プロローグ「傷跡」
「神崎先生!」
山の斜面に若い研究員の声が響いた。
「そろそろ撤収します!」
返事はない。
神崎竜司は、岩壁の前にしゃがみ込んだまま動かなかった。
視線の先には、岩肌に刻まれた一本の線。
誰が見ても、ただの傷だ。
そう思うだろう。
だが竜司には違って見えていた。
「……綺麗すぎる。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
手袋をした指先で、その線をなぞる。
ざらついた岩肌とは対照的に、その部分だけが異様なほど滑らかだった。
石が割れた跡ではない。
削った跡でもない。
まるで、一瞬だけ切り裂かれたような断面。
「先生?」
研究員が隣へしゃがみ込む。
「その傷、そんなに気になります?」
「傷じゃない。」
「え?」
「少なくとも、俺にはそう見えない。」
研究員は苦笑した。
「また始まりましたね。」
「始まった覚えはない。」
「でも、この遺跡って一万年前ですよね?」
「ああ。」
「石器時代ですよね?」
「ああ。」
「だったら、こんな加工なんて——」
「できない。」
竜司は静かに言った。
「だから調べてる。」
研究員は肩をすくめる。
「学会で言ったら、また笑われますよ。」
「笑われるのは慣れてる。」
竜司はそう言って立ち上がる。
何十年も同じだった。
説明のつかないものを見つける。
仮説を立てる。
証拠がないと言われる。
それでも調べる。
その繰り返しだった。
ふと、夕日が木々の隙間から差し込んだ。
岩肌が橙色に染まる。
その一瞬だけ。
一本の線は、傷ではなく。
何かを切り離した跡のように見えた。
竜司は目を細める。
「……。」
「先生?」
しばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。
「いや。」
「気のせいだ。」
そう言って笑う。
だが、その表情はどこか納得していなかった。
「先生、本当に帰りますよ!」
「ああ、今行く。」
竜司はリュックを肩に掛ける。
そして最後にもう一度だけ、その岩壁を振り返った。
誰が。
何のために。
この跡を残したのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
山には再び、静けさだけが残った。




