第2話
翌朝。通勤時間帯に遭わない程度に、早めに家を出る。
ここ一、二ヶ月は、都内のデパートで販売員の仕事をしている。開店時間に合わせて朝こそ早くなるが、バイトの身なので自分は夕方までには上がれる。平日の三日と、土日のどちらかに出勤。
それで稼げるのかと聞かれるとまあ耳が痛いものだが、しかし自分の場合はお金よりやりがいを求めてのアルバイトだった。
「あら、向井さん。おはよう!」
自宅のハイツ二階、二〇三号室から階段を下りていくと、ハイツの出入口辺りで掃き掃除をしている老年の女性に声をかけられる。
「あ、大家さん。おはようです~」
と、向井と呼ばれた自分・・・・・・向井慎太郎は挨拶を返した。
その女性は、向井の住む『裏野ハイツ』の隣、平屋に住む小松川さん。『裏野ハイツ』の大家でもあり、穏やかな旦那さんと二人、定年後ののんびりした暮らしを送っているらしい。しかしまあ、老年とは言ったものの、二十代の自分より早起きとは元気な方だ。
「もう、お部屋の方には慣れたかしら?」
「あ、はい!大丈夫です~」
大家さんに聞かれて、愛想良く頷く向井。
自分がこのハイツに来たのも、つい二週間ほど前だ。以前は都内で、いわゆるシェアハウス形式のマンションに住んでいたものの、ふと環境を変えたくなった感じで、埼玉県○△市まで引っ越してきたのが経緯だ。
「アレですね、東京よりセミいっぱい鳴いてる感じで」
「まあ。そうなの」
向井の言葉にゆったり頷く大家さん。向井は正直、時間に余裕があるとはいえ早く鉄道駅に向かいたいのだが、まあ新参者なのであまり無粋な態度は取れまい。しばし、大家さんの二の句を待った。
「セミも、生きているものねえ」
手にした竹箒を弄びつつ、大家さんはしみじみ呟く。やや間が空いてから「一生懸命に」と続いた辺りで、さすがに向井も忍耐がもたなくなった。
「あっ、と。そろそろ、電車来るかもですね~」
ポケットからスマホを取り出して、いかにも今気づいたという言いぐさな向井の言葉に、ようやく大家さんがこちらの存在に気づき直したようで、
「あら!そうだったわね!?」
と、ようやく会話を締め括ってくれた。
「気をつけてね」
「あ、はい!行ってきますです~」
努めて愛想は忘れずに・・・・・・。そう心がけつつ、向井は颯爽な若者の体を装いつつ、徒歩で鉄道駅まで向かった。
○○○○○○○○○○
いつもの電車、東武○△線で二十数分ほど。途中で地下鉄○□線に乗り換えてひと駅行くと、東京都は荒川区△□に到着。下町のような、しかしあちこちにビルの建ち並んでるような、そんな所。
駅周辺のコーヒー店でモーニングを頼むなどして、開店準備の時間までゆったり過ごすのがいつもの流れ。日によって、ファストフード店などで過ごす日もある。
今日はいつもの通りに、コーヒーでひと息つき、仕事場のデパートに向かった。
鉄道駅から徒歩二分も行かないうちに到着、正面口でなく建物脇の目立たない職員用の通用口から、デパート内に入った。
「お、向井君」
「あら。今日も早いわね~っ!」
いつもの挨拶。守衛のおじさん、清掃のおばさん等々・・・・・・「お疲れさまです~」と、やはり愛想良く返事をしていく。通用口から館内の階段をいくつか上りきり、自分の担当する日用品フロアに着いた。
「おはようございます~」
少し薄暗く、物々しくごちゃついているバックヤード。開店の四十分くらい前だが、すでに何名かの従業員は開店準備にとりかかっていた。
「お疲れさま。向井君」
と、デパートの制服をビシリと着こなした壮年の男性がこちらに歩み寄ってくる。横手という、まあ細かい役職名は忘れてしまったが、要はこのフロアの責任者だ。
「横手さん、おはようございます!」
気持ち少し直立しつつ、しっかり返事をする向井。今はそうでもないが、開店すると厳しい仕事人に変わるのだ。
「今日も、早いね」
頷きつつ、向井の肩を軽くポンポンしてくる横手。「いつも助かるよ」と、綻んだ様子で続けた。
「まあ、もうちょい早く来れたらなって思いますけど・・・・・・」
「いやいや。遠くから通ってるんだから、あまり無理はしないようにね」
埼玉の○△は、一応遠いところになるらしい。自分的には、無理なく通えてるつもりだが。まあ、本格的に働くとなると確かに大変なのだろう。
「では。ちゃちゃっと着替えてきちゃいますので!」
やはり、颯爽とした若者の装いで、向井はバックヤード向こうの更衣室に向かった。
○○○○○○○○○○
フロアの準備やらをいつもの通りにこなしていき、朝礼の後に午前十時の開店を迎える。
開店してからも販売員としての仕事が待っているので、忙しさに事欠くことはなかった。フロアを回り、お客様の要望を把握し、レジの会計が忙しい場合はそちらに駆けつけたりと、まあ流れとしては目まぐるしい。
向井は、一応要領良く出来ている方だったが、それにしても今日は比較的忙しい日だった。
「ふう・・・・・・」
レジの応援を二回ほどこなした後で、フロアの隅っこでようやくひと息つけたという感じの向井。しかしまあ、ここで勝手に休むわけにも行かないので、本当にひと息つくだけだ。
「お疲れさま」
ふと中腰の姿勢から顔を上げると、自分と同年代の女性従業員から声をかけられる。今のため息もばっちり聞かれてたのかと、向井は気恥ずかしくなった。
「あ、えとお疲れさまっ!小柴さん!?」
サボりじゃないよと言わんばかりに、わたわた立ち上がる向井。その女性、小柴はくすりと、軽く笑いながら、
「もうちょっとでお昼ですよ」
と、フロア向こうの壁掛け時計の辺りを見やって続けた。遠目にだがなるほど、そろそろ正午も近い。しかしまあ、忙しい日に当たったかな。
「が、頑張ります・・・・・・!」
やはり動揺しつつもそう答えて、向井は気持ちを切り替えて仕事に戻った。
○○○○○○○○○○
無事に昼休憩に入れてホッとしたのもつかの間、午後もまた変わらずの忙しさが待っていた。日用品を取り扱っているフロアなので、とにかく一人あたり買い物の量が多い。商品の補充に、フロアとバックヤードを何度も往復する。十六時にようやく自分のシフトが終了したが、しばらく過ぎるまでその時間を気にするどころではないくらいだった。
他の従業員に申し訳なく思いつつも「お先に失礼します」と断りを入れて、向井はバックヤードから更衣室に向かった。
「あ」
その道すがら、同年代の小柴とすれ違う。「お先に・・・・・・」と、向井はやはり断りを入れた。
「お疲れさまでした」
忙しいだろうに、小柴は丁寧にこちらを労ってくれる。「ああいや、そちらこそお疲れさまで」と、やはりわたわたしつつ返事をする向井。
うーん、ちょっと意識し過ぎだろ。俺・・・・・・。同年代とはいえ、彼女は職場の先輩だというに・・・・・・。
「では、帰りは気をつけて」
と、小柴はそう言ってフロアの方へと戻っていく。「あ、了解す!お疲れで!」とちょっとおかしな返事になりつつ、向井はその姿を見送った。
○○○○○○○○○○
本日の労働も終わり、デパートを出て鉄道駅へと向かう向井。その手には、デパ地下の店で買ったボトルで飲めるシャーベットなんかがあったりする。
それを飲んでひんやりしつつ、道なりに駅前へと歩いていく。もう片方の手でスマホを取り出し、新着メッセージのチェックもする。
ミンミンミンミンミン。
どこにいても聞こえてくる、セミの鳴き声。
今年の夏も、まだまだ暑くなりそうだった。
「ん」
普段は友人らとはLINEやツイッターなどでやり取りをするが、今日は珍しくEメールが入っていていた。向井はそのメールを開いて、中身を読んだ。
「・・・・・・っ、ん~」
しばらく目を通し、無意識にうなる。二通ほど、それぞれ違う差出人から入っていたのだが、どちらも面倒な用件だった。
たまにメールかと思えば、コレである。
全く、もう・・・・・・。
「帰ってから、打つか」
とりあえず返信は保留し、スマホをしまう。メールの中身は見なかったことにして、ボトルのシャーベットをひと口ふた口と味わい涼みつつ、帰路に着いた。




