第19章
(1)
「97年は、姉と2人で過ごした最後の正月でした。姉は義兄と橿原神宮に初詣に行った後、僕とも一緒に行ってくれたんです。これから別々の生活になるけど、お互い頑張ろうって、あの盃でお神酒を飲んで誓ったんです」
保の態度が急に変わったことに驚きながらも、私は彼に尋ねた。
「保君は、初詣でもらった盃を、毎年とっておいたんやね?」
彼は頷いた。
「盃に描かれた絵が好きで。部屋の棚に、順番に並べて飾っていました。そこで煙草を吸っていましたから、その時期に部屋にあったタツの盃には、ヤニが付いていたんですね」
「思い出の盃をマンションに持って行ったってことは、康代さんが殺されるの、わかってたってこと?」
私が尋ねると、保はうつむいた。
「『あの人』が姉に会いに行くという話を聞いた時、姉を殺すつもりかもしれない、とは思いました。せやから、僕は必死で姉に言うたんです。僕はきちんと足を洗うから、今回知ってしまったことは、全て忘れてくれ、と。でも、姉は自首しろの一点張りで……」
「『あの人』が来てること、康代さんは知ってはったん?」
「いいえ」
私の質問に、保は首を横に振った。
「『あの人』は、僕がマンションに入った隙に、開いたドアから入って来ました。部屋の鍵は、トイレに行く振りをして、僕が開けておきました」
「殺されるかもしれへんってわかってるのに、何でまたそんなことを……」
私は悲しくなって尋ねた。
「疲れていたんです。僕はいつも、姉の自慢の弟でいなければならなかった。そのプレッシャーに押しつぶされそうになっていたんです」
保の目から涙がこぼれた。
「ほんまにそれだけなんか?」
泰三が、保の目を見つめて尋ねる。保は自嘲気味に微笑むと、左足の靴下を下げた。くるぶしの辺りに、注射によるうっ血が見られた。
覗き込んだ飯塚刑事が息を飲む。
「『あの人』に勧められたんです。初めはビタミン剤やって言われて。よくあるパターンです。気が付いた時には、もう手遅れでした」
しばらくの間、誰も口を開こうとはしなかった。
「あの、その『あの人』って、誰なんでしょうか?」
安岡刑事が、情けなさそうに尋ねる。泰三は答えた。
「保君が俺らと一緒に行動していた理由は、よくわかります。一緒にいた方が、事件の進展もわかるし、俺らをミスリードすることもできますからね。ただ、よく考えると、不思議なこともあった」
泰三は続けた。
「保君は、かなり長い間、本来の仕事を休んでいました。それはボスの配慮やということでした。しかし、いくら義兄やといっても、これはあくまでもプライベートなことです。そのために時間を与え、お金まで出してくれる。あまりにも理解があり過ぎる上司やとは、思われませんか?」
「ということは……」
飯塚刑事と安岡刑事が顔を見合わせる。
「そうです。『あの人』、つまり、この事件の黒幕は、梶本弁護士やったんですよ」
泰三が断言する。
「この事件の進展が知りたかったのは、他ならぬ梶本弁護士自身やったということです」
保は、観念したように、がっくりと肩を落とした。
(2)
「隆弘は、まだ生きてるんか?」
泰三が静かな口調で尋ねる。保は顔を上げた。
「伊豆にある梶本先生の別荘に、監禁されています。義兄に罪をかぶせた後、自殺に見せかけて殺害する予定でした。逃亡していると思わせるため、銀行の口座を解約したのも僕です」
「場所はどこだ?」
飯塚刑事が詰問する。保は、詳しい場所を説明した。安岡刑事が、携帯でどこかに連絡を入れる。無事に保護されるといいのだが。
「覚醒剤に手を染めたのはいつ頃?」
飯塚刑事が尋ねる。
「1年半程前のことです」
保は溜息をひとつ付くと、続けた。
「僕は姉が思っているような、出来のいい弟ではありませんでした。大学こそいいところに入れましたが、司法試験には、なかなか受からなかったんです」
私達は頷いた。
「大学を卒業した僕は、大阪の法律事務所でバイトをしながら、司法試験を受けていたんです。でも、後から入って来た後輩達が、どんどん先に合格していくんですよ。姉の期待も、僕には重くなってきていました。それで、僕は、ひとりで暮らす決心をしたんです」
保がまた息を吐く。
「でも、こんなに出来の悪い司法浪人を雇ってくれるような事務所はありません。いい加減、諦めかけていた時に声をかけてくれたのが、梶本先生やったんです。僕の将来性に期待していると、あの人は言ってくれました」
「それで、彼の事務所で働くことにしたんやな」
泰三が言うと、保は頷いた。
「本当に感謝していたんです。必死に勉強して、入社して2年目に、僕はようやく司法試験に合格しました。しかし、弁護士になっても、僕は上手く成果をあげることが出来なかった。要領が悪いんです。二進も三進もいかなくなり、自暴自棄になりかけていた時、あの注射を渡されました。そして、薬を手に入れるために、命令されるまま、少女売春にまで手を出してしまった」
私達は、かける言葉もなく話を聞いていた。
「そこまで来たら、どんなアホでもわかりますよね。梶本先生は、出来の悪い僕を、初めから利用するつもりで採用したんやって。でも、わかっていながらも、僕は薬から手を引くことができなかった。そんな時、姉が僕のことに気付いてしまった。もうおしまいやと思いました」
保は目を閉じた。
「せやからって、お姉さんを殺すのに加担するやなんて……。他に方法はなかったん?」
私が尋ねると、泰三が言った。
「シャブ中の人間は、何よりもシャブが大事になってまうんやて。そのためなら、親兄弟でも手にかけるようになるって、何かの本で読んだことあるわ」
「その通りです。僕がアホやったんです」
保が目を開けた。
(3)
「事件のこと、詳しく話してもらえるかな?」
飯塚刑事が言うと、保は頷いた。
「姉を殺した後、全然知らないところで、それが連続殺人ということになってしまった。僕らはアセりました。そして、便乗している犯人を捜すために、僕がお2人と行動を共にすることになったんです」
保は続けた。
「そうこうしているうちに、田口に行き当たった。動機は、お2人が推理された通りです。田口は、姉に見せられた写真で、僕の顔を知っていたんです。そして、裏稼業についていただけあって、あの売春システムの情報も手に入れていた。それをネタに覚醒剤の取り引きに応じるよう求められ、僕はやつを殺すことにしました。義兄が釈放されるのを待って、実行に移したんです」
「初めから、隆弘さんに罪をなすりつけるつもりやったの?」
私は尋ねた。保は首を横に振った。
「いえ、警察が義兄を疑っているとわかってからです。釈放された義兄に電話をかけ、声色を使って公園に呼び出した。そして、その間に、田口を殺害したんです」
「タツの盃がヘビになってた時は、驚いたやろ?」
泰三が尋ねると、彼は苦笑した。
「驚きましたよ。ほんまに、どうしようかと思いました」
「結局、鈴木が逮捕されて一件落着になるはずやったのに、どこでおかしくなってしまったんや?」
泰三の言葉に、保が口を開いた。
「義兄が、冷蔵庫からあの手帳を見つけてしまったんです。彼が、前々から姉の行動に疑問を持ち、興信所に調べさせていたんは、ご存じの通りです。それに、自分でもあのテレクラに足を運んだりしていたようですから、薄々勘付いてはいたんでしょう。
厳しく問いつめられて困った僕は、梶本先生に相談しました。それで、再び義兄を犯人に仕立て上げ、自殺させるという筋書きを考えたんです」
「邪魔者は消せ、か。短絡的やな」
泰三が腕を組む。保は唇を噛んでうつむいた。
(4)
「康代さんを殺害した状況、もう少し詳しく話してもらえないか」
少しして、飯塚刑事が保に語りかけた。保は小さく頷くと、辛そうに口を開けた。
「僕は、姉にひどいことを言ってしまいました」
声が震えている。泣きたいのを堪えているようだ。
「あの時、姉は激しく僕をなじったんです。あんなに激昂した姉を見たのは、初めてでした。僕は、姉の期待が重すぎたんやと言い返しました。でも、姉は、そんなのはただの言い訳やと言って、僕を責め続けたんです」
「当たり前やな」
泰三が口を挟む。
「姉はかなり興奮していましたから、後ろから近付いてくる梶本先生に気が付きませんでした。あの人がネクタイを手にしているのを見た時、姉との関係もこれで終わるんやと思いながら、僕はひどい言葉を投げ付けていました」
保は鼻をすすった。
「母さんと義父さんが再婚しなければ、僕はもっとマシな生き方をしていたはずや、義父さんが母さんを死なせたせいで、僕はこんなに不幸な人生を歩むことになってしまったんや、って」
保は目頭を拭って続けた。
「姉は一瞬、言葉を詰まらせました。ちょうどその時、ネクタイが姉の首に掛かったんです。姉は、真直ぐに僕を見たまま、抵抗ひとつしませんでした。そして、崩れ落ちる直前に、声にならない声で僕に言ったんです」
保は天井を見上げた。
「『ごめんね』って」
そう言うと、彼は頭を抱えて泣き崩れた。私達はみな、やり切れない思いで、彼のその姿を見つめていた。
(5)
隆弘の無事が確認されたのは、保が警察に連行されてすぐのことだった。多少衰弱してはいるが、少し入院すればよくなるとのことで、私達は胸をなで下ろした。
「しかし、ひどい話やったな」
一夜明け、泰三が朝刊を畳みながら言った。
「ほんまやね」
昨夜のうちに、梶本弁護士は事情聴取を受けることになった。今日の朝刊によると、梶本弁護士は、裏ではその筋の人達と関係があり、覚醒剤の密売や売春などを請け負っていたということだ。
本人は否定しているらしいが、真実が明らかになるのも時間の問題だろうと、記事には書かれていた。
「それにしても、何で昨日、保君、急にホンマのことを話し始めたんやろ」
私が言うと、泰三は微笑んだ。
「お前の話がよかったんちゃう?」
「私の話?」
「康代さんが、保君の母親の死に責任を感じてたって話や。彼ははじめて、康代さんが最期に言った『ごめんね』って言葉の意味を、理解したんちゃうかな。お姉さんの愛情が、保君の良心を取り戻させたっちゅうことやろ」
「そうか。うん、そうやったのかもしれへんね」
泰三が読み捨てた朝刊を拾いながら、私は頷いた。テレビから、陽気な歌が流れてくる。
「なあ、今度の休みに、隆弘の見舞いにでも行くか。伊豆の病院やろ?」
泰三が急に、私の方を見て言った。
「ついでに温泉に入って来ようとか、言うんとちゃうやろね?」
私が冗談めかして聞くと、泰三は真面目な顔で私を見る。
「はい、ご名答」
私は、泰三を軽く小突いた。そして、2人で声を揃えて笑った。そんな小さな幸せが、今はとても愛しく感じられた。
<完>




