第3話
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
同日、夜半のこと。
開けたところを、駆けていた。短い手足を、遮二無二振りつつ。砂場で砂いじりをしたり、滑り台を滑り降りたりと、無邪気に遊ぶ。自分の世界はこんなにも広くて、毎日が面白い。
ただ、それだけが続けば良かった。
不意のこと、だった・・・・・・。パァン、という乾いた破裂音。自分の立つ足元が、いきなり崩れる。パァン、と。今度は身体の前辺りに。ひたすら逃げた。やめてと願ってもそれは叶わず、イヤだといってもそれが止まることはない。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
パァンパァンと破裂音は続き、時にはピュンという甲高い音が耳元を通り過ぎていく。もう、走るのも叫ぶのもツラかった。
そして・・・・・・急に自分の目の前で無数の音と光の渦が湧き溢れて、小さな自分の身体を覆うように被さってきて・・・・・・。
○○○○○○○○○○
「んっ・・・・・・っっ!?」
暗闇の中、目を覚ます。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
夜のこと。急に目覚めた反動か、自分が布団から身体を起こしているのに気づく向井。
はあ、はあと、息があがっている。まるで、さっきまでずっと長い距離を走ってきたかのように。
寝苦しさに何回か寝返りを打ったのだろう、布団はいつもよりぐちゃぐちゃな感じだ。だいぶくたびれた煎餅布団だし、そろそろ替えどきかな。
そんなことを思いつつ、布団を抜けてキッチンまで行く。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
「暑っつ・・・・・・」
呟き、その辺に置いたグラスに水道水を注ぐ。しかし、ひと口含んだらやっぱり温いので吐き捨てて、冷蔵庫から冷たい炭酸水を取り出して一気に飲んだ。
「んあ、っっ~・・・・・・!」
のどの奥がピリピリするが、それが心地良い。もう一杯分注いで、今度はゆっくり飲んだ。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
「ったく・・・・・・」
おかしな目覚め方をして、不機嫌になる向井。最近、何だかイヤな感じの夢が多い気がした。特に引っ越してから、あまり良い夢を見た覚えがない。ただでさえ、暑くて寝つけないというのに。
まあ、寝不足になるほどではないものの。
「ワケ分かんね」
呟き、もう空になった炭酸水のボトルを流し台のところに放る。まあ、朝片づけよ。もう・・・・・・。
じゅくじゅくじゅくじゅくじゅく。
深くため息をつき、布団に倒れこむ。ピピピっとクーラーのスイッチを入れて、もう一寝入りした。
○○○○○○○○○○
寝つきは良くなかったが、翌日はそんなに苦もなく一日が過ぎていく感じだった。いつものようにアルバイトをこなし、夕方には帰路に着く。帰りがけにデパ地下の惣菜店で揚げ物を買い、唐揚げをいくつかオマケしてもらう程度にはツいていた。
早く帰ろうとの思いで、鉄道駅から自宅への道のりを行く向井。一つめの角を曲がろうとしたところで、ふと見知った相手と遭遇した。
「おや。向井さん」
黒色基調のスーツに身を包んだ、向井より少し歳上の会社員らしき男性。向井と同じく『裏野ハイツ』の住人、一〇三号室に住む山川さん。奥さんと、確か三歳になる息子さんとの三人暮らしをしている。引っ越しの挨拶をしに行ったときも、気さくに応対してくれた。
向井は会釈をしつつ「山川さん、こんにちは!」と挨拶を返し、「暑いですね~・・・・・・」などと言いながら近くまで歩み寄っていく。
ちょうど、保育園の迎えにでも行ったのだろう。山川さんの側に、保育園の制服を着た男の子の姿があった。
「タカシくん、こんにちは」
子供の目線まで腰を屈めつつ、陽気に声をかける向井。しかしタカシと呼ばれたその子は押し黙ったまま、サッと父親の脚の陰に隠れてしまった。「こらこら、孝」と、山川はたしなめようとするが、「いやいや、驚かせてしまって」と、向井は角の立たない応対を返した。
「じゃあ、また」
どうやらパートをしている奥さんと待ち合わせをしているらしく、向井はひと足先に失礼し、ハイツへと向かっていった。
○○○○○○○○○○
自宅のハイツまで戻り、今どき見かけるのも珍しいだろう古めかしい感じの格子階段を上がっていき、二階の自室へと向かう。しかし階段を上がりきったところで、老年の女性がいかにも重たそうに新聞紙の束を持って共用廊下に下ろしたりするのが見えて、さすがに向井は立ち止まった。
「ああ、三ツ木さん。手伝いますよ!?」
見かねて、すぐさまそちらに歩み寄る向井。二〇一号室の三ツ木さん。『裏野ハイツ』の、かなり古株の方らしい。かれこれ十年二十年、ここで独り暮らしをしているのだとか。失礼ながら当然高齢の方なので、手伝えるところはハイツの住人同士で声をかけ合うようにしている。
向井が呼びかけると三ツ木は「ああっ・・・・・・。ええーとお、むか、えっと、ん向井ぃ~さんんっ???」と、 老人特有の間延びした物言いで答えた。
向井は廊下に出された新聞紙の束を抱えて、ハイツ近くのごみ置き場にそれを持っていった。
「ま~あまあ、ありがとうねー」
三ツ木は礼を述べるのに低めの腰をさらに下げようとして、しかし向井は「いえ、これくらいは」と、無理をさせないようにそれを押し止めた。
「お仕事のぉ~帰りぃー?」
「ええ」
聞かれて頷く向井。「暑いですよね~」と、やはりご近所との会話のテンプレートを口にした。
「ええ、ええ。本当にねえ~」
ゆったりとそう答える三ツ木。「では、また~」と、向井はやはり愛想良く別れを告げ、自室の方に歩いていく。二〇一号室から二〇二号室を過ぎて、自室の二〇三号室へと・・・・・・。
ミンミンミンミンミン。
ふと、向井の歩みが止まる。二〇二号室のところから、ふと風の吹き抜ける、か細い音がした。
「・・・・・・?」
ちょっと首を傾げつつその号室の扉を見つめる。
ひゅー。
しかし、かすかにその風の鳴る音がする以外には、特に変わったことなどない。
自分がここに越してきてから、引っ越しの挨拶も含めこの部屋の住人だけには会ったことがなかった。挨拶の品も、向こう隣の三ツ木さん経由で渡してもらったという格好だ。それに対して、二〇二号室の住人からは何もない。まあ、そういう人など向井が知る限りでもざらにはいるし、気にもしていないが。
「ここの方って、いつも留守にされている感じでしたっけ?」
ちょうど部屋に入ろうとしていた三ツ木に向かって問いかける向井。三ツ木は扉のノブに手をかけたまま、
「まあ、″あの子″はねえ・・・・・・」
と、ひと言だけを返してくる。まあ、隣人のこととはいえこれ以上の詮索は良くないだろうと思ったので、向井は
「そうですかー」
と、引き下がる。「新聞本当にありがとうねえ~」と言いながら三ツ木が部屋に入っていくのを見届けて、向井はもう一度二〇二号室の扉に目をやった。
「んっ・・・・・・何だかな~」
気のせいだろうかと、いぶかしく思いつつ呟く。
ひゅー。
側を通る度に、そこだけが鳴く。
特に風通しの強い所ではないはずだが、越してきてから少し気になっていることだった。




