ニンゲンスーツ
その男、エフ氏は、どこから見ても立派な紳士だった。
仕立てのいい背広をまとい、高級な腕時計をはめ、都会のオフィスビルでそつなく仕事をこなしている。言葉遣いは丁寧で、誰に対しても温和な微笑を絶やさない。
しかし、彼の正体は人間ではなかった。その「ニンゲンスーツ」の内側に隠されているのは、一匹の大きな灰色オオカミである。
かつて、人間たちが野生動物の掃討作戦を開始したとき、動物たちの精鋭はひそかに高度な知能と技術を開発した。そして完成したのが、この「ニンゲンスーツ」だ。
これを着れば、外見は完璧な人間になれる。そればかりか、脳に作用するマイクロチップが、人間の言語や社会常識、複雑な計算能力まで提供してくれるのだ。
おかげで多くの動物たちが、絶滅を逃れて人間社会に紛れ込むことに成功した。
ただし、いくつかの絶対的なルールがある。
一つ、人間に正体を知られてはならない。もしバレれば、即座に保健所という名の収容所へ送られ、処分されるだろう。
二つ、犬や猫などの「ペット」として飼われる種族には、このスーツは与えられない。彼らはすでに人間の懐に入り込み、生存圏を確保しているからだ。
エフ氏は、この新しい生活を気に入っていた。
山を駆け回るより、エアコンの効いた部屋でコーヒーを飲むほうが、ずっと文化的な気がしたからだ。
だが、困ったこともあった。時折、抑えきれない「本能」が顔を出すのだ。
ある日の午後、エフ氏は重要な商談のために取引先を訪れていた。
相手はやり手の実業家、アール氏だ。アール氏もまた、隙のない完璧な人間らしさを漂わせていた。
「では、この契約で。今後の我が社の利益は……」
アール氏が書類に目を通していた、その時だった。
窓の外から、けたたましい犬の吠え声が聞こえてきた。近所の庭で飼われている柴犬だ。
犬や猫は、スーツの偽装を見抜く鋭い鼻を持っている。だからこそ、動物たちはペットのそばに近寄ることを何より恐れていた。その吠え声を聞いた瞬間、エフ氏の耳がスーツの中でぴくりと動いた。背筋の毛が逆立ち、喉の奥からうなり声が漏れそうになる。
(いけない、冷静にならなければ。私は人間だ。私は人間なんだ……)
エフ氏は必死で自分に言い聞かせた。ところが、隣に座っていたアール氏の様子がおかしい。アール氏は突然、ガタガタと震えだすと、手元の高級万年筆を投げ捨て、机の上の書類をめちゃくちゃに掻き回し始めた。
「キュウ、キュウ、キュウッ!」
アール氏の口から、人間とは思えない甲高い悲鳴が漏れる。彼はスーツを脱ぎ捨てんばかりの勢いで、部屋の隅にあるクローゼットの中へ飛び込み、ガタガタと震えながら丸まってしまった。どうやらアール氏の正体は、犬を何より恐れるウサギだったらしい。
部屋には、茫然と立ち尽くすエフ氏だけが残された。
(やれやれ、これでは商談どころではない。彼の正体がバレるのも時間の問題だろう)
エフ氏は溜息をついた。自分の同胞がまた一人、社会から脱落していく。
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「通報を受けて駆けつけました! 動物の鳴き声がしたと!」
入ってきたのは、二人の警察官だった。一人はたくましい体格の巡査で、もう一人はその相棒の警察犬だ。警察犬は部屋に入るなり、激しく吠え立てた。エフ氏の足元に駆け寄り、鋭い牙を剥く。
エフ氏は冷や汗を流した。ここで怪しまれてはいけない。
彼は努めて冷静な声で言った。
「ああ、お巡りさん。私の連れが急に体調を崩しましてね。混乱して妙な声を出してしまったようです。この犬を下げてください、彼が怖がりますから」
すると、立派な体格の巡査が、無表情にエフ氏を見つめた。
「……いや、必要ありませんよ」
巡査はそう言うと、リードを離した。警察犬がエフ氏の喉元に飛びかかる……かと思いきや、犬はエフ氏の足元でぴたりと止まり、尻尾を振って甘えだしたのだ。
「え?」
エフ氏が呆気に取られていると、巡査はゆっくりと自分の手袋を外した。そこから現れたのは、人間の手ではなく、毛むくじゃらの「熊」の手だった。巡査はスーツの襟元を少し緩め、低い声で言った。
「安心してください。私も、そしてこの犬も、同類です」
「えっ、犬もスーツを着ているのですか? ルールでは、ペットには支給されないはずでは……」
エフ氏が問い返すと、巡査は皮肉な笑みを浮かべて首を振った。
「勘違いしないでください。この犬はスーツを着ているのではありません。本物の『人間』ですよ」
「な、なんですって?」
「人間たちは、自分たちの文明が維持できなくなると悟った時、最も安全な生存戦略を選んだのです。知能を捨ててペットになり、より強い種族に養ってもらうという道をね。今やこの街で二本足で歩いているのは、我々、スーツを着た動物たちだけですよ」
巡査は、エフ氏の足元で「ワン」と鳴いて餌をねだる元人間の瞳を見つめ、淡々と続けた。
「さて、クローゼットの中に隠れている彼を連れて行かなければ。本能を制御できない個体は、『人間社会』の秩序を乱す『獣』として処分される決まりですから」
エフ氏は、自分にすり寄ってくる元人間の犬を眺めながら、激しい虚無感に襲われた。
自分たちが必死で守ろうとしている「人間社会」には、もはやどこにも人間などいなかったのだ。
エフ氏は窓の外を見た。そこには、スーツを着た動物たちが、人間よりも人間らしく、忙しそうに街を行き交っていた。
(終)




