【第17話】恥ずかしがり屋の腹話術師
ここのところの陽気とはうって変わって、今日はあいにくの空模様。一度春の暖かさを知った体には、4月の霧雨は堪える。
ぶるっ と身震いをしたが、カイロを使うほどではないので、エイチェルは丹念にマフラーを巻いた。今日は靴下もやめて、タイツにしよう。
「エイチェル~ おはよ!」
セリアルが訪ねてきてくれる。
「今出るよ!」
ピンクの傘を手に取り玄関を開けた。
今日はセリアルも長ズボンだ。タイトめなシルエットで、更に厚めのヒールを履いているので、スラリとした長身が目立つ。
「あれ、セリアル傘ささないの?」
「ん、どしゃ降りじゃないし、近いし、ドライコートでいいかなと。エイチェル持ってないの?」
「あー、一応持ってるけど、私あれ下手くそで、どこか濡れちゃうんだよね…」
雨よけというアイテムが市販されている。商品名でいうと、ドライコートとかアメカラリとか色々あるが、どれも原理は大体同じ。身につけると水魔法の作用で自分の周囲の水を弾き、体に当たらない便利アイテムである。
しかしこの商品、全身が完全に濡れないにはコツがいるのか、エイチェルは苦手である。気が散りやすいからかもしれない。
ちなみに傘は、起動すると頭上で花のように開く。見た目も可愛い上に、空気魔法の作用により、横からの雨や地面からの跳ね返りも防いでくれるので、エイチェルは傘の方がお気に入りだ。
そんなわけで、エイチェルは傘をさし、セリアルは傘なしで歩き始めたわけだが、なんだか落ち着かない。
「セリアル… なんかさ、端から見たらさ、濡れてるセリアルを放置して私だけ傘さしてるように見えない?」
「そうかな? 気にしすぎだよ。他にもドライコート使ってるっぽい人いるじゃん」
そう言ってセリアルが笑っていると、2人の目の前に小さな銀色のカエルが飛び出してきた。鏡のように、体に周囲の景色が写り込みながら光っている。
「あぁ~! カガミアマガエルが…」
当然エイチェルは歓喜するが、セリアルも慣れてきたのである。エイチェルがしゃがみこむ前に、すかさずエイチェルとカエルの間に入る。
「そんなに片方が傘さしてるのが気になるなら、私も入れてもらおっかな~!!」
「あっ う、うん」
カエルはぴょこぴょこ、植え込みへ消えていき、相合い傘の2人は無事に学校にたどり着いた。
*
今日の授業は呪文学である。
授業は基本的に、担当する研究教室の付属の講義室で行われる。呪文学の研究教室は、「基礎魔法棟」にあるので、今日の目的地はそこだ。授業は2コマ連続で、午前中いっぱいそこにいることになる。
古めかしい扉を開いて講義室の中に入ると、紙とインクのにおいがする。外の冷たく湿った空気とは対照的に、ほんのりと暖かく、よく乾燥していた。
部屋全体を覆うように、作り付けの本棚が取り囲み、まるで図書館である。
席に座って雑談している学生が多い中、本棚にかじりついている学生がいる。
「すごい! すごいですよラスター!! これとこれと、あとこの本も、図書館にはなかった蔵書です!! さすが、呪文学関連の充実度が飛び抜けていますね」
「え、図書館にあったかどうか、全部覚えてるわけ?」
「え? あぁ、少なくとも基礎魔法学分野の本棚は覚えました」
「まじかよ」
「ええ、まぁ、もう何度か行ってますし」
「スペルのそういうところ、本当引くわ…」
「どういう意味ですか?」
「うはは、のめり込むほど好きなものがあるっていいよなって意味だよ」
一瞬表情が険しくなったスペルを、ラスターは笑って流した。「何でもそこそこ」タイプのラスターには、今のところ、ここまでのめり込めるようなものがない。料理やホウキは多少こだわりがあるが、まぁ趣味程度だ。
スペルは、本の読み過ぎで夜更かしするせいか、毎朝のように寝坊する。根っからの運動音痴なのに意地っぱりだし、本当に困った奴だが、好きなものにまっすぐな姿は、実際のところちょっと羨ましい。
スペルは、ラスターが変な誤魔化し方をしたな、とは思ったが、本の方が気になるのでそれ以上追及はしなかった。
忙しそうに、手帳に何やらメモしている。
「ここにある本も借りられるのか、後で先生に聞いてみないと」
「もうすぐ始まる時間だから、早く席取らないと一番前しか選択肢なくなるぜ」
教室には、2人1組の長方形の机が沢山並んでいるが、2席とも空いている机は、もう少なくなっている。
「むしろ一番前に座りたいんで、いいですよそれで。ラスター席取っといてください。あとちょっとメモしたら行きますから」
「はいはい」
一番前って何だか落ち着かなくて、好きじゃないんだけどな、と思ったが、ラスターは仕方なく一番前の席を確保した。
メモを終えて席に着いたスペルの顔は、既に満足げだ。まだ授業も始まっていないのに。
きぃ、と乾いた音を立てて、入口のドアが開く。
先生が現れると、その異質な姿に教室が急に静かになった。
先生の前髪は長く伸びていて、目が完全に隠れている上に、動きがオドオドしていて挙動不審。背格好から男性だということは分かるが、表情は読み取りにくく、年齢も不詳である。
それだけでも、かなり癖の強そうな人物だと予想できるが、極めつけはその左手。
ピンクでフリフリのお洋服を着た、金髪のお人形を持っているのだ。
お人形の大きさは、40cmくらいはある。スカートの中に先生の手が入っているので、脚を持っているのだろうか? 顔の高さあたりに掲げて持っているので、かなり目立つ。
その姿に突っ込んでいいものか、誰も分からない。皆黙っていた。こういう時、真っ先に嘲笑うマーティンですら静かだ。
オドオドした動きのまま、先生は教壇にたどり着くと、軽く握った右手でコソコソと口元を隠しながら黙っている。
教室にいる皆が、目の前に現れた奇妙な男の第一声に注目していた。エイチェルが思わず「ごくり」と生唾を飲み込んだ、その時だった。
「新入生の皆さん、こんにちは~!!(裏声)」
先生にはかなり不釣り合いに思える、陽気で甲高い声が、突然教室に響いた。
「はじめまして! わたくし、この授業の助手をしています、ガブリエルちゃんです!!(裏声)」
先生が左手で掲げている金髪のお人形が、身ぶり手振りで自己紹介をしている。よくよく見ると、口も動いている。腹話術人形だ。
ツッコミが追い付かない学生達の反応には一切触れず、ガブリエルちゃんはそのまま捲し立てる。
「そしてこちらは、呪文学の教員、スー・スペンサー先生でーす!(裏声)」
ガブリエルちゃんが先生を紹介すると、スー先生はみるみるうちに赤面していく。無言のまま小刻みにペコペコした。
というか、ガブリエルちゃんは腹話術人形なのだから、先生が動かしているはずである。茶番か。
「スー先生は、とーっても恥ずかしがり屋さんなので、授業は基本的に、わたくし、ガブリエルちゃんが代弁します! よろしくね!!(裏声)」
恥ずかしがり屋?
普通に考えたら、腹話術で授業をする方が恥ずかしくないだろうか。座って聞いている誰もが、おそらく同じことを思っているだろう。
しかし、突っ込む暇を与えまいとするように、ガブリエルちゃんのトークは止まらない。
「スー先生は、メルセディア上級魔法学校を卒業したあと、ここ、北半球上級魔法学校の研究生として呪文学を5年研究して、その後教員に就任されました。専門は新型呪文の開発で、毎年数多くの論文を執筆しています。昨年度は19本もの論文を投稿しました。ちなみに現在38歳独身で、夕食は大抵クレヨン食堂で済ませますが、金曜日はクリスタル食堂を利用することが多いです。なぜなら金曜日のクリスタル食堂では、教員限定でアルコールが頼めるから。スー先生はこう見えてお酒好きです。住まいは学校からほど近く…(裏声)」
スー先生がゆでダコのように赤い顔で震えながら、ガブリエルちゃんのスカートの裾を引っ張ると、ガブリエルちゃんのマシンガントークが止まった。
ガブリエルちゃんは、先生が操作しているんじゃないのだろうか。呪文で別人格が与えられて、自律的に動いている可能性は、あるにはある。しかしガブリエルちゃんの声は、純粋な女の子の声ではなく、男性が裏声で出している声としか思えない。実際のところ、どこまで先生の演技なのか謎である。
「ン、エヘン、えー、失礼いたしました。ちょっとプライベートを話し過ぎましたぁ!(裏声)」
ガブリエルちゃんがペコッとお辞儀をして、スー先生は真っ赤な顔のままうつむいた。
「それでは皆さん、今日の授業を始める前に、席替えをしましょう! 新しい友は、時に新しいアイディアを生むものです!! これからくじ引きをしますよ(裏声)」
新学期の授業がスタートして、もうすぐ1週間。そろそろ何となく、一緒に行動する友人が固まってくる時期である。そんなタイミングで、あえて席をくじ引きでシャッフルし、新しい知り合いを増やす機会を提供するというのだ。
先生はとにかく異様だが、やろうとしていることは、まぁ、結構まともである。
ほら、スー先生配って、とガブリエルちゃんに促されると、先生がわたわたしながらポシェットから紙の包みを取り出した。
先生が右手で包みを開くと、ひらり、ひらりと、5cm四方くらいの薄紫色の紙が舞い出てきた。紙は無数の蝶のように漂いながら、学生達の頭の少し上あたりを飛び交い始める。
「さぁ皆さん、お好きなくじを1枚選んで捕まえてくださいね!(裏声)」
スー先生とガブリエルちゃんへのツッコミは、もう追い付かないのでとりあえず置いておくことにして、学生達は頭上の紙きれに次々と手を伸ばし始めた。
セリアルも手を伸ばしたが、この紙、意外と逃げる。2匹目の紙に逃げられて、ふとエイチェルを見た。
エイチェルは、頭上を飛び交う紙達を、真剣な眼差しで見ていた。
動きは一見不規則なようで、左右へ揺れる動きになんとなく規則性がある。そして、進行方向にある障害物はうまく避けるようだが、下から来る障害物への反応は遅めだ。
これ!
狙いを定めると、サッと手を伸ばし、人差し指と中指、2本の指で挟み取った。
「お、おぉ… うまい…」
思わずセリアルが呟く。セリアルに観察されていたことに気づいて、エイチェルはえへへと笑った。
「なんか、虫っぽいなと思って」
エイチェルの指に捕らえられた紙は、数秒パタパタと羽ばたいていたが、やがて動かなくなった。
「いやほんと、ハンターの目をしてたよ」
「褒め言葉だと思っとくね、ありがと!! この紙、下から来る物に対する反応は遅いみたいだから、前からじゃなくて下から狙うと良さそうだよ」
「なるほど…!」
セリアルは、ついつい予想される進行方向に手を置いて、そこで捕まえようとしていた。
瞬時に観察して、動きの法則を見破る。エイチェルは本当に生き物好きだな、と改めて感心した。
エイチェルのアドバイス通り、下から手を伸ばすと、紙はあっさりと捕まった。
紙にはまだ何も書かれていない。薄紫色の無地だ。
*
ウィズは、何気なく手を伸ばしたら、くじ引きの紙があっさり捕まった。しかし、隣に座るミランダは、なかなか捕まえられない。
「みーちゃん、ボクも手伝ってあげるよ!」
カッコよく捕まえて、ミランダにパスしよう。そう思って再び紙に手を伸ばすが、今度はなかなか捕まらない。まっすぐ飛んできているのに、手が近づくと、ふいっと方向転換してしまうのだ。
「あ、あれ? おかしいな… えいっ!! あれぇー?」
「ご、ごめんね、ウィズくん、いつもごめんね…」
申し訳なさそうに謝りつつ、ミランダもブンブン手を振るが、余計に紙達が逃げていく。
「んもう! 別に謝らなくてもいいのに! この紙がみーちゃんから逃げちゃうのがいけないの!!」
学生達が紙を捕まえるたび、漂う紙も減っていく。密度が下がって、さらに捕まえるのが難しくなってきた。
「……」
「みーちゃん?」
「…この紙、くじ引きなんだよね。この紙を取ったら、ウィズくんと席が離れちゃう…」
「みーちゃん…」
ウィズは、漂う薄紫色の紙を見つめるミランダの方を見た。純白の睫毛が、不安そうな赤い瞳を縁取っている。
「まだくじを捕まえていない学生さんにヒントです! この紙、壁にぶつからずに漂い続けるために、進行方向にある障害物は避ける呪文がプログラムされています。ということは、つまりー?(裏声)」
ミランダは、ウィズと席が離れるのが嫌なのだ。そんな言葉を聞かされて、ウィズは紙の捕獲を投げ出したくなっていたが、ガブリエルちゃんからの圧力もある。
「みーちゃん、聞いた? 進行方向から紙に近づいちゃダメなんだって」
「う、うん」
「ボクもみーちゃんと離れるのは嫌だけど、仕方ないね… あ、ほら、もしかしたら、偶然また隣になるかもしれないし!」
ウィズは、ミランダの左手に、そっと右手を重ねた。
ひらり、ひらり。
ちょうどこちらへ向かってくるくじが1枚ある。ガブリエルちゃん、もとい、スー先生が調整してくれているのだろうか。さっきまでのくじよりも、いくらか飛ぶ速度が遅く感じる。捕まえてくれと言わんばかりだ。
「前から手を出しちゃダメ、だから、下とか横から行くと、きっと捕まるんだ。ほら、みーちゃん、来るよ」
「うん」
ミランダが、タイミングを見計らって右手を伸ばす。進行方向に対して横からつまみ、無事にくじを捕まえた。
ミランダの手の中で、はたはたと数回、力なく羽ばたくと、薄紫の紙は動かなくなった。
「はい、皆さん、無事に1人1枚くじを捕まえましたね(裏声)」
くじ、とは言っても、手の中の薄紫の紙には、まだ何も書かれていない。
「今から皆さんに、隠れている文字を暴くための『あぶり出し』の呪文をお伝えします。番号が読め次第、席を移動してください(裏声)」
ほら表示して、と、スー先生はまたガブリエルちゃんに催促されている。スー先生が小さな杖をポシェットから取り出し、オドオドと振ると、机の上に金色に光る番号が現れた。
次に、スー先生はポシェットから、30cm四方くらいの薄紫の紙を取り出して広げた。学生達が捕まえたくじと同じ紙の、大きいものだ。
スー先生は、広げた特大くじを右手で持ち、顔の高さくらいに掲げる。ちょうどガブリエルちゃんと並ぶ感じだ。
「それでは、あぶり出しの呪文です。アピアピア~!!(裏声)」
ガブリエルちゃんが呪文を唱えると、薄紫の紙に金色のインクで、北半球上級魔法学校の紋章が現れた。
「はい、皆さん、呪文はアピアピア、アピアピアですよ! 可愛い響きでしょう!!(裏声)」
ガブリエルちゃんが、またスー先生を催促して、黒板に呪文を大きく表示させた。
「この『あぶり出し』を利用することで、個人情報を含む機密文書等を守ることができます。誰にでも解除できたら意味が無いので、実際には更に多重ロックをかけたりするのですが… まぁ、『あぶり出し』自体は何かと便利な呪文です! 覚えてね!(裏声)」
各々呪文を唱え、表示された数字を見て立ち上がり始める。
「セリアル、何番だった? 私22番」
「私80番だ。めっちゃ離れたね~! じゃあ、また後でね!!」
「うん、またね!!」
教室には2人1組で座れる机が、横に5つずつ並ぶ。つまり、1列目は1番から10番まで。エイチェルの引いた番号である22番は、3列目の左端の方だ。
席に近づいてみると、隣の21番の席に座ろうとしている学生は、どう見ても見覚えのある人物。青とも金ともつかない偏光カラーの髪の毛の、彼である。
「あれ、ラスターもしかして、21番なの?」
「ん? そうだけど、エイチェルは?」
「22番!」
「えー、なんだよ、知り合い増えないじゃん!!」
そうは言ったが、内心ラスターはがっかりなどしていない。むしろ浮き足立つような気分に襲われて、自分でも、あれ? と思った。
「既に知り合いで悪かったねー! まぁでも、気が合わない人じゃないって分かってるし、良かった!!」
「そ、そうだな!」
笑顔で隣の席についてくれるエイチェルを見て、自分の顔が緩むのを感じ、ラスターは思わず右手で口元を隠した。
「だって例えばさ、セリアルとスペル君が隣とかだったら、まずくない?」
「あ、それはなんかまずいな」
確か、スペルは70番台前半の番号だった。ラスターが立ち上がり、講義室を見渡すと、スペルが自分達の席の後ろの方に座っているのが見えた。一番前で授業を受けたいと言っていたのに、ずいぶん後ろの方になってしまって、ちょっと不服そうだが。
「セリアルは何番って言ってた?」
「80って言ってたよ」
80番なら講義室の一番右端だ。かなり離れている。
「良かった、それならかなり離れてるな」
「そっか、よかよか」
「はい! 皆さん新しい席に着きましたね。では隣の人と自己紹介を3分で!(裏声)」
エイチェルとラスターは、もう自己紹介が済んでしまっているので、雑談を続ける。
「あいつ、ちょっとひねくれてるけど、わりと面白い奴なのになぁ、なんであんなにセリアルだけ目の敵にして…」
「正直、セリアル結構凹んでるよ」
「だろうな。どうも、1番になりたいって欲望が強すぎて、セリアルを目の上のたんこぶみたいに思ってるみたいなんだけどさ」
「意地張っても1番になれるわけじゃないのにね」
「それな! それだよ。今度スペルに言ってやってよ」
「えー無理だよ、私そんなに仲良くないもん!」
「うーん…、まぁ、そうだなぁ、こっちが気を使って疲れるし、機会を見てオレが言うのかなぁ… 早いうちの方がいいよなぁ…」
セリアルの方は特別敵意を示しているわけではないが、スペルからの一方的な拒絶に凹んでいるのが薄々分かるだけに、ラスターまで申し訳ない気持ちになる。それに加えて、ラスターがエイチェルと話したいと思ったとき、セリアルとスペルのせいで非常にやりずらいのだ。これ以上仲が悪くなられると困る。そういう下心も、正直ある。
眉間に皺を寄せて、うーん、と唸りながらぽりぽり頭をかくラスターを、エイチェルは改めて見た。
生まれつきだろうけど髪の色は派手だし、ぱっと見は結構軽くて気さくで、ちょっとチャラそうなのだが(失礼!)、出会ったその時から、エイチェルの無礼もさっさと水に流してくれるし、面倒くさそうな性格の友人を、ずいぶん心配して頭を悩ませている。
「ラスター、いいやつだねぇ」
「えぇ?! なんだよ急に!!」
ふふん、と笑いながら言うエイチェルに、ラスターの緩んだ顔は、もう右手だけじゃ隠せなくなりそうだ。下心はバレたくない。
「では皆さん、改めまして、呪文学の授業を始めます。教科書を出して、2ページを開いてください(裏声)」
呪文学の教科書。
あの、異様に分厚くて重いやつ。多くの新入生にとって、教科書購入日に、持参の圧縮ポシェットに入らなくなる原因の、あれである。
ラスターはよいしょ、と分厚い本を取り出した。隣を見ると、エイチェルが圧縮バッグの中をしきりにまさぐっている。
「あ、あれ? あ、教科書… 」
「忘れたの?」
「いや、昨日入れたはずなんだよ、いや、でもね…」
おかしい。あんなに重くて存在感のある本を忘れるなんて。昨日の夜、忘れないようにって、本棚から出してきたのははっきりと覚えている。でも、バッグの中に見当たらない。
エイチェルはもう、半分頭をバッグに突っ込んでいる状態だった。
「早くしないと進んでるぜ、ほら」
ラスターは教科書の2ページを開いて、エイチェルの方に寄せる。
「ありがとう、でも確かに入れたような気が…」
「いいから、諦めなよ」
「うーん、うん、ありがとう。ラスターほんとにいいやつ」
出会った時から、ラスターにはうっかりしたシーンばかり見せている気がする。いや、そもそも、普段からうっかりしてばかりなので、それは仕方ないことなのだが。
エイチェルは、自分のうっかりぶりが恥ずかしくてちょっと頬を赤らめながら、改めて礼を言った。
「ありがとね」
「お、おう」
エイチェルは、椅子を少しラスター側に近づけて、教科書を覗きこんだ。
ふわっ
ラスターの鼻先に、嗅いだことのある甘い香りが届く。花とも果実とも取れるような、近づかないとはっきりとは分からない、ほのかな香り。
ラスターは、入学セレモニーの日を思い出していた。
セレモニー終了後、フィービー先生の合図で集合写真を撮った。1枚目は『真面目なやつ』2枚目は『弾けたやつ』、という指示だった。あの時、セリアルは宣誓のあとそのまま壇上にいたから、プレートの上にはラスターとエイチェルの2人きりだったのだ。
『弾けたやつ』で一体何をしたらいいのか思い付かないまま、どんどんカウントダウンは進む。その時、壇上でステラ校長が、セリアルとスペルと肩を組んでいるのが見えた。ラスターはとっさにエイチェルと肩を組んだのだった。
あの時の香りだ。
セレモニーが執り行われたアンバー・ハニカム大講堂は、蜜のような甘い香りが強くて、あの時感じた香りがエイチェルのものだったかどうか、ラスターは確証が持てずにいた。
間違いない。あの時の香りは、エイチェルの香り。
「ねぇ。ねぇ、ラスター聞いてる?」
小声でエイチェルから話しかけられて、ハッとして我に返った。
エイチェルの顔が近くて、心臓がバクンと大きく脈打った。
「あ、ご、ごめん何?」
「ページ、めくるからね」
言われて手元を見ると、なるほど自分の手が邪魔だ。
呪文学の教科書があまりにも分厚いので、開いた左側のページは、しっかり押さえておかないと、また閉じてしまう。本を開いた左側のページを押さえておくために、そういえばど真ん中に手を乗せてあったのだ。これでは次のページをめくった紙の行き場が無い。
「ごめんごめん」
「…ちゃんと聞いてないと、当てられたら困るでしょ」
めくったページの先をラスターに受け渡しつつ、眉をひそめて、すごく怪訝そうな顔で、エイチェルが顔を覗きこんでくる。
「私も気が散りやすい方だけど、ラスターも大概だね」
いやいやいやいや、集中できないのは君のせいなんですけど、と思ったが、とてもそんなことは言えない。
「い、今どこ?」
「ここ。4行目」
呪文学の歴史概要の話が終わり、呪文の定義の項目に移ってしまっている。
集中、集中。
自分に言い聞かせて、ラスターはできる限り教科書だけを見るように意識したが、なかなか難しい。サラサラしたピンク色の長い髪を視線の端で追いかけながら、エイチェル、これからも毎日忘れ物してくれないかな、とか考えていた。まぁ、都合良く隣に座れる機会が、そう何度もあるとは思えないけれど、妄想するだけならタダだ。
エイチェルの耳元で、時々セミの翅のイヤリングが揺れて、かすかな音を立てる。その音は、ガブリエルちゃんの甲高い声よりどう考えても小さいはずなのに、授業の内容がかき消されて聞こえないほど、ラスターには響いて聞こえるのだった。