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いつか、雨が上がる日

オンライン六周年記念作品。過去と、そしてこれからを歩いてゆくきみへ。

 くしゅん、と小さなくしゃみがこぼれた。

 澪は白羽の顔を覗きこんだ。青白い頬を濡らした彼は洟をすすった。思い出したようにたちまち寒気が足元から忍び寄り、澪はぶるりと身を震わせた。

「白羽、もう戻るわよ」

「……うん」

 拾った傘を差してやると、白羽はきゅっと手を握ってきた。澪と変わらない細くやわい少年の手はぞっとするほど冷たい。力をこめて握り返し、澪は彼の手を引いた。

 白羽の足取りはふらふらと覚束なかった。子どもの頃、季節の変わり目になると必ず熱を出していた従弟の病弱さを思い出し、澪は眉をしかめた。

 息子が寝こむたび、叔母の紗夜子はかいがいしく看病していた。だが彼女はもういない。危ういほどの傷心を抱えた白羽を、残酷な事実はいっそう追い詰めてしまうかもしれなかった。

「白羽」

 歩きながら呼びかけると、白羽はぼんやりと俯けていた顔を上げた。ああ、これは絶対に風邪を引いていると澪は確信した。

「あんた、しばらくうちに来なさい」

「……え?」

「そんなぼうっとした顔してるんだから、絶対このあと熱が出るわよ。こんなときに風邪っ引きの面倒なんて叔父さんに見られるわけないし、母さんたちにあたしからお願いするから」

「で、でも」

 戸惑いを浮かべる白羽をきつく睨む。

「いいから『お姉ちゃん』のいうこと聞きなさい」

 昔から、白羽はこの言い方に弱かった。普段は『白羽のお姉ちゃん』と扱われることを厭う澪が自らそれを口にすると、駄々を捏ねて手のつけようがないほど泣きじゃくっていてもころりとおとなしくなるのだ。おかげで、ますます周囲は澪と白羽を姉弟として見なすようになってしまったのだが。

 白羽はひとつ瞬き、こくんと頷いた。ひどく見慣れた、幼い仕種だった。

「いい子」

 熱にぐずる小さな白羽を抱きかかえ、「いい子、いい子」とあやしていた叔母の姿が脳裏に浮かんだ。あとを追いかけてきて転んだ白羽を起こしてやり、泣き続ける彼の手を引いて家まで連れ帰った澪の頭をふわりと撫でた掌の優しさを思い出した。

(ありがとう。澪ちゃんは本当にいい子ね)

 鼻の奥がツンと痛くなる。澪はぎゅうっと眉根を寄せ、薄暗い雨空を睨めつけた。

 早く雨が上がればいい。明るい陽射しに春らしい風がそよぎ、冷たい雨垂れに縮こまっている桜の蕾がさっさと咲けばいい。

 そうすればきっと、白羽は笑ってくれるだろう。




 ***




 今年の桜は短命だったらしい。

 見頃を迎えたかと思えば、あっという間に天候が崩れて雨が降り出してしまった。日に日に雨脚は強くなり、水浸しのアスファルトに薄汚れた花弁が無惨に散らされる始末だった。

「お花見、行けなかったね」

 窓ガラスを叩く雨を見遣っていた白羽がぽつりと言った。膝に広げた雑誌から顔を上げた澪は、青年の視線をたどって「ああ」と応えた。

「仕方ないわよ、天気が悪かったんだし。……別に桜は今年だけじゃないでしょ」

「……そうだね」

 振り向いた白羽は淡く微笑んでいた。その表情は澪にとって居心地の悪い種類だった。決していやなわけではないが、未だに慣れないものだ。この場から逃げ出したくなるような、意味もなく大声で叫びたくなるような――それでいて、ひどく甘い。

 プライベートの半分以上を共有するようになった白羽の存在を、澪は素直に表現できずにいた。「澪ちゃんは恥ずかしがり屋だもんね」と妙に嬉しそうに笑っていた本人には腹に一発お見舞いした。言葉にせずともはっきりと変わった関係において、腹立たしいことになぜか彼のほうが上手なのだった。

(納得が行かない)

 恨みがましく睨んでみても、白羽はいっそう表情筋をふやかすだけだ。ゴロゴロと喉を鳴らす猫のようにすり寄ってくると、調子に乗って澪を後ろから抱えようとすらする。

「ちょっと!?」

「今日は寒いから」

「節約だからって暖房切ったのはあんたでしょうがっ」

「だって澪ちゃんあったかいんだもん」

 確かに低体温の白羽に比べれば澪の平熱は高い。しかし、それこそ猫の仔ではあるまいし、湯たんぽ代わりなどにはとうてい務まるわけがない。

 大いに成長期を迎えた白羽は、澪を軽々と膝の上に乗せて胡坐をかいた。同じ遺伝子を持っているはずなのにこの格差はなんなのだ。ちなみに、実兄の順一もそれなりの背丈の持ち主である。

「……重いし近いんだけど」

 顔のすぐ横、肩口に顎を置かれ、澪は呻いた。このまま鳩尾に肘鉄を食らわせてやろうかという不穏な考えが頭をよぎったが、「あのね」と密やかに呟かれた声に動きを止めた。

「お母さんのお葬式のあと、僕、風邪を引いたでしょ」

「……そうだったわね」

「澪ちゃんの予想どおり熱出してさ、しばらく澪ちゃんちにお世話になって。……たぶん、風邪のせいだけじゃなかったんだろうけど」

 ゆるやかに腹部に回された腕に力が籠る。澪は雑誌を閉じると、青年の堅い胸に体重を預けた。

「澪ちゃん、ずっと僕についててくれたよね。せっかくの春休みだったのに、伯母さんに大丈夫って言われてもベッドのそばから離れようとしなかった」

「――あんた、どっか行っちゃいそうだったから」

 春の雨に溶けてしまいそうだった少年の儚さが苦く甦る。少しでも目を離したら、するりと掌の内側からこぼれ落ちてしまいそうだった、か細いぬくもり。

 怖かった。とても、心からおそろしかった。

「紗夜子叔母さんのあとを追いかけていっちゃいそうで……すごく、怖かったの」

 途端、苦しいほど強く抱き締められた。首筋に額をこすりつけ、「ごめんね」と白羽はささやいた。

「でもね、澪ちゃん。ずっと澪ちゃんが手を握っててくれたから――僕の名前を呼んでくれたから、僕は、迷わなかったんだよ」

 その言葉に、澪は思わず息を呑んだ。白羽はどこか潤んだような声で続けた。

「澪ちゃんがいてくれる、ひとりじゃないってちゃんとわかったから、戻ってこれた。きみを選ぶことが、できたんだ」

「……ばっかじゃないの」

 こみ上げてくるものをごまかすように目を閉じた。狂おしい痛みも永遠を覚悟した決別も越えてたどり着いたこの場所は、確かに澪が望んだものだった。白羽に与えてやりたいと願った、幸福だった。

 見えなくともわかる。白羽は今、笑っている。

 間違いだらけの、遠回りをした道のりだったけれど、自分はちゃんと彼と歩いてこれたのだ。雨上がりの、光が射す未来へと。

(あんたが、幸せだって言ってくれるなら)

 この上ない、十全の答えだった。

「――ねえ、白羽」

「なぁに?」

 そっと瞼を持ち上げ、まどろむように笑む彼を見つめる。澪もまた同じ表情を返した。

「デートしよう。……雨が上がったら」

 焦げつくような夏の底で、心臓を引きちぎられる思いで口にした言葉を、まったく逆の気持ちでなぞった。白羽は琥珀色の双眸をハッと瞠り――泣き笑うように眉尻を下げた。

「……うん。僕、お弁当作るよ。澪ちゃんの好物、いっぱい入れるから」

「期待してる」

 ふたりの秘密基地だった押入れの中で交わした内緒話のように、いつかの少女と少年は、くすくすとこそばゆく笑い合った。

 雨の音は少しずつ遠ざかりはじめている。晴れた空は近づいてくる夏を知らせるように、いっそう青く鮮やかに染まっているかもしれない。

 四年越しの季節は、あの頃よりも忘れられない日々になるだろうと、澪は思った。

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