第八章 理解者
河原清掃ボランティアの集合場所は、堤防の下の広場だった。
簡易テントが張られ、自治会の腕章をつけた人たちが名簿を広げている。
その日はよく晴れていた。
雲ひとつない空の下、川面はきらきらと光を返している。
野島は、日頃の仕事中の雑談から、美紀の住まいの場所をおおよそ掴んでいた。
美紀の夫がリモートワークで普段は家にいること、そして近所付き合いを円満に保つため、地域の行事には自ら率先して顔を出す性格であることも、すでに知っている。
ゆあまーとの店内に貼られた一枚のチラシに、野島はふと足を止めた。
美紀のマンション近辺で行われる、河原清掃ボランティアの案内だった。
その文字を目にした瞬間、胸の奥が静かに高鳴る。
――これは、またとない機会だ。
美紀の生活に、そしてその家庭に、自然に入り込める。
偶然を装い、疑われることもなく。
ただ様子を見るためではない。
確かめるためだ。
伊沢美紀という女の足場を、どこから崩せるのか。
その夫が、どれほどの強度を持っているのか。
そして――
奪えるのかどうか。
野島は、戦いに来ていた。
唇が、わずかに歪む。
胸に浮かんだのは期待ではない。
壊す手応えを、先に想像する冷たい高揚だった。
* * *
子ども連れや年配の夫婦が集まり、顔見知り同士が軽く会釈を交わす。
いかにも近所の行事という空気だった。
野島は少し離れて立ち、全体を一度だけ見渡す。
目的は一つ。それを悟らせない。
その中に、いた――
川の方を向き、自治会の人と何か話している男。
初対面のように見えるが、野島には分かる。
ゆあまーとで何度か目にした横顔と、立ち姿。
今日は明るい日差しの下で、はっきりと顔が見えた。
――間違いない。
美紀の夫だった。
身長は百七十五センチほどあるが、体重は百キロ近い肥満体だ。
脂肪が全体にまとわりついた体つきで、動きに切れはない。
顔立ちは特に目立つ特徴がなく、短く切った癖毛に眼鏡をかけている、ごくありふれた印象の男だった。
地元の人間ではない。
越してきてまだ浅い。
だからこそ、地域の行事には欠かさず顔を出す。
ここで「感じのいい人」でいることが、何よりの保険だった。
今日も家庭を代表して出席している。
野島は集合場所に近づき、さりげなく同じ作業班の一角に入った。
計算しているが、動きは自然を装う。
作業が始まると、二人の距離は静かに縮まった。
川の音だけが流れる。
「今日は気持ちいいですね」
野島が先に声をかける。
「そうですね。晴れてよかったです」
その声を聞いた瞬間、野島の中で確信が固まった。
少し作業を進めてから、野島は視線をマンションの方へ向ける。
「あのマンション、お住まいですか?
この辺では珍しくて、すごく目立ちますよね」
夫は素直に頷いた。
「はい、あそこです」
返事ににじむ、地元ではない者特有の距離感。
野島は、親しみやすい笑みを浮かべた。
「実は、私の職場の同僚があそこに住んでるって聞いたことがあって」
夫は少し身を乗り出す。
「伊沢さん、って言うんですけど」
名前を出す瞬間、野島の心は一切揺らがない。
夫は一瞬だけ間を置き、それから頷いた。
「……ああ、それ、うちの妻です」
その言葉が、野島の胸に静かに沈む。
だが表情は穏やかなままだ。
「へえ、偶然ですね!職場でもよく話題になりますよ。しっかりしてるし、美人だって」
それ以上は踏み込まない。
探りは、もう十分だった。
清掃が一段落し、人々は集めたゴミを渡すために列を作っていた。
河原には、乾いた風が通っている。
野島と夫も、その流れで列へ向かった。
他の参加者が先に並ぶ中、二人は少し遅れて最後尾に回る。
順番が近づく。
野島はゴミ袋を足元に置き、屈み込んだ。
ポロシャツの前合わせが、計算通りにわずかに開く。
胸元に落ちる影と、はっきりとした谷間。
夫は、反射的に視線を落とした。
ごくり、と喉が鳴る。
すぐに顔を上げ、何も見ていなかったように空を仰ぐ。
慌てた気配は、隠しきれていない。
野島は、気づいている。
その一瞬の視線も、喉の音も。
気づいたうえで、何も言わない。
「暑くなりましたね」
額の汗を指で拭いながら、野島は自然に声をかける。
「思ったより動きました」
夫も苦笑しながら答えた。
「ですよね。ちょっと喉、乾きません?」
野島は堤防の上を指差す。
「上に上がったところに自販機あるんで、買ってきますよ」
返事を待たずに歩き出すのも計算のうちだった。
野島は冷えた缶コーヒーを二本選ぶ。
戻ると、夫は少し恐縮した顔をした。
「ありがとうございます」
「いえいえ。こういう時は冷たいのが一番です」
指先は触れない。
距離は、あくまで常識的に。
* * *
堤防の影に並び、缶を開ける。
静かな音が、場を「休憩」に変える。
「奥さん、今日は来られなかったんですね」
野島が缶を開けながら言った。
「今日はバイトで」
夫も缶を手に答える。
「そうでしたか」
野島はうなずく。
少し間が空く。
「こういうの、ご主人が出ること多いんですか?」
「まあ、時間の融通が利くので」
夫は笑った。
「在宅なんですよ」
「ああ、そうなんですね」
野島は納得したように言う。
「じゃあ通勤はないんですか」
「ないですね」
夫は缶を口に運ぶ。
「その代わり、仕事と休みの切り替えが難しくて」
「ああ、それはありそうですね」
野島も缶を傾けた。
川の音が静かに流れる。
「家にいると、何となく全部できると思われますし」
夫は苦笑する。
「実際はそんなにうまくいかないんですけど」
「わかります」
野島は笑った。
「外から見るのと中にいるのとじゃ違いますよね」
夫も少し笑う。
「そうですね」
しばらく二人は川を眺めた。
やがて野島が言う。
「でも、ちゃんと来てるんですね」
「え?」
「こういう行事です」
夫は照れたように笑った。
「いや、頼まれたら断れないだけですよ」
「それでも十分じゃないですか」
野島はそう言って缶を持ち上げた。
夫もつられて笑う。
その空気のまま、野島がスマートフォンを取り出した。
「またこういう行事もありますし、連絡先交換しません?」
「じゃあ、お願いします」
夫はスマートフォンを取り出した。
野島は画面を覗き込みながら登録する。
夫はその横顔を見た。
綺麗な人だな、と思った。
それに、話していて楽しい。
「登録できました」
野島が顔を上げる。
夫は頷く。
また話してみたいな、と思っていた。
* * *
その連絡は、夜になって野島に届いた。
「今日は、ありがとうございました
例の清掃のあと、少し気になって」
野島は画面を見つめ、すぐには返さなかった。
数分置いてから、短く返す。
「こちらこそ。お疲れさまでした」
やり取りはそれだけで終わるはずだった。
だが、続けて届いた一文が、流れを変えた。
「今度、妻が娘を連れて実家に行く日があって。
その日は、一人になると思います」
誘いではない。
ただの事実の共有。
野島は息を吐き、短く返す。
「偶然ですね。その日、私も一人なんです。駅で軽く飲みませんか」
夫の出張も、息子たちがいない夜も、珍しいことではない。
返信はすぐに届いた。
「ぜひお願いします、楽しみにしてます」
駅前の店は、騒がしすぎず、静かすぎない場所を選んだ。
仕事帰りの人間が行き交い、長居を咎められない。
酒が進むにつれ、夫の言葉は少しずつ緩んでいく。
野島は聞き役に徹し、相槌の角度だけを調整する。
「……最近、家の空気が、ちょっと。
妻ともほとんど会話が続かなくて」
野島は首を傾げる。
「忙しい時期、ありますよね」
グラスが空になった頃、野島は何気ない調子で言った。
「そういえば……
伊沢さん、職場の男性と仲がいいみたいですよね」
夫は一瞬、動きを止めた。
「……そう、なんですか」
「ええ。
たまたまその人と橋のふもとに一緒にいるのを見かけただけなので、気のせいかもしれませんけど」
言葉を引っ込めるように、すぐに話題を変える。
だが、種は落ちた。
店を出る頃には、夫はかなり酔っていた。
足取りが不安定で、野島は自然に言う。
「送りますよ。うちで酔いを醒ましていきませんか。
このまま一人で帰るの、危ないですし」
タクシーを使うほどではない距離。
酔った夫は、野島の肩に体を預けた。
* * *
触れ合う体温。
その瞬間、彼の中で何かが切り替わる。
野島はもう、妻の同僚ではなかった。
野島の家の玄関灯の下、部屋に入った途端、夫の足取りが崩れた。
酔いが回っているのは明らかだった。
室内は静まり返っている。
生活音も、物の気配もない。
照明だけが、広い空間を淡く照らしていた。
夫はその静けさを一瞬だけ飲み込み、視線を戻す。
ここには、本当に誰もいない。
「少し、座ってください」
野島がソファを指す。
夫は言われるまま腰を下ろし、深く息を吐いた。
野島はキッチンへ向かい、水を用意する。
その途中、シャツのボタンをひとつ外した。
動作は自然で、ためらいはない。
グラスを手に戻り、ローテーブルに置く。
身をかがめた瞬間、開いた襟元が深く落ちる。
大きくはっきりとした谷間が、夫の視界に入った。
視線が、吸い寄せられる。
喉が鳴る。
野島はゆっくりと立ち上がる。
何も気づいていないふりのまま。
次の瞬間、夫は立ち上がった。
理屈も葛藤もない。
衝動のまま、野島を抱き寄せる。
荒い動き。
野島は抵抗しない。
それが、彼女の選択だった。
そのまま、ソファへと押し倒される。
野島の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
――まだ、終わっていない。
覆いかぶさられながら、野島は思う。
――ここからだ。




