【第6話】早く起きた朝は
エイチェルは目を開いた。柔らかい朝日が、真新しい薄紫色のカーテンからこぼれている。
枕元に置いていたモビリンの画面を呼び出し、時間を確認する。
「ん… まだ6時58分…」
普段、エイチェルはなかなか1回では起きられない。起きたい時間の1時間前から15分おきにアラームをセットしているのが常で、あまり寝起きが良い方ではない。今朝は8時に起きようと思っていたが、7時にセットした最初のアラームより早く起きてしまった。
それもそのはず。今日はついに初登校の日なのである。
学校への集合時間は9時。
学校に近い家を選んだから、家を出てから徒歩10分もかからない。持って行くものも、もう昨晩用意してしまったし、朝食をゆっくり取ってもまだ時間が余りそうだ。
なんとなく眠いけれど、かといって、そわそわしてしまって二度寝もできない。
こういう、思いがけず早起きしてしまった朝、エイチェルには、やると決めている習慣がある。
エイチェルはベッドから降りると、鞄から20cmくらいの紡錘形をした木製品を取り出した。
「おはよ」
愛おしそうに声をかけながら、側面の模様をなでると、変形が始まる。みるみるうちに構造が変わり、竪琴のような形になった。
短い弦側の端には、エイチェルの家のシンボルである、スズノネゼミの翅の造形が飾り付けてあり、本体には細かい彫り模様があしらわれている。
この楽器は変形弦楽器の一種で、楽器屋を営むエイチェルの父が、エイチェルのためにオリジナルで作ったものである。その時の好みに応じて複数の形に変形させることができる。父の家系はこの手の変形弦楽器を作る技術に長けており、父の旧姓から一部取った「ラナ・ハープ」と呼ばれている。
今回、北半球上級魔法学校への入学祝いとして、変形を1種類追加してくれた。少し変わったウクレレのような形だが、それはまだ慣れなくてうまく弾けない。
竪琴の形は、最初に父からプレゼントされた時からあった形で、一番手になじむ。
早起きしてしまった朝、エイチェルはこのラナ・ハープを弾くのだ。普段からよく使っている楽器だが、朝何気ない感じで弾くと、始まりに還っていくような、なんだか不思議な心地になれる気がする。
ワンピースに着替えたら、1階のカーテンを開く。爽やかな青空に、高度のある細かい筋雲が見える。とても良い天気だ。
掃き出し窓をほんの少しだけ開くと、まだ少し肌寒く、澄んだ4月の空気が流れ込んできた。
目が覚める。
エイチェルは、ダイニングの椅子に腰かけ琴に手をかけた。
思いつくままに指を踊らせる。地元に古くから伝わる歌なんかを、なんとなく。
弦が空気を震わせていく。振動が家中に染み込んで、ジャクリーンのものだった家が、エイチェルのものへと染まっていくような感じがした。
ヒュンッ
しばらく弾いていたら、なんだか弦楽器とは違う音が聞こえてきた。弾きながら、琴以外の音が何なのか耳を澄ます。
ヒュッ ヒュッ
やっぱり聞こえる。
(外かな…)
気になるものがあると、好奇心が勝ってしまうエイチェルである。掃き出し窓を開いて、小さな庭に出てみた。
*
魔法界には「アクアフェンシング」という競技がある。
水魔法の操作に長けた者達の競技で、両者ボトル1杯の水を「つるぎ」の形に整え、フェンシングをする。単純な点の採り合いだけでなく、整えた水の剣の美しさ、フォームの美しさ等、表現力も採点項目になっており、一筋縄ではいかないところが面白い。世界大会に出るような選手は、まるでアイドルのような人気があり、ファンの多い競技である。
派生して、表現力のみを競う「アクアフェンシング・ダンス」という競技もある。こちらは相手がいないぶん危険性を考えなくてよいため、競技中の氷への状態変化も許可されている。
先ほどの音の正体は、アクアフェンシングの素振りの音だった。
そして、その剣の持ち主は、隣人のセリアルであった。
それほど広くはない庭で、水の剣を振り回しているのだが、水の動きはしなやかで滑らか。巧みに形を変え、時には途切れて2本になり、また1本に戻る。むやみなところにぶつかる様子は全く無い。
水に朝日が反射してガラスのように煌めいている。時々わざと水しぶきに変えているようで、虹が広がる。
凛とした横顔は、神々しささえある。
「きれい・・・」
「わっ」
パシャアァァ
思わず声を発したエイチェル。びっくりしたセリアルは、剣に走らせていた魔法を解いてしまい、水は庭木の根元に染み込んで行った。
「あぁっ ごめんセリアル! 邪魔するつもりはなかったの」
「あー、いいよいいよ、水ならいくらでもあるんだ。
・・・でもなんか恥ずかしいな。誰も見てないと思って気が抜けた素振りしてたから・・・」
照れくさそうにはにかむセリアル。
髪の毛にも少し水がかかってしまったようで、朝日が当たってキラキラしている。
「ううん、すっごく綺麗だった!! ずっと見ていたいくらい、綺麗だったよ。
魚のひれみたいなそのフリルがひらひらして可愛いし!!」
「やだな、照れるよ…ありがと」
謙遜しているが、セリアルがそれなりの腕前だというのは、あまりスポーツに詳しくないエイチェルにも分かった。鍛練を重ねてきた、確かな重みと自信のようなものを感じたのだ。
「あ、それ、弾いてたのエイチェルだったんだ」
エイチェルが小脇にかかえていた楽器を指差して、セリアルが言った。
「あんまり見たことがない形だけど、何ていう楽器なの?」
「ラナ・ハープっていうんだけど、楽器屋やってるお父さんの手作りなの。変形弦楽器だよ」
「そうなんだ。その、丸い部分はなに?」
セリアルが、琴の端に付いている花のつぼみのような、丸い部分を指差す。
「これはね、拡声器。カエルが鳴く時みたいに膨らむの。朝みたいに静かにしていたい時は、使わないけどね」
「へぇ~! さっきは誰が弾いてるか分かんなかったけど、すっごく心地好い音だなぁと思って聞いてた。久しぶりに音楽に合わせて素振りしたら気持ち良かったよ」
「本当!?」
エイチェルの表情がぱあっと華やぐ。
「毎朝弾くの?」
この質問をした瞬間、今度はちょっと困った顔になる。
「うっ いやそれが… 私あんまり早起き得意じゃないから、たまに早起きした時だけ…」
「なんだ勿体ないな~」
笑い合いながら、エイチェルがちょっとおどけて和音を3つほど鳴らした。
「朝は余裕が無くて弾けないことが多いかもしれないけど、放課後とかはまめに練習する予定だよ」
「いいね、楽しみにしてる。
あ、そういえばもう、わりといい時間だね」
「えっ 今何時?」
「8時5分」
「えっ もう? まだ朝ごはん食べてない!」
慌てて琴を携帯フォルムに戻すエイチェル。
「おっ 急げ~ 30分になったら一緒に行こうよ」
「わかった、30分ね~!」
バタバタバタと家の中に引っ込んでいくエイチェルの背中を、セリアルは見送った。
「ずっと見ていたい、かぁ」
アクアフェンシングをしていると「カッコイイ」と言われることが、実は圧倒的に多い。みな本心から褒めてくれているわけだし、事実、アクアフェンシングは格好良い競技だと思う。
まして、自分のように長身の女なら尚更だ。それはそれで、いいと思っていた。
― 綺麗! ずっと見ていたい ―
― フリルがひらひらして可愛い ―
セリアルが、カッコイイ以外の感想をもらったのは、どれくらいぶりだっただろう。なんだかうきうきするような、むず痒いような心地がする。
「なんだ、本当に照れてるのか、私」
ちちちっ と小鳥のさえずりが頭上を行き来する。
少し頬を赤くしながら、セリアルも家の中へ戻った。