揺らぐ何か
「神楽さん!?」
「医術の心得があった父から、多少の手ほどきを受けております。怪我人の治療くらいならばお役に立てます」
「いや、しかし……客人にそのようなお手間を取らせては……」
「ですがそうしなければ、どちらか片方が手遅れとなりましょう。それでも良いのですか?」
「それは……」
神楽の言う通り、一刻の猶予もない状況に、直正は返す言葉に詰まる。
けれどそこはやはり医者。一瞬で意を決して、立ち上がる。
「少し待て、支度して来る!」
「兄さん! お布団と薬、布の準備出来ました!」
「朱音、俺は喜作さんのおっかさんの容態を診て来る! お前は神楽さんの手助けを!」
「え……え!?」
朱音が戻って来るのと入れ違いに、早口でそう指示を飛ばしながら、直正は奥の部屋に走る。
「――焔、その子を」
「御意」
未だよく呑み込めずに呆然とする朱音を他所に、神楽が短く命じれば、焔獄鬼はそれに従い、六太の妻から幼子を慎重に受け取る。
「よし、喜作さん、行こう!」
「へい!」
直正はものの数分で戻って来て、喜作と一緒に駆け出す。
「――朱音殿、この坊主は何処に運べば良いのだ」
焔獄鬼がそう声を掛けたところで、漸く朱音は我に返った。
こっちです、と慌てて神楽と焔獄鬼を奥へ案内する。
「あ、あの……!」
「……大丈夫。必ず助けるから」
直正が行ってしまって、見知らぬ女が息子の手当てをすることに多少なりとも不安を感じているのか、六太の妻が神楽の背に堪らず声を掛けた。
神楽はしっかり振り返って、淀みなく、しっかりと力強く答えて。
朱音と焔獄鬼の後を追った。
診察の場として使っていると思われる広間に案内され、焔獄鬼が六太夫妻の子供をそっと布団の上に横たえる。
神楽は襷で着物の袖をたくし上げると、夫妻が巻いた布を慎重に外した。
「――、」
側で朱音が息を呑み、焔獄鬼も硬い表情になる。
傷は深い。先程から泣き叫んでいた当の子供本人は、その泣き声も既に弱々しく、熱に浮かされ始めている。
「朱音様、酒を持って来てもらえますか」
「は、はい……!」
「焔、これをこの子の口に」
「承知」
素早く短く二人に指示を出しながら、神楽は側に置かれている薬を見遣る。
医術の心得はないと言っていたのに、朱音が用意した薬は、どれも切り傷や熱覚ましに効果のあるものばかりだった。
「神楽様! お酒です!」
朱音が持って来た酒を受け取り、神楽はやや考えてから少年に語り掛ける。
「ちょっと痛いけど頑張って。大丈夫、必ず助けるから」
この子の両親に言ったのと同じ言葉だった。
神楽は少年の足を布で綺麗に拭き、焔獄鬼と朱音に手と足を押さえておくように命じる。
一つ大きく息を吐いて、神楽は酒の栓を開けて口に含み――勢い良く患部に吹きかけた。
上がる絶叫。布を噛ませていても、その声は庭先で待つ両親の耳にも届いた。
□□□
意識が引っ張り上げられる感覚に、神楽は抗うことなく目を開けた。
ぼんやりする視界がまず捉えたのはありふれた家屋の天井と、そこに差し込む陽の光。
一瞬状況の把握に手間取る。ここは何処だったか、と考える。
その答えを求めるように何となく起き上がってみれば、体の上から毛布が一枚滑り落ちた。
すぐ側には、穏やかな寝息を立てて眠る少年。
(ああ……そうだった……)
そこで漸く神楽は、ここは昨日立ち寄った町の医者の家で、この子は昨日神楽が治療をしてやった少年であることを思い出した。
少年は、名を六郎と言うのだと、手当てが終わったあと朱音が教えてくれた。
そっと少年の額に触れる。呼吸も静かになり、熱も引いていた。
無意識に安堵の息を零す。後は足の傷口が塞がれば、もう問題ない。
神楽は六郎の額に置いたままだった手拭いを取って、側の水桶を持ち上げると、彼を起こさないようにそっと広間を出て行った。
陽は昇っているが、まだ時刻的には早朝だろう。遠くで鶏が鳴く声が響く。
昨日のうちに教わった井戸の場所まで辿り着くと、神楽は水を汲んでまず自分の顔を洗った。
少し冷たかったが、それが却って頭を覚醒に導いてくれる。
「きゅぃ」
手拭いで顔を拭っていると、足元に狛が擦り寄って来た。
「おはよう、狛」
短く挨拶をしてやれば、狛は応えるように短く鳴いて、神楽の肩まで駆け上がって来る。
「狛、お前の主人はどうした。一緒ではないのか」
撫でる神楽の手に甘えて擦り寄る珀に問う。すると狛は少々不機嫌な声でまた一つ鳴く。更に視線を、神楽ではなくその奥の何処かへ向けた。
神楽も同じ方向に目を遣れば。
そこには、何やら楽しそうな様子の朱音と――焔獄鬼が、いた。
正確には楽しそうに笑っているのは朱音だけだったが、焔獄鬼は昨日と打って変わって朱音の話にしっかり相槌を打っているように見える。
「ぎゅぃぅ……」
狛が更に不機嫌な声を上げる。
目も何処か敵意の色があって、神楽は宥めるようにもう一度狛を撫でた。
相槌だけでなく、焔獄鬼は小さな笑みさえ浮かべて朱音と会話しているようだった。
――別段、何もおかしい事はない。
成り行きとはいえ神楽と焔獄鬼はここに一夜の宿を借りたわけだし。
家主や家人と少々普通に会話をするくらい、流れとしては当たり前だろう。
だが、何故だろう。
腹の辺りが――ちょっと、ゴロゴロ、する。
「――神楽さん」
そんな神楽の気を散じさせたのは、直正の声だった。
呼ばれて振り向けば、清々しいまでの笑みを浮かべて、家主たる直正が立っていた。




