22.マッテオ家の食卓1日目
ラモンが藁と餌の袋、それにマチルダに頼まれていた買い物の包みを抱えて戻ったころには、もう夕方になっていた。
広場に面した窓から差し込む光は赤みを帯び、土間に長い影を落としていた。ダンが静かに首を動かし、ギラは敷いた古い敷物の上で脚をたたんでいた。二羽とも落ち着いてはいたが、見知らぬ家の匂いと町の騒がしさにまだ気を張っているらしく、ときどき低く喉を鳴らした。
ラモンは荷を土間へ下ろした。
「頼まれたものも買ってきた」
マチルダは台所の仕切りの向こうから顔を出した。
「助かったわ。藁も餌も大丈夫だった?」
「ああ、十分調達できた」
マッテオは包みと藁袋を見てうなずいた。
「よし。今夜はこれで文句は出んだろ」
「ダンもギラももともと文句は言わないけどな」
とラモンが返した。
そのとき、引き戸を開けたのは。ビリエラだった。
服は乱れていなかったが、顔にははっきり疲れが出ていた。
マチルダはすぐに言った。
「お帰りなさい。だいぶ歩いた顔をしているわ」
ビリエラは一礼した。
「ただいま戻りました。ええ、その……少々、通りが入り組んでおりまして」
マッテオがにやりとした。
「迷ったかな」
「迷ってはおりません」
とビリエラは言ったが、言い切る前に勢いが弱くなった。
「……少し、遠回りをしました」
シエラはそのやり取りを長テーブルの脇で見ていた。シエラが見ていると、ビリエラは咳払いをひとつして居住まいを直した。
「大聖堂には到着の報告をしてまいりました。正式な話はまた明日になるそうです」
「今日はそれで十分よ」
とマチルダが言った。
「まずは座って。夕飯にするから」
長テーブルにはもう皿が並べられはじめていた。木の器に盛られた豆と燻製肉の濃い煮込みから、湯気が立っていた。魚と芋のフライ、白パンも籠に入っている。奥には開けたばかりの赤ワインまで出ていた。
ラモンが瓶を見た。
「それ、出したのか」
マチルダは振り向いた。
「あなたが持ってきたお土産よ。開けるわよ」
マッテオはすぐ椅子を引いた。
「そうこなくちゃな。十年ぶりに会って水じゃ泣く」
「お前は水でも泣かないだろう」
とラモンが言った。
「それもそうだ」
ちょうどそのころ、外から子どもの足音が駆けてきた。引き戸の前で勢いが少しゆるみ、次の瞬間、クリスとテオが顔を出した。
二人とも外で遊んでいたらしく、頬が少し赤かった。テオは入ってすぐ土間を見て、クリスはまず見知らぬ客のほうへ目を向けた。
「わっ」
とテオが声を上げた。
マチルダが咎める
「わ!じゃないでしょ。挨拶なさい。」
テオとクリスは元気よく挨拶した。
二人が手を洗って席につくと、マチルダが器を配った。長テーブルの上は広かったが、人数がそろうと急に家らしい狭さが出た。椅子の脚が鳴り、器が木に当たり、土間の向こうではダンが一度だけ低く息を鳴らした。
「冷めないうちにどうぞ」
とマチルダが言った。
そのあと、食卓はしばらく静かだった。
マチルダの煮込みはおいしく、白パンとよく合った。豆は崩れすぎず、燻製肉の塩気もちょうどよかった。ラモンは黙って食べ、マッテオも最初のうちは口より手を動かした。クリスとテオも、遊び回って腹をすかせていたらしく、まずは皿の中身を減らすことに集中していた。
シエラも匙を動かした。
温かかった。美味しそうな匂いにあふれていた。
昼のあいだ、絵具と油の匂いに満ちていた家が、いまは別の家のように思えた。
マチルダがふと聞いた。
「どう? 食べにくいものはない?」
シエラは器を見てから答えた。
「おいしい....です」
マチルダはそれだけで十分というようにうなずいた。
「それならよかったわ」
食事が少し進んだころ、マッテオがふとシエラを見た。
灯りの下で、シエラの短い黒髪は昼とはまた違って見えた。艶のあるところだけが細く光り、首筋や頬の線がすっきり出ていた。
「やっぱり、お前さんの黒髪は絵になるな」
シエラは器から顔を上げた。
「そうか」
「そうだ」
とマッテオは言った。
「明るい色は目立つが、黒は形が出る。光の拾い方がいい」
クリスがすぐに顔をしかめた。
「だめよ。そんなふうに言われても、うっかりうなずいちゃ」
シエラは不思議そうにクリスを見た。
「父さんのモデルになると大変なのよ」
とクリスはきっぱり言った。
マッテオが眉を上げた。
「まだ頼んでないぞ」
「頼まれてからじゃ遅いの」
とクリスは言った。
「数か月前だって、ひどかったじゃない」
テオもすぐにうなずいた。
「ひどかった」
ラモンが杯を持ったまま聞いた。
「なんの話だ」
マチルダが少し笑った。
「商人から頼まれた大きな絵よ」
マッテオはたいして面白くもない顔で答えた。
「もう売れたやつさ。題は『処刑される海賊とその子分たち』」
ビリエラの手が少し止まった。
「ずいぶん、ものものしい題ですね」
「売れたならよしだね」
とマッテオが言った。
「よしじゃないわ!とうさん」
とクリスが言った。
「わたし、ずっとこの格好をさせられたのよ」
クリスはそこで、片手を持ち上げて掌を上へ向ける格好をしてみせた。肘を少し曲げ、顎まで少し上げる。食卓でやるには妙に大げさで、たしかに舞台じみていた。
「こうしてろ、顎を上げろ、手はもっときれいに、動くな、まだだって」
とクリスは言った。
テオが吹き出した。
「ほんと。変な恰好だったよね」
「笑うけど、テオだって大変だったじゃない」
とクリスはすぐ言い返した。
「僕のほうがひどかったよ」
とテオが言った。
「ずっと寝そべらされてた」
マッテオは訂正した。
「寝そべってたんじゃない。倒れた格好だ」
「同じだよ」
とテオが言った。
「じっとしてろって言うから、じっとしてたのに、今度は腕をちょっと曲げろ、顔はこっちだ、目は閉じるなって」
クリスが笑いながら言った。
「しかも、あれ、死んだ子分だったのよ」
「子分じゃない」
とマッテオが言った。
「じゃあ何」
とクリスが聞くと、マッテオは少し考えた。
「倒れた男だ」
ラモンがそこで口を開いた。
「で、クリスは何だったんだ」
マッテオは平然と答えた。
「処刑される海賊だ」
マチルダが肩を揺らした。
「だからあなたたち、あの日はぐったりしてたものね」
「そうよ」
とクリスが言った。
「遊んだ日より疲れたわ」
「僕も」
とテオが言った。
「倒れるだけなのに大変だった」
「倒れるだけじゃない」
とマッテオが言った。
「悲劇的に倒れているのが大事なんだ」
「そんな大事さ、いらない」
とクリスが言うと、食卓にまた笑いが起きた。
その笑いがおさまると、会話はまた少し引いた。初日の食卓だった。悪い沈黙ではなかったが、誰もがまだ少しずつ間を測っていた。
ラモンはそのままワインへ手を伸ばした。マッテオも自分の杯を差し出した。
「相変わらずだな、お前」
とマッテオが言った。
「何がだ」
とラモンが返す。
「土産が酒だ」
「運ぶのに都合がよかった」
「また、そんな素っ気ない言い方するから誤解されるんだ」
マッテオはぶつぶつ言いながらも嬉しそうだった。赤ワインが杯に注がれると、ようやく十年ぶりの再会らしい空気が、食卓の端にだけ少し出た。
だが、そこでも二人は大声にはならなかった。
マッテオが聞いた。
「王都からずっとその二羽で来たのか」
「ああ」
とラモンが言った。
「道は悪くなかった。宿屋馬場もある」
「なら、まだましだったか」
「助祭には十分きつかったろうがな」
いきなり話を振られたビリエラは、慌てて顔を上げた。
「……ええ。ですが、貴重な経験でした」
テオがすぐに言った。
「助祭様も乗ってきたの?一人で」
ビリエラは少し間を置いた。
「ええ」
「揺れる?」
とテオが聞く。
「揺れます」
「怖い?」
ビリエラはまた少し間を置いた。
「高くて、揺れて、速いです」
テオは目を輝かせた。
「いいなあ」
ビリエラは本気で信じられないものを見る顔をした。
「いいのですか、あれが」
「すごいよ」
「すごいですが、わたしは地面のほうが好きです」
シエラはその会話を聞きながら、パンをちぎった。
マチルダは皿を見て、足りない者にパンを寄せ、器の減りを見て鍋へ手を伸ばした。
「テオ、こぼさないで」
「はーい」
「クリス、パン回して」
「うん」
そういう小さな声だけが、食卓を途切れさせずにつないでいた。
食べ終えるころ、テオはもう眠そうな顔になっていた。だが半土間のほうを見る目だけはまだ元気だった。
「ねえ、お父さん」
とテオが言った。
「あの鳥、近くで見てもいい?」
「だめだ」
とマッテオは即答した。
「なんで」
「近いからだ」
「近いとだめなの?」
ラモンが代わりに言った。
「お前が何もしなくても、向こうが嫌がることがある」
テオは納得しきらない顔をした。
「見るだけでも?」
「見るだけで済む顔をしていない」
とマッテオが言うと、クリスが吹き出した。
「ほんとよ。テオ、絶対触るもの」
「触らない」
「触るわ」
「触らない」
「口がもう触る口だもの」
テオは自分の口を押さえた。クリスがまた笑い、ビリエラまでつられて少し笑った。
マチルダが片づけの手を止めずに言った。
「今日はやめておきなさい。家の中で騒がせるのはよくないわ」
それで話は終わった。
夕食が済むと、マチルダが皿をまとめ、クリスがそれを受け取り、台所とのあいだを何度か往復した。テオも手伝うつもりで立ち上がったが、皿ではなくパン籠を持ったまましばらく立ち尽くし、マチルダに「それはもういいの」と言われていた。
マッテオは椅子へ深くもたれた。ラモンはワインをもう一度だけ注いだ。ビリエラは「手伝います」と言ったが、マチルダにやんわり止められた。
「お客さまですからゆっくりしてください。道を覚えるだけで疲れたでしょう」
ビリエラは否定できなかった。
「……はい」
「覚えたのかい?」
とマッテオが言うと、ビリエラは少し詰まった。
「……だいぶ」
「まだ怪しいな」
とラモンが言った。
「明日は大丈夫です」
とビリエラは言ったが、その声にはもう先回りして不安が混じっていた。
やがてマチルダが子どもたちを見た。
「ほら、もう上へ行きなさい。明日も朝から忙しいわ」
テオは半土間のほうを何度も見ながら、ようやく階段へ向かった。
シエラもクリスに目で促され、立ち上がった。
「こっち」
とクリスが言った。
「部屋、上だから」
シエラはうなずいた。
階段を上がると、下の土間が少し見えた。灯りの届くところでマッテオが杯を持ち、ラモンが椅子を引き寄せていた。ビリエラもまだ下に残っているようだった。
子ども部屋には三つの寝台が並んでいた。壁際に二つ、窓のそばに一つ。窓は小さかったが、開けられていて、夜の空気が少しだけ入った。クリスは手慣れた様子で寝台の上を整え、テオは靴を脱ぎながらまだ下の話を気にしていた。
「助祭さん、また迷うかな」
とテオが言った。
「明日は大丈夫って言ってたでしょ」
とクリスは答えた。
「でも、ちょっと怪しかった」
「それはそうね」
シエラは黙って自分の寝台へ腰を下ろした。知らない家の二階だったが、不思議と落ち着かなかったわけではなかった。下から人の気配が上がってくるせいかもしれなかった。
クリスはシエラをちらりと見た。
「狭くない?」
「平気だ」
「毛布、足りる?」
「足りる」
クリスはそれ以上は聞かなかった。まだ初日だった。親しげにしすぎるほどではないが、よそよそしくもなりきらない。そのへんの加減を、クリスはもう何となくわかっているらしかった。
テオは寝台へもぐり込んだあとも、すぐには黙らなかった。
「ねえ、あの鳥、ほんとに蹴る?」
クリスは毛布を広げながら答えた。
「怒ったら蹴るんじゃない」
「見たいなあ」
「見なくていいの」
「ちょっとだけ」
「ちょっとで済まないからだめなのよ」
テオはなおも何か言いたそうだったが、そこで下から酒を注ぐ音が聞こえた。
続いて、ラモンとマッテオの低い声がぽつぽつ上がってきた。何を話しているのかまではわからなかったが、声の調子で楽しそうなことだけは分かった。
クリスはその音を聞きながら、寝台へ入った。
「明日も早いんだから、寝よう」
「うん」
とテオは言ったが、その返事はもう半分眠そうだった。
灯りを落とすと小さな窓から入る夜の明かりが、寝台の形だけをぼんやり浮かべていた。
下では酒を注ぐ音と、ラモンとマッテオの低い声が続いていた。




