洗脳エレベーター
その男、エフ氏は、あるときから奇妙な強迫観念に囚われるようになった。
エレベーターに乗ると、どうしても階数を示す電光パネルを見てしまうのだ。
一階、二階、三階……。
ただの数字が点滅するだけの装置だ。それ以上のものではない。しかし、エレベーターに乗り合わせた人々は、誰もが申し合わせたように首を上げ、じっとそのパネルを凝視する。洗脳されているのか、または厳かな宗教儀式でも執り行われているかのようだ。
なぜ見るのか。
到着までの残り時間を確かめるためか。気まずい沈黙をやり過ごすためか。あるいは、上昇しているという事実を視覚で確認しないと不安だからか。
エフ氏がこの疑問を抱きはじめたのは、ある夜、夢の中でエレベーターに乗ったことがきっかけだった。夢の中にもかかわらず、彼は自然とパネルを見上げていた。目覚めたとき、その従順さが無性に気持ち悪かった。
エフ氏は、ある日、エレベーターの中でひとつの光景を目にした。スーツ姿の男が、珍しいことにパネルから目を逸らし、ずっとスマートフォンの画面を見続けていたのだ。その男は目的の階で降りていったが、廊下に出た瞬間、何かがわずかにずれているように見えた。歩き方でも、表情でもなく、もっと根本的な何か。エフ氏はすぐに忘れた。あるいは、忘れたと思い込んだ。
エフ氏は、あえて視線を逸らそうと試みた。足元を見つめ、指先をいじり、壁の傷を数える。だが、だめだった。磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、どうしても視線が上を向いてしまう。
ある日、エフ氏は気づいた。
これほどまでに全人類が、抗うこともできずに一点を見つめ続けるのは、本能的な理由があるのではないか。何者かが、我々に「見ること」を強制しているのではないか。
「……そうだ。あれは『目隠し』なのだ」
エフ氏はエレベーターの隅で、密かに息を呑んだ。
手品師が派手な動きで観客の目をそらすように、あの光る数字は我々の視線を一点に釘付けにするための罠なのだ。我々が頭を上げ、パネルを見つめているその隙に、足元で、あるいは背後で、知られてはならない何かが行われているのではないか。
そう考えると、すべてに合点がいった。
エレベーターとは単なる移動装置ではない。乗客から注意力を奪い、何かを隠蔽するための空間なのだ。
確信を得たエフ氏は、実験をすることにした。
今日こそは、絶対にパネルを見ない。あの発光体による目隠しを拒否し、この空間に隠された真実を暴き出してやる。
エフ氏は、都心でもとりわけ高い超高層ビルのエレベーターを選んだ。理由は単純だ。距離が長いほど、実験の精度が上がる。鏡張りの扉に映る自分の顔は、どこか青ざめて見えた。
他の客が三人いた。彼らはやはり、吸い込まれるようにパネルを見上げている。エフ氏は強く目を閉じ、歯を食いしばった。
上昇が始まる。重力が足の裏にかかる。
見たい。数字を見たい。いま何階なのかを知りたい。
いや、我慢だ。ここで見なければ、自分はこの不可解な目隠しの外側へ出られる。世界の本当の姿を知ることができるのだ。
五階、十階、二十階……。
気配でわかる。隣の客が一人降りた。扉が閉まる。また、上昇が始まる。
三十階、四十階……。
また一人降りた。
エフ氏の額には脂汗がにじんでいた。脳の奥が、パネルを見るようにと激しく命令を発している。まるで身体の内側の何かが、規定の手順を踏まれないことに怯えているかのように。
これに抗うため、エフ氏は脳内で一つの作業を始めた。それは、巨大な螺旋階段をレンガ一つから組み上げるという想像だった。レンガの表面のザラつき、ひび割れ、染みついた汚れまでを、極限まで精密に思い描くのだ。
視覚がパネルの光を強烈に求めているなら、それを上回る圧倒的な解像度の映像を脳内に強制展開し、思考の「空き容量」を完全にゼロにしてしまえばいい。一段、また一段と、精緻なレンガを脳内で積み上げていく。
その作戦は功を奏した。彼は耐え抜いた。ついに最後の一人が降り、籠の中にはエフ氏だけになった。
静寂が、変質した。
それまでとは異なる種類の静けさが、箱の中を満たした。空気が薄くなったわけでもなく、音が消えたわけでもない。しかし何かが、違った。エフ氏は目を閉じたまま、その感触の正体を突き止めようとしたが、できなかった。かすかに、エレベーターの機械音が変わったような気もした。規則的だったリズムが、どこか微妙に間延びしているような。
目的地は最上階の八十階だ。
あと少し。あと少しで、自分は「見ることなく」目的地に到達する。隠された真実をこの目で捉えるのだ。
不意に、エレベーターが止まった。
到着のチャイムが鳴り、扉が開く。
エフ氏は勝ったのだ。一度もパネルを見ることなく、最後までやり遂げたのだ。
「ふふ……ふふふ。ざまあみろ」
エフ氏は勝利の笑みを浮かべ、顔を上げた。
そして、大きく見開いた目で正面を見た。
扉の向こうには、何もなかった。
ビルも、廊下も、空も、世界もない。
ただ、真っ白な虚無がどこまでも広がっているだけだった。白さには奥行きがなかった。距離も、境界も、影もなかった。においも、温度も、風もなかった。
背後で、冷ややかな声が聞こえた。
「残念ですが、お客様」
振り返ると、そこにはいつの間にか、無機質な顔をした係員が立っていた。制服は整い、表情は穏やかで、まるで苦情を受け慣れているかのようだった。
係員は、エフ氏が見るのを拒み続けた電光パネルを指差して言った。
「パネルまたはスマートフォンを見ていただかないと、風景の読み込みが完了しておりません」
エフ氏が叫ぼうとした瞬間、エレベーターの扉が静かに閉まった。
電光パネルの数字が、ふっと消えた。
(終)




