表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

洗脳エレベーター

その男、エフ氏は、あるときから奇妙な強迫観念に囚われるようになった。

エレベーターに乗ると、どうしても階数を示す電光パネルを見てしまうのだ。


一階、二階、三階……。

ただの数字が点滅するだけの装置だ。それ以上のものではない。しかし、エレベーターに乗り合わせた人々は、誰もが申し合わせたように首を上げ、じっとそのパネルを凝視する。洗脳されているのか、または厳かな宗教儀式でも執り行われているかのようだ。


なぜ見るのか。

到着までの残り時間を確かめるためか。気まずい沈黙をやり過ごすためか。あるいは、上昇しているという事実を視覚で確認しないと不安だからか。


エフ氏がこの疑問を抱きはじめたのは、ある夜、夢の中でエレベーターに乗ったことがきっかけだった。夢の中にもかかわらず、彼は自然とパネルを見上げていた。目覚めたとき、その従順さが無性に気持ち悪かった。


エフ氏は、ある日、エレベーターの中でひとつの光景を目にした。スーツ姿の男が、珍しいことにパネルから目を逸らし、ずっとスマートフォンの画面を見続けていたのだ。その男は目的の階で降りていったが、廊下に出た瞬間、何かがわずかにずれているように見えた。歩き方でも、表情でもなく、もっと根本的な何か。エフ氏はすぐに忘れた。あるいは、忘れたと思い込んだ。


エフ氏は、あえて視線を逸らそうと試みた。足元を見つめ、指先をいじり、壁の傷を数える。だが、だめだった。磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、どうしても視線が上を向いてしまう。


ある日、エフ氏は気づいた。

これほどまでに全人類が、抗うこともできずに一点を見つめ続けるのは、本能的な理由があるのではないか。何者かが、我々に「見ること」を強制しているのではないか。


「……そうだ。あれは『目隠し』なのだ」


エフ氏はエレベーターの隅で、密かに息を呑んだ。

手品師が派手な動きで観客の目をそらすように、あの光る数字は我々の視線を一点に釘付けにするための罠なのだ。我々が頭を上げ、パネルを見つめているその隙に、足元で、あるいは背後で、知られてはならない何かが行われているのではないか。


そう考えると、すべてに合点がいった。

エレベーターとは単なる移動装置ではない。乗客から注意力を奪い、何かを隠蔽するための空間なのだ。


確信を得たエフ氏は、実験をすることにした。

今日こそは、絶対にパネルを見ない。あの発光体による目隠しを拒否し、この空間に隠された真実を暴き出してやる。


エフ氏は、都心でもとりわけ高い超高層ビルのエレベーターを選んだ。理由は単純だ。距離が長いほど、実験の精度が上がる。鏡張りの扉に映る自分の顔は、どこか青ざめて見えた。

他の客が三人いた。彼らはやはり、吸い込まれるようにパネルを見上げている。エフ氏は強く目を閉じ、歯を食いしばった。


上昇が始まる。重力が足の裏にかかる。

見たい。数字を見たい。いま何階なのかを知りたい。

いや、我慢だ。ここで見なければ、自分はこの不可解な目隠しの外側へ出られる。世界の本当の姿を知ることができるのだ。


五階、十階、二十階……。

気配でわかる。隣の客が一人降りた。扉が閉まる。また、上昇が始まる。

三十階、四十階……。

また一人降りた。


エフ氏の額には脂汗がにじんでいた。脳の奥が、パネルを見るようにと激しく命令を発している。まるで身体の内側の何かが、規定の手順を踏まれないことに怯えているかのように。


これに抗うため、エフ氏は脳内で一つの作業を始めた。それは、巨大な螺旋階段をレンガ一つから組み上げるという想像だった。レンガの表面のザラつき、ひび割れ、染みついた汚れまでを、極限まで精密に思い描くのだ。

視覚がパネルの光を強烈に求めているなら、それを上回る圧倒的な解像度の映像を脳内に強制展開し、思考の「空き容量」を完全にゼロにしてしまえばいい。一段、また一段と、精緻なレンガを脳内で積み上げていく。


その作戦は功を奏した。彼は耐え抜いた。ついに最後の一人が降り、籠の中にはエフ氏だけになった。


静寂が、変質した。

それまでとは異なる種類の静けさが、箱の中を満たした。空気が薄くなったわけでもなく、音が消えたわけでもない。しかし何かが、違った。エフ氏は目を閉じたまま、その感触の正体を突き止めようとしたが、できなかった。かすかに、エレベーターの機械音が変わったような気もした。規則的だったリズムが、どこか微妙に間延びしているような。


目的地は最上階の八十階だ。

あと少し。あと少しで、自分は「見ることなく」目的地に到達する。隠された真実をこの目で捉えるのだ。


不意に、エレベーターが止まった。

到着のチャイムが鳴り、扉が開く。

エフ氏は勝ったのだ。一度もパネルを見ることなく、最後までやり遂げたのだ。


「ふふ……ふふふ。ざまあみろ」


エフ氏は勝利の笑みを浮かべ、顔を上げた。

そして、大きく見開いた目で正面を見た。


扉の向こうには、何もなかった。


ビルも、廊下も、空も、世界もない。

ただ、真っ白な虚無がどこまでも広がっているだけだった。白さには奥行きがなかった。距離も、境界も、影もなかった。においも、温度も、風もなかった。


背後で、冷ややかな声が聞こえた。


「残念ですが、お客様」


振り返ると、そこにはいつの間にか、無機質な顔をした係員が立っていた。制服は整い、表情は穏やかで、まるで苦情を受け慣れているかのようだった。

係員は、エフ氏が見るのを拒み続けた電光パネルを指差して言った。


「パネルまたはスマートフォンを見ていただかないと、風景の読み込みが完了しておりません」


エフ氏が叫ぼうとした瞬間、エレベーターの扉が静かに閉まった。

電光パネルの数字が、ふっと消えた。


(終)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ