肝が冷えた
三十代半ばぐらいの明るい茶色の髪をした男だった。
男が身を挺してまで守ろうとしているのだ。やはり小柄な男は、相応の身分にある者なのだろう。
威候に向かって果敢にも長剣を構えた男だったが、その立ち姿はお世辞にもさまになっているとはいえなかった。腰は引けていて、背も丸まっている。しかも構えている長剣の剣先は、恐怖と緊張からなのか小刻みに震えていた。
剣を構えたことなど今までに一度もない。そう思えるような立ち姿だった。そう考えながら改めて見てみると、男は最低限の甲冑しかつけておらず限りなく軽装に近い。とてもではないが、戦場に立つ兵士の格好とは思えなかった。
兵士というよりも、内政を司っているような者なのだろうか。
そんなことを考えていた華仙に向けて威侯が口を開いた。
「邪魔だな。華仙、排除を」
威候はそれだけを言った。
排除。
無慈悲な言葉だと一瞬だけ華仙は思った。
だが仕方がない。これは戦いなのだ。極論すれば命の奪い合いだ。
華仙は懐から短剣を取り出した。戦場で人を殺すことは初めてではない。だからといって、他者を殺すことに何の躊躇いもないわけではなかった。
華仙は短く息を吸い込むと、男の喉元を目掛けて短剣を投げる。申し訳ないと思うが、仕方がないとも同時に思う。
ここは戦場なのだ。
華仙の不穏な動きを見て、男は顔を引き攣らせている。
華仙の手から放たれた短剣が、男の喉元に吸い込まれるかに見えた瞬間だった。
男の横手から盾が差し出された。甲高い金属音が周囲に響いて、盾によって短剣が弾かれた。続いて十名程の兵が庇うようにして男の前に現れる。
「こっちだ! 護れ! 何があっても護るのだ!」
誰が発しているのかは分からなかったが、怒声に近い声が聞こえてくる。
「華仙、引くぞ」
威候が短くそれだけを言った。敵が態勢を立て直して、こちらが囲まれる前に脱出をとの判断なのだろう。
捕らえそこなったあの小柄な男が、陽の国でどのような身分だったのかは分からない。だが、もしかすると今後の戦いを有利に運ぶ要因となったかもしれない。そう考えると、華仙の中に口惜しさが残る。
「我が名は威候! 死にたくなければ、道を開けよ! 邪魔をするならば、叩き斬る!」
突入した時と同じような言葉を威候は口にする。
「華仙、遅れるな!」
響き渡る言葉に動揺して尻込みを見せる敵兵の中を威候は馬を走らせた。その威候を先頭にして霧の国の兵が続いていく。
威候たちに続いて馬首を返す直前に、大地の上で上半身を起こす小柄な男の姿が華仙の視界に入った。
上半身を起こした小柄な男は兜を取って、頭を左右に振っている。それに合わせて、兜から解き放たれた黒色の長い髪の毛が宙で揺れる。
女性……。
正直、華仙の中で驚きがあった。自身も女性の身でありながら戦場に立っているので、それ自体を否定するつもりはないのだったが。
氏素性が分かるはずもない。ただ、いずれにしてもあの甲冑だ。陽の国で高貴な身分の者であることは間違いない。
華仙はそんな思いを頭の片隅で泳がせながら、威侯たちとともに戦場を離脱したのだった。
ここまで肝が冷えたことはなかったかもしれない。夏徳は腰を抜かしたように大地に座り込みながら大きく息を吐き出した。まだ流れ出る冷や汗が止まらない気がする。
「夏徳様、ご無事で?」
こちらもまだ青い顔をしている丁統が、夏徳に駆け寄ってきた。夏徳は片手を上げて、無事だということを示した。
あの時、丁統が盾で自分を守ってくれなかったら、今頃は息をしてなかっただろう。
自分に向けて短剣を投げてきた者。戦場には似つかわしくない若い女性のようだった。
そこまで考えたが、今はそのようなことを考えている時ではないと夏徳は思い直す。




