第26話『笑うと出ます(フェニックスが)』
穏やかな朝だった。
ローテーション表のおかげで、花籠の館には束の間の秩序が戻っていた。朝の担当はカミリア。学院に行く前のわずかな時間、赤ん坊を抱いて過ごす。
カミリアが赤ん坊を抱いている。赤ん坊がカミリアの顔を見上げている。カミリアが微笑む。赤ん坊も微笑む。
穏やかだった。平和だった。光の玉も出ていない。
リリアーナは台所で朝食の支度をしながら、その光景を窓越しに見ていた。
かわいい。二人とも、かわいい。カミリアの外面は完全に消えていて、十八歳の女の子がただ赤ん坊に微笑んでいる。赤ん坊もそれに応えている。
このまま永遠に続いてほしいと思った。
カミリアが赤ん坊の鼻先を、ちょんっと指で触った。
赤ん坊が——声を上げて笑った。
きゃっきゃっ、という、高くて透き通った笑い声。今までの微笑みとは違う。声を出しての、全力の笑い。
それは、この家に来て初めての——
居間の空気が、爆発した。
床に巨大な魔法陣が展開した。泣いた時の比ではない光量。回転する紋様が部屋全体を覆い、天井に届くほどの光柱が立ち上がる。
光の中から、何かが出てきた。
鳥だった。
全身が炎のように赤い羽毛に覆われた、鳥。鷹ほどの大きさ。目が金色に輝いている。翼を広げると、居間の端から端まで届きそうだった。
フェニックスの幼体。伝説の不死鳥の子供。図鑑にしか載っていない、本来は上級召喚士でも呼び出せない存在が——居間の真ん中に、いた。
全員の反応は、それぞれだった。
ダリアは朝食のパンを口にくわえたまま、剣を抜いた。パンが宙に舞った。
「お母様、下がってください!」
カミリアは赤ん坊を抱いたまま固まった。魔法の防壁を張ろうとしたが、両腕が赤ん坊で塞がっている。赤ん坊を降ろしたら泣く。泣いたらさらに召喚される。
詰んでいた。
「ママ、どうしよう——」
マギーが工房から飛び出してきた。フェニックスの幼体を見て、目を輝かせた。
「聖なる炎! 御母上様の御前にふさわしい伝説の——」
「「ふさわしくない!!」」
ダリアとカミリアが同時に叫んだ。
フェニックスの幼体が翼を羽ばたかせた。熱風が居間に吹き荒れた。テーブルの上の食器がカタカタと揺れる。朝食のスープがこぼれそうになる。ダリアが剣で風を切って熱気を逸らしたが、フェニックスは鎮まらない。不死鳥の幼体は好奇心旺盛で、知らない場所に出てきたことに興奮しているらしかった。
リリアーナが台所から出てきた。
エプロンをつけたまま。右手にはお玉を持っている。朝食のスープをかき混ぜている途中だった。
「あらあら。元気な子ねぇ」
穏やかだった。声も、表情も。嵐のような居間の中で、リリアーナだけが凪いでいた。
お玉を置いた。エプロンで手を拭いた。
カミリアのそばに歩いていって、赤ん坊を左腕で受け取った。赤ん坊はリリアーナの腕に収まった瞬間、笑い声をやめた。泣いてもいない。きょとんとした顔で母を見上げている。
魔法陣の光が薄れ始めた。しかしフェニックスはまだいる。一度召喚されたものは、自然に消えるまで時間がかかる。
リリアーナが右手を上げた。
左腕に赤ん坊。右手に万象の魔法。
「万象よ、鎮まりなさい」
穏やかな声だった。母親が子供に「静かにしなさい」と言う時と、同じ声。
光が収束した。リリアーナの右手の指先に、透明な球体が生まれた。万象の魔法。あらゆる魔法体系を統べる力の、ほんの一振り。
球体がフェニックスに向かって、ふわりと飛んだ。フェニックスの幼体が球体に触れた瞬間——暴れていた翼が止まり、金色の目が穏やかになり、体が光に包まれて、すうっと消えた。
静寂。
居間に残ったのは、散らばった食器と、こぼれかけたスープと、パンをくわえ損ねたダリアと、固まったカミリアと、目を輝かせたままのマギーと、赤ん坊を片手で抱いたリリアーナだった。
「……リリィ」
いつの間にか、カレンが廊下に立っていた。花籠の館の近所に住む魔術師で、リリアーナの古い知り合いだ。いつものように顔を出しに来たらしい。手には土産の果物が入った袋。袋を持ったまま固まっている。
「今の、フェニックスでしたよね」
「フェニックスの幼体ね。かわいかったわねぇ」
「かわいいの問題じゃないんですけど」
リリアーナは赤ん坊を見た。赤ん坊はきょとんとしている。何が起きたのかわかっていない。
泣くと、魔獣が出る。
眠ると、光の玉が漏れる。
笑うと——フェニックスが出る。
「……この子、いつなら何も出ないの?」
リリアーナの問いに、誰も答えられなかった。
三条件が揃った。泣いても出る。寝ても出る。笑っても出る。
花籠の館の日常が、また一段階カオスに踏み込んだ。
世界最強の魔導師の朝食が、また冷めた。




