☩ わん メガシンデレラ ☩
「上着は要らなかったな」私は職場への道を、愛車WRX STIで走っていた。
中島飛行機・・かつては空を飛んでいたその系譜が地上を制覇している。
WRCで勝つために生まれた戦闘機。私はその無骨な生い立ちにたまらない魅力を感じ、生涯の伴侶にするつもりで、今そのハンドルを握っている。
窓を開ける。私を抜き去っていった車が激しく巻き上げた、散り始めた桜の花びらがフロントガラスをかすめ、運転席側の窓から車内へと入り込んできた。そして、私の膝の上にふわっと乗った。私は気づきながらも、そのままにしておいた。
片側二車線の曲がりくねった上り坂を、愛車はぐいぐいと登っていく。ふと、山肌からのウグイスの下手な鳴き声に気付き、右足に込める力をほんの少し緩めた。鳴き始めの季節にはよくあることだが、ちゃんと最後まで鳴ききれない、練習不足の新人ウグイス。その不器用さが、胸の奥をふっと和ませてくれる。――まるで、現在の職場にやってきたばかりの、あの駆け出しだった頃の私みたいだ。
坂を登り切り9%のくだりに入ると視界が急に開けた。春のもやっとした、水彩画がにじんだようなグラデーション。パステル調の淡いピンクをまとった光景が、私と愛車を迎えてくれた。
――駐車場へと滑り込み、いつもの場所に愛車を停める。定時より少し早い時間に出社した私は、事務所のパソコンを立ち上げ、今日の予定表を確認してノートに書き写した。
その後、自分の担当する車の掃除をするために、洗車タオルを取りに向かった。
その途中、担当車のフロントガラスに、桜の花びらが寄り添うように二枚張り付いているのが目に入った。
それを指先でつまみ地面に落ちている花びらの上へひらひらと落とした。
昨夜のうちに車体を薄く覆ってしまった、黄砂の細かな粒子や埃をタオルで拭き取っていると、目の覚めるような赤の軽自動車が駐車場のいつもの位置に停まるのが見えた。フロントドアが半分ほど開く。
光が栗色の長い髪を透かして、より艶やかに煌めいて見えた。
その小柄な女性は後席のドアから荷物を取り出している。
「今日は少し遅かったな」心の中でそう呟きながら、私は手を動かし続けた。ハンドバッグを左の小脇に抱えた彼女が、一歩一歩こちらへ近づいて来るのを感じながら。
彼女の朝は過酷だ。脳の特性による不眠が度々起こり、それによるドーパミンの欠乏。本人曰く、「朝はボーっとして何も考えていない」そうである。調子の良い時の 彼女は、二重瞼の奥の澄んだ瞳に優しく光の粒子を反射させている。
今朝の瞳は周辺の光の粒子をすべて底なしに吸い込んでしまうかのように、真っ黒い雨雲を写したかのようだった。それを見た瞬間、彼女が、過覚醒による不眠という過酷な現実がありながらも仕事に対する責任感に突き動かされて出社している状態だという事を、言葉を交わさなくても、読み取ることができるようになっていた。
彼女の限界域をさまよう健気な姿を確認した私は、周囲の誰にも不自然さを悟られないよう、細心のタイミングを計って手洗い場へと向かった。
昨夜降り積もった黄砂を吸い込んで黄色い縞模様に変化しているタオルを、青いプラスチックのバケツの底へパサッと投げ入れる。そして、バケツの横の棚に寸分の狂いもなく整然と積まれている新しいタオルを、崩さないように慎重に、汚れた指先で一枚つまみ上げ、私から見て建物の死角になっている右側から目の前に出現した、彼女の小柄なシルエットに「おはようございます」そう言いながら、彼女の瞳を右斜めから覗き込む。
雷鳴轟く漆黒の雨雲だ。彼女の歩調に合わせた私は、その極限に敏感になっている鼓膜に届くだけの小さな声で挨拶をした。 朝の彼女は大きな音が耐え難い苦痛になる。その事を知ったのは、以前彼女が一緒に住んでいる妹さんについて話していたときに「妹は私が朝大きい音が苦手なのを知っているので、テレビの音をできる限り小さくしてくれてるんです」と言っていたからだ。
彼女は今出せる最大限の力を振り絞るようにして、ふふ、と力なく唇を綻ばせた。「おはようござい……」語尾が完全に消え入るような掠れた声。
その華奢な輪郭は、歩調を合わせた私を置き去りにしながら、まるで救急車のサイレンのドップラー現象のように通り過ぎる。
私はすかさず、朝一番に網膜に焼き付けておいたタイムスケジュールを脳内から引き出し、私と距離が離れつつある背中に向けて「今日は初めてのテストだね。生徒は一人だけみたいだから、焦らず頑張ってくださいね」さっきより少し大きな声で追い縋るように言うと、「あ・・・そうなんですか……」中途半端にこちらを振り向きながら呟くように言うと、私の目の前にある鉄の階段を(カン、カン、カン)と乾いた金属音を響かせながら、ゆっくりと登って通称女子部屋に消えていった。
――朝の準備がすべて終わり、私の手には二枚目の湿ったタオルが握られていた。それを先ほどのバケツの底へパサっと投げ入れ、手洗い場の自動水栓から泡とともに放たれた冷たい水道水で、汚れた両手を洗い流す。
振り返りながら、ポケットから取り出した、使い古した犬柄のハンカチで、指先に残った水滴を丁寧に拭い去ろうとした瞬間一一私の網膜の奥にフラッシュバックしてきたのは、会社全体の戸締りの時の光景だった。
LEDの街灯を必要最低限まで消灯された普段見慣れた建物全体が醸し出す威圧感は、私が小学生だった頃に地区のお祭りで肝試し大会をした時に感じた、暗く静まった木造校舎が放っていた圧倒的な恐怖感そのものだった。
前回、スマホのライトでは恐怖感に対抗出来なかった為、対策として、OLIGHTというブランドの限定ブラスライン仕上げで長さ5センチ程度の円柱形ミニライトを車のキーと一緒にカラビナに付けて持って来ていた。
最高輝度180ルーメンという明るさを誇り、手のひらに収まるサイズでありながら、その光軸を直視すれば誰もが数秒間は網膜を焼かれて視界を失うレベルの代物だ。
車のロービームの光をそのまま凝縮して持ち歩いているようだ。その闇を切り裂くビームを足元に照射しながら、建物全体が消灯しているかどうかを細部までチェックしていく。二階から一階へ、白い手のような光を頼りに階段を降りて行く。
途中の踊り場で、窓に取り付けられた薄ピンクの壊れたブラインドが斜めになって窓の半分くらいを隠すように止まっていた。私は、その中途半端な状態を直そうと思い、(ジャラパキッシャラン)といろいろ試したが無駄なことだった。「誰だよ。壊したのは?」そうつぶやきながら、身をひるがえし、1階の廊下へと足元に向けていた光を照らし、そこへかぶせるように目線を追従させる。
その瞬間、脳天を赤い稲妻が直撃した。そこにいるはずのない人間の形をした何かを映し出した。溺れた人がギリギリで水面に上がって呼吸をしたかのような音にならない悲鳴をあげながら、激しく尻餅をつき階段を二段滑り落ちた。ライトの光の中にたたずむ人型の恐怖を前に、目玉がこぼれ落ちるほど見開きながらそれを凝視した。 漆黒の闇を照らすライトの白い光の中を、その肌の白さも相まって、この世のものとは思えない綺麗な横顔が、ゆっくりと私の方振り向いてまぶしそうに目を細めライトの光から逃れるように顔を背けた。
彼女だった。「な、な、なんだよ!」焦りの余り乱暴な口調で文句を言った私に対し、ライトのまぶしさから視線を背けたまま口を開いた。
「あの、伝えることがあったので、北棟の二階の窓は閉めなくて良いそうですよ」
(わざわざ真っ暗な建物内に明かりもつけずに佇み、私が来るまで待っているなんて怖くないのだろうか)そんな考えがちらっと頭をよぎった。やっと鼓動を落ち着かせた私が「もう!びっくりさせないでよ〜!」しかし未だ階段から立ち上がれず、情けなく右手で手すりを掴みながら内股で座り込んでいる。その様子を見た彼女は悪戯っぽく笑って「私は帰りますね」そう言い終えると左手側の漆黒の闇へ廊下に敷かれたカーペットの摩擦音だけを残して消えていった。
私は彼女を追うようにライトの光を照らしたのだが、ライトの照射範囲は、彼女の行く先を照らせなかった。その見えない背中に向かって追いかけるように「わざわざありがとう」とお礼を言ったが何の反応も返ってこなかった。腰が抜けていた私は壁に両手を添え、それを支えとしながら、ゆっくりとその場から立ち上がり、階段を降りて行った。
良かった、腰は大丈夫だ。その途中、廊下の壁に貼ってあったポスターの(早めのライト点灯で事故を防止しましょう)その文言に苦笑いしながら、彼女が消えた廊下を明るく照らし戸締まりの続きを開始した。
今朝も、気配を感じさせないで、私の背後に佇む彼女は、私が言葉をかけるよりも早く唇を動かした。「今日・・・・」言葉が出ない。私から五十五センチ離れた位置で、少し俯いた彼女の頭頂部のつむじに向かって「あの、遅かったね」彼女は風に吹かれる一本の細い花のように、右に左にユラユラとゆらめきながら、消え入るような声でつぶやいた。「今日は体調が悪くて ・・・・家を出るのが遅くなった・・ それに事故で渋滞が起きていて・・・・・遅れそうになったから電話しようとしたけど・・・・・・まあいっかと思いながら来てみたら・・・・・・何とか間に合ったからよかった」パニックになりながらも、自分の朝の出来事を共有してくれる。その姿は、まるでカスタネットが苦手な子供が、必死にリズムを取ろうとしているかのようだった。朝の彼女の極限に敏感な鼓膜を傷つけないトーンで言葉を返した。「間に合ってよかったね。今日もぼちぼち仕事をがんばりましょう」そう言った。彼女の枯渇していたドーパミンが徐々に溢れてきているのを、周辺の光の粒子をすべて底なしに吸い込んでいた真っ黒い雨雲の瞳の奥に、キラキラとした光の粒子が、ふわふわと溜まっていく事で感じるのだった。




