そんな顔も
「俺は大丈夫だ。それよりも呂桜将軍を」
地面にへたり込むようにしながら、夏徳はやっとの思いで丁統にそれだけを言った。丁統は軽く頷くと、呂桜の方に駆け寄っていく。
夏徳自身は立つのはもちろんのこと、しばらくはまともに話せそうになかった。何せ舌がいつものように回らないのだ。まだ衝撃から抜け切れていないようだった。
危なかった。
自分もそうなのが、呂桜も紙一重だった。まさかこちらの退却に合わせて、威侯が数騎で突撃を試みてくるとは考えてもいなかった。
五十人斬り、百人斬りと聞いて単なる田舎武者の蛮勇かと思っていたが、どうやら大いに認識を改める必要があるようだ。
退却に合わせた突撃。
そしてこの退却。
それらは見事だという他にない。
夏徳は辛うじて動く首を背後に回した。呂桜は丁統たちに支えられながらもすでに立ち上がっている。それを見る限りでは、怪我などをしている様子はなかった。
それを見て夏徳はもう一度、大きく息を吐き出した。同時に、少しはこれで懲りてくれるだろうと思う。
相手が小国で兵の数でも圧倒的に有利とはいえ、ここは戦場なのだ。その最前線ともなれば、危険はいくらでもある。一軍の将たる者が不用意に最前線に立つ必要などないのだ。
「礼を言う。夏徳、助かったぞ」
気づくと自分の目の前に呂桜が立っている。そして、腰を抜かしたように大地に座り込んでいる夏徳に、呂桜が片手を伸ばしていた。
呂桜は王族で夏徳は軍師の命を拝しているとはいえ、有力者の子弟でも何でもない。その出自は単なる農民なのだ。
さすがに畏れ多いか。
そう思いなからも、夏徳は自分に伸ばされた呂桜の手を気づいた時には握っていた。呂桜の腕に力が込められて夏徳は立ち上がる。
膝が笑っている。足に力が入らず、夏徳は中腰のような姿になる。呂桜は夏徳の腕から手を離すと、そんな夏徳の姿を見て少しだけ笑顔を浮かべた。
「夏徳はもう少し武芸を磨く必要がありそうだな」
呂桜はそんな言葉を残して踵を返した。
何だ、そんな顔もできるんじゃねえか。
心の中で夏徳は意外な思いで呟いた。
「夏徳様、ご無事で何よりですね」
夏徳は声をかけられた背後を振り返った。そこにはようやく安堵の表情を浮かべ始めた丁統が立っている。夏徳は頷いた。
「まさに九死に一生だったぞ。丁統、お前のお陰だ。感謝する」
素直に頭を下げた夏徳だったが、丁統が人の悪そうな笑みを浮かべていることに気がついた。
「しかし、夏徳様、凄い恰好になってますよ」
「うるさい。まだ、足に力がはいらないんだよ」
そんな夏徳を丁統は、まるで値踏みでもするかのような顔で見ている。
「それに、あの剣を構える姿。中々のものでしたよ。あれでは、軍師を外されて一兵卒からというわけにはいかないですね。夏徳様、少しは武芸の修練も必要かと」
生意気にも呂桜と同じようなことを言いやがってと夏徳は思う。そして、不貞腐れたように口を開いた。
「おい、いい加減にしろ、丁統。そんな感想はどうでもいい。早く手を貸せ」
その言葉には素直に頷いて、丁統は夏徳の腰に片手を回して体を支える。
「あれが、威侯か」
「そうでしょうね。自分で言っていましたからね」
「自分の名が戦場で威力を発揮するのが分かっているのだ」
その言葉に丁統が軽く頷いている。
「そうかもしれませんね。それにあの大きな体と鬼瓦のような顔。私はできれば二度と戦場で会いたくはないですね」
夏徳を横で支えながら、丁統は溜息を吐き出すようにして言う。それは夏徳も同じ思いだった。
「単なる蛮勇ではなかったということだ。霧の国か。辺境にある小国ということで、甘く見ていた。だが、二度目はない。軍師自らが剣を抜く事態など……」
夏徳は少しの屈辱感を覚えつつ、そう呟くように言うのだった。




