第四話 「約束」
ベンチを吹き抜ける風が、少しだけ涼しくなっていた。
夕日が街を赤く染め始めている。
悠斗は時計を見る。
「もうこんな時間か。」
ニコも空を見上げる。
しばらく静かな時間が流れた。
悠斗は思い出したように口を開く。
「そういえば。」
「今日はどこに帰るの?」
ニコは悠斗を見る。
少しだけ間を置いて答えた。
「帰る場所はありません。」
悠斗は聞き返した。
「……帰る場所がない?」
「はい。」
「お金は?」
「……ありません。」
「荷物は?」
「ありません。」
「着替えは?」
ニコは自分の服を見下ろした。
「これだけです。」
悠斗は言葉を失う。
「昨日はどうしたの?」
「歩いていました。」
「歩いて……。」
「はい。」
服には土が付いている。
手ぶら。
帰る場所もない。
「……一つ聞いていい?」
「はい。」
「どうやってここまで来たの?」
ニコは少しだけ俯いた。
ペンダントを握る。
「……答えられません。」
悠斗は小さく息を吐いた。
帰る場所がない。
お金もない。
荷物もない。
ここまで来た方法も話せない。
何があったのかは分からない。
けれど。
このまま見なかったことにできるほど、鈍感にもなれなかった。
「……警察。」
悠斗は小さく呟く。
「警察へ行こう。」
ニコは首を横に振った。
「行けません。」
「どうして?」
「……。」
答えない。
いや。
答えられない。
「理由も言えない?」
「……はい。」
悠斗は困ったように頭をかいた。
「それじゃ俺も困るよ。」
しばらく考える。
やっぱり警察が一番だ。
でも。
ニコは明らかに怯えていた。
警察という言葉が出てから、一度も悠斗の目を見ていない。
「……父さん。」
⸻
研究室。
竜司は机から顔を上げた。
「どうした。」
「相談。」
悠斗は苦笑した。
「面倒な相談だ。」
竜司はニコを見る。
「その子か。」
「うん。」
悠斗は今日あったことを順番に話した。
帰る場所がないこと。
お金も荷物もないこと。
警察へ行けないと言ったこと。
竜司は最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、小さく息を吐く。
「普通なら警察だ。」
「……うん。」
「それは俺も思った。」
「でも。」
悠斗はニコを見る。
「放って帰ることもできなかった。」
竜司は立ち上がった。
ニコの前まで歩く。
「名前は。」
「……ニコ。」
「みんなからは、ニコと呼ばれていました。」
「そうか。」
竜司は頷いた。
そして静かに尋ねる。
「何個か質問させてくれ。」
ニコは頷く。
「君は犯罪者か?」
「違います。」
「誰かを傷付けるつもりは?」
「ありません。」
「嘘はつくか?」
ニコは少しだけ考えた。
「……答えられないことはあります。」
「ですが。」
「嘘はつきません。」
研究室が静かになる。
竜司はニコの目を見る。
逸らさない。
まっすぐだった。
しばらくして、竜司は悠斗を見る。
「悠斗。」
「はい。」
「私はこの子を信用したわけじゃない。」
悠斗は黙って聞く。
「息子が、この子を信じたいと思った。」
「その判断を、一週間だけ信じてみる。」
悠斗は目を見開く。
「父さん……。」
「離れを使わせる。」
「ただし一週間。」
「その間に警察へ相談するべきか、別の方法があるのか考える。」
「それまでは私の責任だ。」
悠斗は深く頭を下げた。
「ありがとう。」
竜司はニコを見る。
「君にも約束してもらう。」
「勝手にいなくならない。」
「危険なことはしない。」
「そして。」
「もし私たちを騙しているなら、その時はすぐ警察へ行く。」
ニコは静かに頷いた。
「……分かりました。」
「約束します。」
⸻
離れ。
悠斗は鍵を開ける。
「しばらくはここ。」
ニコは部屋を見回した。
ベッド。
机。
棚。
窓。
静かな部屋だった。
「今日はゆっくり休みな。」
悠斗は扉へ向かう。
「悠斗さん。」
「ん?」
「ありがとうございました。」
悠斗は少し照れくさそうに笑う。
「礼なら父さんにも言っといて。」
「はい。」
悠斗は手を振る。
扉を閉めようとした、その時。
「……あの。」
「ん?」
ニコは少し迷ってから口を開いた。
「もし、ご迷惑でなければ。」
「一つ、お願いがあります。」
悠斗は振り返る。
「私は、この国の文化や歴史を知りたくて、ここへ来ました。」
「ですが。」
「私は何も知りません。」
少しだけ頭を下げる。
「皆さんが当たり前に使っている物や、当たり前にしていることを、教えていただけませんか。」
悠斗は少し困ったように笑った。
「文化とか歴史なら父さんの方が詳しいぞ。」
「専門的なことではありません。」
「皆さんの日常を知りたいです。」
悠斗は少し考える。
そして笑った。
「それくらいなら。」
「俺にもできるかな。」
ニコはほっとしたように小さく頷く。
「ありがとうございます。」
悠斗は扉を閉める前に言った。
「じゃあ、明日から少しずつ。」
「分かる範囲で。」
扉が静かに閉まる。
ニコは一人、部屋に残った。
窓の外には、見慣れない夜空が広がっていた。




