幼き頃の記憶
霧の国。名前の由来となっている霧の国の濃い霧は一年中、途絶えることなく夜半に発生する。そして太陽が昇り出すと同時に、強くなる風によって消えていく。
よって日々の生活において、霧の国の人々が支障をきたすということはあまりない。稀に風が弱い日があって、そんな日は霧が晴れる昼頃まで少しだけ難儀するといったぐらいであろうか。
いつものように風によって霧が追い払われた頃、ようやく玄が別室で待っていた華仙の前に現れた。
「少し遅かったけど、具合が悪くなったの? それに、その格好……甲冑を着て行かないつもり?」
毎度のことだった。まるで保護者のようだと思いながら、口うるさく華仙が言った言葉に玄は首を左右に振った。
「具合は悪くない。大丈夫だよ。甲冑を着ないのは戦争をしにいくわけではないからね。相手に無用の威圧を与える必要はないだろう? 違うかな?」
「違うかなって言われてもね。でも、もし何かあったら……」
眉間に皺を寄せて、華仙は玄の言葉に不満げな顔をしてみせる。
「僕が危険な目に合わないように、将軍の威侯や兵士たちがいるのではないのかな? 威候たちも僕と同じで、甲冑を着ることは禁止だよ。さすがに剣を帯同することだけは許すけどね」
玄はそう言って穏やかに笑う。玄のそんな顔を見て華仙は大きな溜息を吐いた。基本的には気が弱いにもかかわらず、この君主でもある幼馴染は昔から言い出したら聞きはしないのだ。
それを単に我儘というのではないだろうかと華仙は思う時もある。ちなみに玄が幼かった頃は、さらに幼い華仙の横でいつも玄が泣いていた記憶しかない。
「分かったわよ。なら、せめて私から離れないようにしてね」
華仙がそう言うと、玄は何やら思案顔となる。
「何? 今度はどうしたの?」
「ん? 女性に守られるのは男として、いや君主として、さすがにいかがなものかと思ってね」
「そんなのは、いまさらでしょう? 玄は剣もろくに使えない、へなちょこ君主なんだから」
そんな華仙の嫌味も玄は気にする素振りを見せず破顔した。
まったく……。
華仙は心の中で溜息をついた。性格がいいことだけは分かるのだが、どこか飄々としていて君主としては何とも頼りがいがない。
ただ、この飄々としたこのような感じが、民には好意的に受け止められているといった部分もあるのだったが。
普段はこのような感じで、全くもって頼りがいのない玄なのだったが、時には驚くほどの行動力を華仙に見せたりもする。
そんな玄の笑顔を見ていたら、華仙の中で遠い記憶が蘇った。
あれはまだ玄の母親が存命だった頃。そう。玄が八歳、華仙が六歳だった時のことだった……。
「華仙、どうしよう?」
そう言いながら玄は、濃い茶色の瞳に涙を早くも浮かべていた。そうやっていつもすぐに泣くのだからと思いつつ、華仙は心配そうな顔をつくって見せた。
女の子は六歳にもなれば、それぐらいの演技ができるというものだ。それに何よりも目の前でめそめそしているのは、どんなに頼りなくても華仙が守らなければいけない君主様なのだ。
玄様をお守りしなさい。華仙の両親に日頃からよく言われている言葉が、華仙の中で浮かび上がってくる。
「どうしたの、玄?」
泣いてばかりで要領を得ない玄に、なるべく優しく聞こえるようにして華仙は問いかける。
「母上の熱が下がらない。それにいつもより全然苦しそうで……」
しゃくり上げ気味に玄は、やっとそれだけを華仙に言った。
美麗様……。
玄の母親で、まだ子供だった華仙から見ても非常に美しい人だった。
美麗様は、いつも微笑んでいた。
それが病の苦しさを隠すためのものだと、華仙が知ったのはずっと後のことだ。玄の体が病弱であまり丈夫ではないのも、美麗に似てしまったからなのかもしれない。
「母上がこのまま治らなかったら、ぼくは一人ぼっちになっちゃう」
玄の父親である先代の君主は、玄が生まれてすぐに熊の国との戦いで受けた傷が元で亡くなっていた。この出来事も霧の国の民が熊の国を嫌う理由の一つでもあった。




