第1話 ミルティナ、地球に立つ
降り立った瞬間、空気の薄さに驚いた。
アルケオン・リングの大気調整区画とは比べものにならない。酸素は少なく、重力はやや強め。風には湿り気があって、かすかに植物の匂いが混じっている。データで学んだ通りの環境だったが、実際に肌で感じるのは初めてだった。
ここが、地球。
天の川銀河の辺境、カーディシェフ・スケールでタイプ0.7程度の文明しか持たない惑星。私が赴任する星。
「ニャンデーレ君」
耳の奥に設置された通信デバイスから、低い声が響く。指導官、ダルマイヤック=アーリマー。
「はい、指導官」
「着いたか」
「はい。大気組成は事前データと一致。重力はアルケオン標準の1.18倍で想定範囲内です。現在の気温は——」
「いい、いい。そういうのいいから」
は?
こ、この人……! 報告は任務の基本だと、研修で教わったのに! 上官への第一報は簡潔かつ正確に——って、いいの!?
「君の任務は理解しているな?」
「もちろんです。この惑星において、干支——地球の暦体系に基づく十二の分類に該当する候補生を選抜し、ヒロインとして育成する。それが私の使命です」
「使命ね。まぁ、そういうことだ。候補生のデータはそっちの端末に送ってある。拠点も用意した。あとは君次第だ」
「ありがとうございます。必ずや、立派なヒロインを——」
「あーはいはい。じゃ、頑張れ」
通信が切れた。
……もう少し激励の言葉とかないのだろうか。
私はミルティナ=ニャンデーレ。ヒーロー・ヒロイントレーナー研修センターの研修生から、異例の速さでトレーナーに就任した。地球年齢に換算すると十七歳。これは自慢ではなく、事実として述べている。
与えられた任務は明確だ。この地球で候補生を見つけ、スーパーヒロインに育て上げる。かつてセンターの先輩トレーナーたちが、銀河のさまざまな惑星で成功させてきたことを、今度は私がやる。
胸が高鳴っていた。
端末を開くと、拠点の情報と、潜入先が表示されていた。
潜入先——「高校」。
地球の教育機関だ。候補生の活動年齢に合わせて、私はこの「高校」の「生徒」に扮して行動する。学生服と呼ばれる統一された衣服や、入学に必要な書類一式は既にセンターが手配済み、とある。さすが、こういうところは抜かりない。
翌朝。
鏡の前で学生服という制服を着てみた。紺色の上着に、チェック柄のスカート。リボン。地球の衣服は構造が単純だが、意外と悪くない。左右二つに分けて結えた、私のヘアスタイルとの相性も良いと思う。
拠点から高校までの道を歩く。「日本」という国は、建造物が小さく密集していて、道路は狭い。ヒト型の住民たちがせわしなく移動している。二輪の乗り物を多く見かけた。しかも人力。空を飛ぶ移動手段がないのは不便だが、まぁ、未発達文明とはそういうものだ。
校門をくぐる。
すでにセンターの根回しで転入手続きは終わっており、私は二年一組に配属される。教室の前で深呼吸をした。
大丈夫。シミュレーションは完璧にこなした。地球の言語も習得済み。あとは自然に振る舞えばいい。
担任の教諭に促されて教室に入る。三十人ほどの生徒がこちらを見ている。
さあ、自己紹介だ。
「はじめまして。ミルティナ=ニャンデーレです。アルケオン・リングから参りました。ヒロイン候補生を探すためにこの星に来ました。どうぞよろしくお願いします」
教室がしんと静まった。
全員が、ぽかんとこちらを見ている。
——あれ?
地球の自己紹介は、名前と出身地と目的を述べるのが作法だと学んだ。何か間違えただろうか。
「え、えーと……」
担任の教諭が困ったように笑った。
「ニャンデーレさん……出身は、どちらの国かな?」
国。地球は一つの惑星の中にさらに細かい区分があるのだった。
「……フィ、フィンランドです」
事前に用意されていたカバーストーリーを思い出した。北欧の小国、フィンランド出身のハーフという設定。肌と髪の色から、この設定が最も自然だとセンターが判定したらしい。自己紹介で堂々と真実を述べてしまったのは失策だった。
「あっ、フィンランド! すごーい!」
空気が和んだ。生徒たちが口々に「ムーミンの国だ」「オーロラ見れるの?」と言っている。ムーミン? オーロラ? 地球固有の文化的事象だろうか。
「さっきのアルなんとかっていうのは?」
「じ……地元の、ジョークです。あははは……」
冷や汗が背中を伝った。初日から危うい。
席に着く。なんとか切り抜けたが、心臓がまだ速い。
ホームルームが終わり、担任の教諭が教室を出ていった。一限目の開始まで少し時間がある。周囲の生徒たちは席を立って、私にフィンランドのことを聞いてきた。ただただ私はカバーストーリーのことを喋った。さっきのジョークについては誰も触れようとしなかった。金髪の外国人転校生がいきなり「アルケオン・リングから来ました」と言い放ったのだ。そのへん警戒されても仕方がない。
そうこうするうちに、生徒たちは自分のモバイル端末をいじり出した。私もこの隙に端末を確認する。候補生のデータ。このクラスに二名いるはずだ。
一人目。申の干支に該当する候補生。猿渡翔子、十七歳。
データには「身体能力:特筆すべき数値あり」「学業成績:特筆すべき点なし」「備考:パルクール愛好家」とだけ記されている。パルクール。地球の移動技術の一種で、障害物を跳び越えながら最短距離を移動する技法……らしい。
教室を見渡したが、該当する生徒の姿がない。欠席だろうか。
二人目。子の干支に該当する候補生。夜摩涅梵、九歳。
九歳?
データを読み直す。九歳。飛び級で高校に在籍。知能指数が極めて高い。
九歳の子供がヒロイン候補? センターは何を考えているのだろう。いや、干支の年に該当する者を選ぶというのが方針だから、年齢は考慮されないのか。
——と、考えていた矢先だった。
一限目開始の数分前。窓の外で、何かが落ちた。
いや、「何か」ではない。人だ。人が落ちてきた。
「きゃあああ!」
クラスメイトの何人かが悲鳴を上げた。私は反射的に席を立ち、窓に駆け寄った。
校舎は四階建て。ここは二階。つまり上の階から——
窓の外、植え込みの茂みの中で、人影がもぞもぞと動いた。
「いっってぇー!」
茂みから這い出してきたのは、茶色いショートヘアをこの星の言葉で言う"ちょんまげ"のようにまとめた小柄な少女だった。制服は葉っぱと埃にまみれ、髪に小枝が刺さっている。腕には真新しい擦り傷、左膝には昨日のものらしい青あざ、右膝には絆創膏。つまり傷だらけ。
にもかかわらず、彼女はけらけらと笑っていた。
「あっはは、やっば! 四階からはさすがに無理があったかー!」
四階からッ!? 地球の重力加速度は9.8。四階の高さからの落下速度は——いや、計算するまでもない。この星のヒト型生物にとって、普通は致命的な高さだ。
「猿渡ー! またかー!」
クラスメイトの男子が呆れた声で叫んだ。「また」? これは日常なのか?
少女は——猿渡翔子は、何事もなかったかのように立ち上がり、校舎の壁のパイプに手をかけると、するすると登り始めた。スカートが盛大にめくれているが、本人はまったく気にしていない。下から男子生徒が「猿渡ー! 見えてるぞー!」と叫んだが、「見んな!」と返す気配すらない。
そのまま二階の窓枠に足をかけ、開いていた窓からこちらの教室に飛び込んできた。
「セーフ! ギリチャイム前!」
私の目の前に着地した翔子が、葉っぱだらけの顔でにかっと笑った。
「いや遅刻だろ猿渡」
「つかなんで上から来んだよ」
「普通に玄関から入れや」
クラスメイトたちのツッコミが飛ぶが、翔子は全く意に介さない。きょろきょろと教室を見渡して、私の顔で目が止まった。
「あれ、新しい子? 誰?」
これが、候補生。
これが、私が育成すべきヒロイン候補。
四階から落ちて笑っている。壁を登って窓から入ってくる。スカートの中が見えても気にしない。
めまいがした。というか、目の前が暗くなりかけた。
待って。落ち着いて、ミルティナ。深呼吸。すーはー。すーはー。
……よし。大丈夫。たぶん。
隣の席の女子が、翔子に教えてやった。
「転校生のミルティナさん。フィンランドから来たんだって」
「うおマジ!? 外国人!? すげー! ミル……え〜と!?」
「ミルティナです」
「よろしくミルちゃん! ツインテール可愛いね!」
近いっ! 距離が近い! 顔が近い! 葉っぱが私の制服についた。それにツインテールとはなんのことだろうか。名前もいきなり省略されたし——この子は他人との距離感という概念を持っていないのか!?
「……よろしく」
席に戻り、心を落ち着かせる。大丈夫。候補生はまだもう一人いる。夜摩涅梵、九歳にして飛び級の天才。こちらはきっと——
端末のデータで座席を確認する。最後列の窓際。視線を向けた。
——いない。
いや、いた。椅子に座ると足が床に届いていないほど小さいから、前の席の生徒に隠れて見えなかっただけだ。
地球の単位で百二、三十センチほどだろうか。黒い髪を二つの「お団子」——と、この星では呼ぶらしい——にまとめている。そのシルエットがネズミのようだ——。この星のことを学んでいるときに、この星で一番有名なキャラクターだと習ったものに似ている気がしたが、ここで名前を言うのは控えておこう。
小さい。データで九歳とは知っていたが、実際に見ると本当に小さい。この子がヒロイン候補……?
「あー、ミルちゃんボンちゃん気になる?」
翔子がいつの間にか横にいた。
「ボンちゃん?」
「そ! あの子! あんな小さいのに高校生なんて、びっくりしたでしょ! へへっ、あたしのダチなんだ〜。紹介したげる!」
翔子は私の腕を掴むと、返事を待たずに教室の奥へ引っ張っていった。
「ボンちゃーん! 転校生のミルちゃん! フィンランド!」
紹介が雑すぎる。
お団子頭の少女は、分厚い書物から顔を上げた。黒い瞳が、こちらを見据える。九歳の目とは思えない、静かで深い瞳だった。
「……知ってる。さっき自己紹介聞いてたし。アルケオン・リングから来たんでしょ」
心臓が止まるかと思った。いや、一瞬止まった。たぶん止まった。
「あ、あれはジョークで——」
「別にいいけど」
梵は再び視線を書物に落とした。
「嘘つくの下手だね」
それだけ言って、二度とこちらを見なかった。
——九歳の子に看破された。
そのとき、チャイムが鳴った。
「授業始まるよ」
梵が書物を閉じて、静かに言った。
「はい、はーい」
翔子が間延びした返事をしながら自分の席に戻っていく。
初日の午前中だけで、私は三つの事実を学んだ。
一つ。この星の自己紹介でカバーストーリーを忘れてはいけない。
二つ。猿渡翔子は四階から落ちても死なない。
三つ。夜摩涅梵は九歳にして、おそらく私より賢い。
昼休みになった。
教室から出ようとしたとき、翔子が走ってきた。走ってきたというか、机の上を跳び越えてきた。机だけではない。机に座っていた男子生徒の頭をも跳び越えた。三つの机と二人の男子を連続で。
——ええぇぇ!?
踏み台にされた男子が「おい猿渡!」と怒鳴ったが、その表情はなぜかにやけているように見えた。翔子はかまわず喋りだす。
「ミルちゃんミルちゃん! お昼一緒に食べよ!」
「あなた、いつもあんな……」
「ボンちゃんも行こー!」
聞いちゃいない……。ボンちゃん? さっきもそう呼んでいた。「梵」は「そよぎ」と読むはずだが——。この国の言語には文字が三種類あると聞く。私にとってもこの星で一番厄介な言語だった。翔子はその中でも「漢字」というものが苦手に違いない。
翔子は梵の腕を掴んで引っ張った。梵は無抵抗で引きずられていく。本を抱えたまま、特に嫌がりもせず、だが喜びもしない表情で。
この二人、いったいどういう仲なのか?
屋上に連れていかれた。地球の高校では、屋上で昼食を取る文化があるらしい。フェンス越しに街が見渡せる。空は青く、雲が白い。アルケオン・リングの人工天蓋とは違う、自然の空だ。
三人で並んで座る。翔子と梵は小さな箱を開けた。「弁当」と呼ばれる携帯食だ。小さな容器に複数の食材を詰め込む技術は、アルケオンの栄養ブロックよりよほど手が込んでいる。梵の箱に入っている黄色い塊は「卵焼き」というらしい。鳥類の卵を加熱調理したもの——食べてみたい気もするが、今はそれどころではない。
「ミルちゃんさぁ、フィンランドから来たって、なんで日本?」
「……お父さんの仕事の都合で」
カバーストーリー。今度は忘れなかった。
「へー! お父さん何の仕事?」
「……に、日本文化の研究を」
「すごーい! 研究者!? じゃあミルちゃんも頭いいんだ!」
翔子は感心したように目を丸くした。この子は驚くほど素直だ。疑うということを知らないのだろうか。
「ボンちゃんもさぁ、超頭いいんだよ! 九歳で高校とかヤバくない!? あたしなんか十七でこのザマだよ!」
翔子はけらけら笑いながら自分を指さした。そこまで堂々と自虐されると、少し引いてしまう。でも、不思議と嫌な気はしなかった。この子の笑い方には、卑屈さがまるでない。
「ボンちゃんとはさぁ、入学式で会ったの。この子、入学式で誰とも喋んないでぽつんと立ってて、あたしが声かけたら、なんて言ったと思う?」
梵が黙々と卵焼きを食べている。
「『あなた、騒がしいね』だって! あっはは! 超ウケた!」
梵が卵焼きを咀嚼しながら言った。
「事実を述べただけ」
「そういうとこ! ボンちゃんのそういうとこ好き!」
翔子がけらけら笑い、梵が無表情のまま食べ続ける。不思議な関係だった。
私は二人を観察しながら、端末のデータと照らし合わせていた。
猿渡翔子。身体能力は確かに高い。四階から落ちて擦り傷で済むのは異常だ。しかし、それ以外のすべてが不安だ。判断力、注意力、学力、品性——あらゆる項目に疑問符がつく。
夜摩涅梵。知性は間違いない。九歳で高校レベルの学業をこなし、観察眼も鋭い。しかし、九歳だ。身体的に未発達だし、何よりこの無関心さはヒロインとしてどうなのか。正義に燃える姿が想像できない。
「ねーミルちゃん、さっきからいじってるそれなにー?」
翔子が私の手元を覗き込んできた。端末だ。候補生のデータを表示したままだった。
「なんか未来っぽくない? スマホ? 新型?」
「こ、これはっ——」
慌てて端末を隠す。地球の技術水準にないデバイスを見られるのはまずい。
「……フィンランドの、新しいスマホです」
「えーすごい! 見せて見せて!」
「だ、ダメです!」
「ケチー!」
「サル子」
梵が小さな声で言った。
「何?」
「ミルティナさん、困ってる」
「え? そう? ごめんごめん!」
翔子があっさり引いた。梵が再び卵焼きに視線を戻す。
九歳が、十七歳の暴走を制御している。
これは一体どういう構図なのか。
放課後。
私は校門の前で立ち尽くしていた。
今日一日で得た情報を整理する。候補生は二名確認した。そして、もう一人この近隣にいるはずの戌の干支の候補生——乾睦、十九歳——はまだ見つかっていない。大学生ということで高校にはいない。こちらは別途捜索が必要だ。
とりあえず、目の前の二人だ。
猿渡翔子。障害物が好き。四階から落ちても笑っている。
夜摩涅梵。九歳の達観者。この子に嘘は通用しない。
まずこの二人から、スーパーヒロインの育成を始める。
「……できるのか?」
思わず声に出た。
「できるかどうかではない。やるのだ、ミルティナ」
自分で自分を叱咤する。センターの先輩トレーナーたちだって、最初は苦労したはずだ。どんな候補生でも、正しい訓練と指導を施せば、必ずヒロインになれる。研修でそう学んだ。
大丈夫。
私はトレーナーだ。アルケオン・リングの誇りにかけて、必ずこの任務を成功させる。
「ミルちゃーん!」
背後から声がした。振り向くと、翔子が校舎の二階の窓から身を乗り出して手を振っていた。
「また明日ねー!」
そのまま窓枠に足をかけ、外壁を伝って降りようとして、途中で手が滑り、植え込みに落下した。
「翔子さん!!」
私は声を上げて駆け寄ろうとした。しかし——
茂みの中から親指が突き出された。
「ノープログラム!」
多分「ノープロブレム」と言いたかったのだろう。
地球人は親指を立てる仕草で無事を示すらしい。それにしても無事の基準が低すぎないだろうか。
私はその場にしゃがみ込んだ。膝から力が抜けた。
大丈夫じゃない。
何一つ大丈夫じゃない。
この子の心配をするだけで、私の寿命が縮む。
帰り道、通信デバイスが鳴った。
「どうだ、初日は」
ダルマイヤックの声だった。
「候補生を二名確認しました。この近隣に残る一名は明日以降に捜索します」
「候補生の印象は?」
一瞬、迷った。正直に言うべきか。
「……有望です」
「ほう」
「身体能力に優れた者と、知性に優れた者がいます。適切な訓練を施せば、十分にヒロインとして活動できると判断します」
嘘をついた。
嘘をつくのが下手だと、九歳に言われたばかりなのに。
「そうか。まぁ、期待してるぞ」
通信が切れた。
夕暮れの通学路を歩きながら、空を見上げた。
地球の空は、太陽という恒星が沈む前にオレンジ色に染まる。アルケオン・リングでは見られない色だ。大気中の微粒子が光を散乱させる現象——この星ではレイリー散乱というらしい。綺麗だと思った。
ここで、やるしかない。
遠い遠い銀河の辺境の、小さな惑星の、小さな国の、小さな高校。障害物を好む少女と、九歳の達観少女、そしてまだ見ぬ大学生。
全ての干支から揃えば全員で十二名、彼女たちをヒロインにする。
——それが、私の使命だ。




