間もなく、地面に叩きつけられる。
「おーい、生きてるかー?」
「クソ痛ェがなんとかな…」
宗近が符を投げる。
連続展開。
拘束、結界、封印の初動。
だが、怜は止まらない。
刀を一閃。
符が、まとめて切り裂かれる。
その勢いのまま、怜は宗近に刀を振り下ろす。
宗近は錫杖でその一撃を受け止め、刀を弾き、返す一撃を怜に叩き付けた。刀と錫杖がぶつかり火花が散る。
『祓い屋か』
怜が、宗近を見下ろす。
『その力量で、我に刃向かうとは』
「まぁ、そう言うなよ」
宗近は踏み込み、錫杖を振るう。
1合、2合、3合と、戦いの激しさを物語るように火花が散る。
宗近には一切の焦りがない。
呼吸も乱れていない。
錫杖を片手に持ったまま、どこか散歩でもしているかのような肩の抜けた立ち姿で、しかしその実、足元の位置も視線の向きも一切の無駄なく整っている。
再び、黒い刃が宗近目掛けて振るわれる。
地縛荒神を一太刀で斬り捨てたあの一撃と同質の、質量と威力を兼ね備えた斬撃。
普通なら、防ぐか避けるか、どちらかに全神経を注がねば即座に肉塊になる。
それほどの圧。
だが宗近は、刃が落ちるその瞬間になって、ほんの少しだけ身体を横へ流した。
大きく跳ぶでもなく、身を屈めるでもなく、ただ人一人が通れるほどの空間を譲るように位置をずらしただけで、黒い刃は彼のいた場所を空しく叩き割り、地面を深く抉る。
砕けた石が飛び散る。
土煙が上がる。
その粉塵の向こう側で、宗近は振り返りもせずにぼそりと呟いた。
「振り回すだけなら猿でも出来るぞ」
軽い。
あまりにも軽い声音だった。
怜が、その言葉に反応するように刀を返す。
今度は横薙ぎ。
先ほどよりも速い。
だが、それでも宗近の足は慌てない。
一歩下がる。
いや、下がったというより、歩幅を調整しただけに近い。黒い刃先が目の前を通過し、その風圧が前髪を揺らす頃には、宗近はすでに刃の届かない位置に立っている。
緊迫感がない。
そこにいたら当たるから、少しどく。
それくらいの余裕。
「おい木庵」
宗近は視線を切らずに言う。
「立てるか?」
木庵は横から先程吹き飛ばれた際に落ちたタバコを拾い、軽くフッと息を吹き掛け、砂利を払うと再び口に咥え煙を吸い込み、思い切り吐き出す。
「舐めんなよ…第2ラウンドはこれからだ」
「汚ねーな、タバコ新しいヤツ吸えよ」
「火付けたばっかだ。勿体ねぇだろ」
その会話の最中にも、黒い刃は連続して振るわれる。
木庵は即座に木を蹴り上がり、全力で避けた。
袈裟斬り、返しの斬り上げ、突きに近い直線の刺突。
どれも人間の可動を無視した軌道で繰り出され、しかも一撃一撃が地面や周囲の木々を容易く断ち切る威力を持っているにもかかわらず、宗近は錫杖で受け止め斬撃を受け流していく。
刃が落ちるたびに、彼は半歩ずつ位置を変え、時に体をわずかにひねり、時に肩を引くだけで、そのすべてを紙一重ですらない余裕を持って外していく。
一撃ごとに数十センチ、時に一歩分。
だが、その数十センチが絶対に埋まらない。
刃はいつまで経っても宗近を捉えられず、そのたびに黒い霧だけが空を裂いて虚しく散る。
そして、避けるだけでは終わらない。
宗近は、相手の斬撃が空を切って体勢を戻すその“戻り際”を必ず拾う。
錫杖が、乾いた音を立てて怜の肩口を打つ。
次には肘。
さらに膝裏。
どれも怜自身の重症にはならないと判断した部位。
だが、確実に動きの連動を乱す位置ばかりだった。
打撃を受けるたび、怜の体がわずかに軋み、黒い霧の濃淡が乱れる。
それでも怜は止まらない。
ならばまた刃を振るう。
「ほらほら、雑になるぞ」
ぼそりと漏らしながら、今度は真正面から落ちてきた刀を見上げる。
避けるのが間に合わない——そう見えるほど宗近は動かない。
だが、実際にはまるで慌てる様子もなく、刃が鼻先まで迫ったところで首をわずかに傾けるだけで軌道を外し、そのまま空いた懐に錫杖の石突きを沈み込ませるように叩き込んだ。
鈍い衝撃が鳩尾にめり込み、怜の体がくの字に折れる。
しかしそこでも宗近は追撃しない。
殺す気ならいくらでも殺れた。
そう言わんばかりに、一歩引いて距離を置く。
完全に手加減している。
木庵が陰から次の一手を考えながら、半ば呆れたように吐く。
「……余裕ありすぎだろお前」
宗近は肩をすくめる。
「これで本気出したら、あの子の身体が壊れちまうだろ」
そう言っている間にも、再び黒い刃が迫る。
だが宗近の立ち位置は少しも崩れない。
まるで、暴れる猛獣の檻の中に一人だけ静かに立っている調教師のように、危険の中心にいながら危険に飲まれず、むしろ相手の荒さを利用してじわじわと疲弊させていく。
黒い霧が暴れ、地面は抉れ、木庵も横から吹き飛ばれながらも立ち上がり、必死に食らいついている。
それでも——この中心だけは、宗近の余裕が支配していた。
そしてその余裕こそが、まだこの戦いが宗近の土俵の上にあることを、何より雄弁に物語っていた。
何度斬りかかっても届かず、何度力を叩きつけても宗近の身体を捉えきれない。その苛立ちを代弁するかのように、怜の背後に浮かぶ甲冑姿の怪異は先ほどまでよりも明らかに濃度を増し、輪郭はより鮮明に、纏う瘴気はより荒々しく境内を侵食していた。
社殿の残骸が軋み、周囲の木々の枝が見えない圧に耐えきれず次々と裂け落ちる。
もはや戦場そのものが、あの黒い存在を中心に歪み始めている。
だが、その中心に立つ宗近の呼吸は少しも変わらなかった。
錫杖を片手に、相変わらず肩の力の抜けた立ち姿のまま、迫る斬撃を余裕を持っていなし、時折気まぐれのように打ち返す一撃で怜の身体を確実に削っていく。その姿は戦っているというより、荒れ狂う暴風の流れを読み切って歩いているような静けさすらあった。
そんな中、木庵はどうにかしてこの状況の中耐えていた。
黒い刀の軌道に少しでも踏み込みが遅れれば、余波だけで身体が持っていかれる。実際、三度に一度はまともに衝撃を受け、肩から地面へ叩きつけられ、石畳を転がり、肺の空気を吐き出していた。
だが、木庵はそのたびに舌打ち一つで立ち上がる。
痛みを確認する暇もなく、折れていない足で地面を踏み直し、まだ動く腕で符を抜き、次の位置へ投げる。
鳥居の根元。
崩れた石灯籠の陰。
抉れた地面の裂け目。
吹き飛ばされるその軌道すら利用して、着地点に符を叩き込む。
まるで無様に転がっているようで、その実、木庵の指先は一度も止まっていなかった。
「面倒くせぇな…」
黒い刃が宗近を狙って振るわれ、その余波が木庵の脇腹を掠める。
体が横へ弾かれる。
背中から社殿の残骸に突っ込み、朽ちた木材がばきばきと折れる。
普通ならそこで一瞬は呼吸を整える。
だが木庵は咳き込みながら起き上がると、口の端の血を手の甲で拭い、そのまま砕けた柱の下へ符を差し込んだ。
まだ足りない。
結界の四点が繋がらない。
宗近が隙を作っている今しかない。
なら、足掻いて食らいつくのみ。
黒い霧がこちらへ流れる。
危険だと理解するより先に、木庵は散弾銃を発砲する。
効く効かないの問題ではない。
霧を揺らし、ほんの一瞬でも意識を散らせばいい。
案の定、弾は刃の一閃で裂かれる。
だがその“裂かれた一瞬”に木庵は地面を転がり、次の石畳へ掌を叩きつけた。
霊砂が舞う。
淡い光が地を走る。
「——あと二点……!」
息が荒い。
全身が軋むように痛む。
それでも止まらない。
宗近の錫杖が鳩尾へ一撃を入れ、怜の怪異の体勢がわずかに泳ぐ。
その隙に木庵はまた踏み込むが、今度は黒い刃の返しをギリギリのところで避けるが振り抜かれた斬撃の余波を受け、身体が吹き飛ぶ。
地面に二度三度と叩きつけられる。
肺が潰れたかと錯覚する痛み。
視界が白く明滅する。
それでも——。
「……っ、まだだ」
吐き捨てるように呟き、膝をつく。
震える指で最後の符を抜く。
立ち上がる。
ふらつく足で、境内の中央へ。
そして、振り下ろされた黒い刃が目の前の石畳を砕くその瞬間、その衝撃で舞い上がった土煙の中へ半ば転がり込むように身体を滑らせ、地面へ符を叩きつけた。
ぱきり、と。
境内の四方に置かれた符と霊砂が一斉に反応する。
線が繋がる。
淡い光が石畳の下を這い、鳥居から社殿跡まで巨大な陣を描き出す。
木庵は荒い呼吸の中で、口元だけを歪めた。
「準備出来たか?」
「もうちょいだ」
黒い刃をひらりとかわしながら、宗近がぼそりと落とす。
その声に応じた木庵は、少し離れた位置で舌打ち混じりに息を吐いた。
額には汗が滲んでいる。だが顔色は変わらない。
先ほどから散弾を撃ち、符を撒き、その度に戦いの余波で弾き飛ばされているように見えたそれらの動きが漸く実を結ぶ瞬間が訪れる。
石畳の隙間。
砕けた社の柱の影。
鳥居の根元。
地面に叩き込んだ符の残滓。
撃ち込んだ弾丸に混ぜて撒いた霊砂。
戦いの最中に散らばったそれらが、気づけば境内を取り囲むようにして淡い光の線を形作り始めている。
木庵は口元を歪めた。
「今度はこっちの番だ、クソッタレ」
術式を発動しようとしている事を気付いた怜はその瞬間、踏み込んだ。
木庵目掛けて、刀が振り下ろされる。
今までで最も重い一撃だった。
黒い刀が頭上から叩き落とされる。瘴気を纏ったその刃は、もはや斬撃というよりも空間ごと押し潰す鉄塊に近い。
一片の形も残さず、地面の滲みになる程の一撃。
だが——この時だけは違った。
木庵は避けない。
その様子を見ていた宗近はわずかに腰を落とし、錫杖を両手で持ち替える。
「やっと出来たか」
「うるせぇ、この短時間で仕上げたんだから上出来だろが」
木庵の口元が、ほんの少しだけ吊り上がる。
次の瞬間、一気に踏み込んだ宗近の錫杖が唸った。
真正面から。
落ちてくる黒い刃に向かって、下から打ち上げる。
激突。
凄まじい衝撃が境内を震わせた。
石畳が放射状にひび割れ、土煙が爆ぜる。
だが、押し負けない。
黒い刀の軌道が初めて、真正面から止められる。
いや、止めるだけではない。
宗近の一撃は、そのまま刃を外へ弾き流し、無理やり体勢を開かせた。
怜の胸元が、がら空きになる。
「今だ、やれ!」
怒鳴る声と同時に、木庵が地面へ手を叩きつけた。
「——終わりだ」
低い呟き。
それに呼応するように、先ほどまで境内中に散らばっていた符と霊砂と弾丸の残滓が、一斉に光を放つ。
線と線が繋がる。
鳥居を起点に、石畳の下を這うように幾何学的な紋様が広がり、社殿の残骸すら巻き込みながら巨大な結界陣が完成する。
淡い青白い光が、夜の闇を押し返す。
怜の足元から、封鎖の輪が一気に立ち上がった。
黒い霧が暴れる。
だが遅い。
「内縛結界——重層封印」
宗近がそう唱えると、境内の四方から光の鎖が伸び、怜の四肢と胴を絡め取る。
怪異が咆哮する。
声なき咆哮。
空気が震え、結界が軋む。
今にも弾け飛びそうなほどの圧。
だが、その一拍を埋めるように宗近が踏み込む。
初めての“本気の踏み込み”だった。
距離が消える。
錫杖が真っ直ぐに突き出される。
狙いは胸の中心。
怜自身ではない。
その背後に浮かぶ黒い甲冑の核。
「——沈め」
短い一言と共に叩き込まれた一撃が、結界と完全に同調する。
衝撃ではない。
術式そのものを押し込むような重い霊圧が、黒い霧の中心へ貫通した。
甲冑姿の怪異が初めて大きく揺らぐ。
輪郭が乱れる。
瘴気が悲鳴のように逆巻く。
そして——その瞬間だった。
怜の指先が、ぴくりと動く。
閉じられていた瞼が震える。
苦しげに息を吸う音が漏れる。
「……っ、あ……」
喉の奥から絞り出されるような声。
意識が、戻る。
だが戻った瞬間に怜を襲ったのは、自分の身体の中で暴れ狂う異物の圧だった。
頭の内側を引っ掻き回されるような不快感。胸の奥をこじ開けられるような異常な侵食。今にも意識を再び押し潰されそうになる。
普通なら、そのまま飲み込まれて終わる。
だが——怜は歯を食いしばった。
細い肩が震える。
涙が滲む。
それでも、逃げない。
その瞳に宿ったのは、純粋な恐怖ではなく、“ここで引けば終わる”という直感的な確信だった。
『木っ端の祓い屋風情が…小癪な真似を…』
「バーカ、雑魚だからって放置してたテメーが悪い。コソコソすんのは得意なんだよ」
木庵は先程まで吸っていたタバコを踏み潰し、新しいタバコに火を付けだす。
「……私の中に引っ込め……!」
黒い霧が暴れる。
甲冑姿が再び浮かび上がろうとする。
怜は全身を強張らせ、自身の胸元を掴んだ。
爪が食い込むほど強く。
呼吸が乱れる。
それでも意識を手放さない。
押し返す。
ただひたすらに、自分の内側へ。
「戻れ……ッ!」
怜の叫びと同時に、宗近の錫杖がさらに深く押し込まれ、結界が四方から収縮する。
光の鎖が黒い霧を締め上げる。
甲冑姿の輪郭が、みしみしと軋みながら縮んでいく。
怜の悲鳴にならない息遣いと、怪異の無音の咆哮と、術式の軋む音が境内に重なり合い、夜の闇そのものが悲鳴を上げているようだった。
そして——。
ぷつり、と。
何かが切れるような感覚と共に、黒い霧が一気に怜の胸元へ吸い込まれていく。
甲冑姿が、崩れる。
輪郭を失い、煙のように細くなり、そのまま怜の内側へと押し込められていく。
『今はこれが限界か…』
最後の一筋が消えた瞬間、境内を満たしていた異様な圧が嘘のように霧散した。
静寂。
怜の身体から力が抜ける。
その場に崩れ落ちる寸前、木庵が駆け寄って抱き留める。
「大丈夫か?」
「…どこをどう見てそんな事、言えるんですか…」
荒い呼吸。
汗で濡れた額。
意識は朦朧としている。
だが、その瞼はもう紅に染まっていない。
宗近が錫杖を肩に担ぎ、ポケットからタバコを取り出して火を付ける。
「とりあえずは終わったな」
「あぁ、なんとかだ」
夜の山は、先ほどまでの騒音が嘘だったかのように静まり返っていた。
あれだけ地面を抉り、石を砕き、空気そのものを震わせていた戦いの余韻は、今はもう薄く湿った土の匂いと、崩れた社殿の木片が風に擦れる乾いた音としてしか残っていない。
だが、静けさが戻ったからといって、この場が元に戻ったわけでは決してなかった。
境内のあちこちには深い裂け目が走り、石段は半ば崩れ、鳥居も片方の柱が完全に折れて斜めに沈んでいる。まるで、この場所そのものが一晩で寿命を迎えたような有様だった。
その荒れ果てた石畳の上に、怜はぐったりと座り込んでいた。
実際には木庵に背中を預ける形で辛うじて身体を起こしているだけだった。
呼吸はまだ浅く、肩が小刻みに上下している。額から流れた汗が顎先に伝い、ぽたりと地面に落ちるたび、妙にその音だけが大きく感じられた。
視界はまだ完全には定まらない。
頭の中が、ぐわんぐわんと鈍く揺れている。
自分が何を見て、何をされたのか、断片的にしか繋がらない。ただ一つ確かなのは、胸の奥にまだ“ヤツ”が沈んでいる感覚だった。
眠ったように静かだが、完全に消えたわけではない。そこにいる。意識の底で、じっと息を潜めている。
その事実が、ひどく気持ち悪い。
怜は無意識に胸元を押さえた。
その指先が、かすかに震えている。
「……っ」
言葉にならない。
吐き気とも、恐怖ともつかないものが喉元まで込み上げてくる。
木庵は、それを横目で見ながらも何も言わなかった。
背中越しに伝わる怜の体温は異様に熱く、呼吸もまだ不安定だ。だが下手に声をかけたところで、今は何も整理できないだろうと分かっていた。
だから、木庵はタバコを一本咥え、火をつける。
ジ…、と先端が赤く灯る。
ゆっくりと煙を吐き出すと、ようやく肺の奥に張りついていた緊張が少しだけ薄れた。
「……で」
少し離れた場所で錫杖を肩に担いでいた宗近が、崩れた石灯籠に腰を下ろしながら口を開く。
「どうよ、木庵」
あれだけ激しい戦いの後なのに声色は軽い。
木庵は煙を吐きながら、面倒くさそうに片眉を上げた。
「お前がいなかったら死んでた」
「だろうな」
短い返答。
宗近の視線が、怜へ向く。
その一瞥だけで十分に意味が伝わる。
木庵は数秒黙り込んでから、諦めたように息を吐いた。
「…見極めは充分だ」
ぽつりと、独白のように始める。
「篠山が呼び出したヤツは、どんな契約を交わしたか知らんが、今回で確信した」
宗近は静かに聞いている。
途中で口を挟まない。
木庵は煙草を指で弾き、赤い火種を落とした。
「アイツは篠山が契約以外で死にそうになると、表に出てきて脅威を取り除こうとする。理由は全く不明だがな」
言葉はそれだけだった。
勿論、全てただの推測だ。
だが宗近には十分だったらしい。
「そうかよ。完全に顕現してたら俺でも危なかったかもな」
呆れたように鼻で笑う。
しかしその笑いにも、どこか乾いた色が混じっていた。
実際、あれは危険という言葉では足りない。
宗近ほどの祓い屋が余裕を持って捌けたとはいえ、それは“まだ完全に目覚めていないから”に過ぎない。もしあの黒い甲冑が更に深く完全態として顕現していたら——そう考えると、宗近ですら背筋に薄い冷たさを覚える。
「どう報告するんだ?」
宗近が不意にそう言った。
怜の肩がびくりと震える。
その反応に、木庵はすぐ気づいた。
煙を吐きながら、短く答える。
「俺達がキッカケを作ったとはいえ、篠山はヤツを抑え込んだ。つまり制御出来る可能性がある」
「可能性だろ。だが、周囲に被害が出る場合は…」
「そん時はそん時だ」
宗近が言葉を反芻する。
つまり、必要とあらば処分も辞さないということだ。
木庵はそれに対して何も否定しなかった。
沈黙が落ちる。
風が吹く。
崩れた鳥居の木片が、からりと転がる音がした。
その音を聞きながら、怜はようやく掠れた声を絞り出した。
「……私」
喉が痛い。
声がひどく遠い。
木庵がちらりと横を見る。
怜は俯いたまま、胸元を押さえていた。
「……処刑されるんですか?」
「少なくとも今じゃない。被害は出てないしな」
その問いに、木庵は答えた。
知っているのは“危険だ”という事実だけで、その正体も、意志も、なぜ怜なのか、全てはまだ霧の中だ。
だから木庵は、あえて曖昧に言った。
「心配すんな。制御すればいい」
怜は顔を上げる。
涙で少し滲んだ目。
不安と恐怖がそのまま乗っている。
「制御って…」
木庵は、わずかに口元を歪めた。
「やり方はまた今度だ。今は死んでねぇんだから、それでいい」
投げやりにも聞こえる言い方だった。
だが、不思議と怜はそれ以上言い返せなかった。
宗近が小さく鼻で笑う。
「相変わらず、雑だなお前は」
「丁寧に説明してどうにかなるか?」
「ならねぇな」
即答だった。
そのやり取りが、ほんの少しだけ空気を緩める。
怜はゆっくりと息を吐いた。
まだ怖い。
胸の奥の気配は消えていない。
思い出そうとすると、黒い霧とあの甲冑の輪郭が脳裏に浮かんで、ぞわりと鳥肌が立つ。
それでも——今は、意識がある。
木庵の背中の感触も、湿った夜の匂いも、ちゃんと現実としてそこにある。
それだけで、辛うじて気持ちが繋ぎ止められる。
宗近がタバコを踏み潰して火を消し、錫杖を担ぎ直した。
「お前らはもう帰れ。後は営業と俺が処理する」
木庵が肩を鳴らす。
「そういう事なら遠慮なく帰るぞ。後処理は苦手だしな」
「そういう細かいのが出来ないからお前はダメなんだよ」
「知った事か」
そんな軽口が交わされる。
怜はその会話をぼんやり聞きながら、もう一度だけ胸元を押さえた。
奥底に沈んだアイツは、今は静かだった。
眠っているのか、見ているのか、それすら分からない。
だが確かなのは——まだ終わっていない、ということだけだ。
山の夜は深い。
けれど、2人の足音は確かに石段を下り始めていた。
この先に待つものが何であれ、今はまだ歩くしかない。
その事実だけを残して、夜は静かに幕を閉じた。
to be continued…
地縛荒神の話終了です。展開がめちゃくちゃとか詰め込みとか分かりにくいとか長いとか色んな意見あると思いますが、気持ちだけは込めて書いてますので応援してもらえたら嬉しいです。
一応、次の話は今回の補完というか後日談にでもなればなと思います。
ここまで見てくださった方ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。




