第18話「金の髪の上級生」
公爵家の馬車が引き返した翌日、学園は妙な静けさに包まれていた。
嵐が去った後の凪。だが誰もが知っていた。嵐は去ったのではなく、一時的に動きを止めただけだ。冬の休暇という期限つきの平穏。
リーゼは教室の席でノートを広げながら、昨日のことを反芻していた。
ルシアンが連れ戻されそうになったこと。王太子が仲裁に入ったこと。冬の休暇まで保留になったこと。全て人づてに聞いた。リーゼ自身は学園長室には呼ばれなかった。当然だ。白龍の男爵令嬢に、公爵家と王家の話し合いに口を挟む権利はない。
それが悔しかった。自分のことなのに、自分がいない場所で決まっていく。
「リーゼさん」
アレクシスが声をかけてきた。
「今日の放課後、少し時間ある? レオンが話があるって」
「レオンハルト様が?」
「うん。演習場で待ってるって。龍化の指導とは別件みたいだよ」
リーゼは頷いた。
× × ×
昼休み、リーゼは図書室に向かう途中で足を止めた。
廊下の向こうから、見慣れない制服の一団が歩いてきた。
最上級生だった。三年生の制服は一年生とは少し意匠が違い、肩に龍騎士の見習い紋章がつけられている。普段は東棟の上層階で過ごしているため、一年生の校舎で見かけることは滅多にない。
その中央を歩いていたのは、金色の髪の青年だった。
一瞬で目を引く存在感だった。周囲の最上級生たちが自然と半歩後ろを歩いているのは、身分の差ゆえだろう。胸元の金龍の紋章が、光を受けて淡く輝いている。
すれ違う一年生たちが慌てて道を空け、頭を下げている。
リーゼも壁際に寄った。金色の髪の青年が通り過ぎていく。一瞬、琥珀色の瞳がリーゼの方を向いた気がしたが、次の瞬間にはもう前を向いていた。
何事もなく、金色の一団は廊下の向こうに消えた。
「……あの方は」
隣にいた生徒に聞こうとしたが、その生徒は頭を下げたまま固まっていた。
「クラウス殿下よ。王太子の」
背後から声がした。振り返ると、見知らぬ上級生の女子が立っていた。翠龍の紋章をつけている。
「普段は特別棟にいらっしゃるけど、最近こちらの校舎にもいらっしゃることがあるの。昨日の騒動のせいかしら」
「そう、ですか」
「あなた、一年生? 王太子殿下のお顔くらい覚えておいた方がいいわよ」
上級生が去っていく。
リーゼは廊下の奥を見た。金色の髪はもう見えない。
王太子。金龍。この国で最も高い龍の血を持つ人。
なぜか、胸の奥の龍がかすかに揺れた。恐れではない。共鳴でもない。ただ、金色の龍気を遠くに感じて、自分の中の何かが微かに反応したような。
気のせいだろう。リーゼは首を振って、図書室に向かった。
× × ×
放課後の演習場。
レオンハルトが壁に背を預けて待っていた。いつもの黒い無表情。
「来たか」
「お呼びと聞いて。龍化の指導ではないんですか?」
「今日は話だけだ。座れ」
リーゼは演習場の石段に腰を下ろした。レオンハルトは立ったままだった。
「昨日の件、聞いたか」
「はい。ルシアン様が連れ戻されそうになって、王太子殿下が仲裁に入ったと」
「そうだ。冬の休暇まで保留になった。だが、これは猶予ではない。状況は悪化している」
「悪化?」
「王太子が関わったことで、番の問題が公爵家の家事から国政の問題に変わった。つまり、今後は王家の判断が入る。公爵家だけを相手にしていればよかった段階は終わった」
リーゼは黙って聞いた。
「おまえに聞きたいことがある」
レオンハルトの黒い瞳が、真っ直ぐにリーゼを見た。
「おまえの龍は、今どうなっている」
唐突な問いだった。だがリーゼにはわかった。レオンハルトがずっと気にしていたこと。龍化授業で見た光。持久戦での異変。この人はずっと、リーゼの龍を見ていた。
「……変わり始めています」
正直に答えた。
「以前は龍化しても、自分の龍がぼんやりとしか感じられませんでした。白い光があるだけで、意志も方向もない。でも最近は違います」
「どう違う」
「龍が、温かいんです。胸の奥で脈打っていて、ルシアン様の方を向いている。それと、龍力が前より深い場所から湧いてくる感覚があります。自分の知っている白龍の力とは、違うもの」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「レオンハルト様。わたしの龍は、何なんですか」
リーゼは真っ直ぐにレオンハルトを見上げた。
「あなたはずっと何かを知っていて、でも言わないでいる。わたしの龍が目覚めるのを待っている。違いますか」
レオンハルトの無表情が、かすかに揺れた。
この娘は鋭い。龍力だけでなく、人を見る目も。
「……おまえの言う通りだ。俺は知っている。だが、今は言えない」
「なぜ」
「龍の目覚めは、自分自身で辿り着くものだ。外から答えを与えれば、龍の成長が歪む。おまえの龍は今、正しい方向に育っている。番の共鳴を通じて、少しずつ力を増している。それを邪魔したくない」
リーゼは唇を噛んだ。もどかしかった。自分の中にある力の正体がわからない。でもレオンハルトの言葉に嘘がないことは、わかる。
「一つだけ教えてください。わたしの龍は、危険なものですか」
「危険ではない」
レオンハルトが即答した。それはこの人にしては珍しい、迷いのない返答だった。
「おまえの龍は、美しいものだ。目覚めた時、おまえ自身が一番驚くだろう。……それまで、自分を信じろ」
レオンハルトが背を向けた。
「明日から龍化の指導を強化する。冬の休暇までに、おまえの龍をもっと深い場所から引き出す。やれるか」
「やります」
「いい返事だ」
レオンハルトが去っていく。
リーゼは演習場の石段に座ったまま、空を見上げた。秋の空は高く、冷たく澄んでいる。
自分の龍は美しいもの。
その言葉を、胸の中で温めた。
× × ×
同じ頃。ルシアンの私室。
ルシアンは机の上に広げた手紙を見つめていた。
リーゼが公爵家に送った手紙の写し。父の秘書官が「こういう手紙が届いた」と、わざわざルシアンにも送りつけてきたものだ。お前の番を名乗る小娘はこう書いてきた、と見せつけるために。
『白龍の家に生まれたことを恥じたことはありません。わたしの龍がルシアン様の龍に応えることを、止めるつもりもありません』
何度も読んだ。もう暗記している。
あの娘は、公爵家に喧嘩を売った。白龍の男爵令嬢が、この国で最も力のある公爵家の一つに。
馬鹿だと思った。
同時に、胸が焼けるほど熱くなった。
守らなければ。
この娘を。この真っ直ぐで、折れなくて、馬鹿みたいに正直な白龍を。
ルシアンは手紙を丁寧に畳み、上着の内ポケットにしまった。
心臓の上。一番近い場所に。




