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惑う心

 

「……では、お言葉に甘えて」


 丁寧にしてくれる直正に、いよいよ無下に出来ない。


 神楽は未だ落ち着かない様子の焔獄鬼に目配せして、草鞋を脱いだ。


 医者の家とあって、あちこちから薬や草の匂いが漂ってくる。


 朱音の招待を受けると決めた時から予想はしていたが――この家の匂いは、神楽にとっては懐かし過ぎる匂いで溢れ返っていた。


 預かっている患者はいない。恐らくは毎日患者の家に出向いて診て回っているんだろう。


「……この町には、重病の方がいらっしゃるんですね」


 思わず、口を吐いて出た言葉。


「ええ。うちで預かって付きっきりで診てやれればいいんですが、見ての通り手狭でね。……それにしても、よく分かりましたね?」


 直正が苦笑交じりに言う。


 神楽は内心、余計な事を言ってしまったなと苦い気持ちになった。


「……私の父も、医術を学んでおりましたので。医者、ではありませんでしたが……嗅ぎ慣れた薬草の匂いがしましたので、もしやと」


「そうでしたか。お父上は今は?」


「――死にました。もう、随分、昔に」


「……そうですか」


 淡々と言ったつもりだったけれど、声音に少しだけ、重さと低さが混じってしまった。


 焔獄鬼が何か言いたそうな、気遣うような視線を向けているのが気配で分かる。


 本当に、余計な事を言ってしまった。

 何を動揺しているのだろう。薬草の匂いくらいで。


 そんなの、今までだって、嗅がない日はないくらいなのに。


「……大丈夫か?」


 何処か躊躇うように、焔獄鬼が耳打ちしてくる。


 今口を開いたら八つ当たりしてしまうかもしれない。


 何となくそんな気がした神楽は、一つだけ小さく頷いてみせたのだった。





 人の世のしきたりとか礼節とかを尊重したことを、神楽は茶を飲みながらちょっぴり後悔した。


 茶を一杯頂戴したらすぐにお暇するつもりだったが。


 朱音という娘、余程焔獄鬼を気に入ったらしい。


 町の事やら家の事、その他雑談、神楽も焔獄鬼も大して興味のない話を次から次に矢継ぎ早に話すので、口を挟む隙がない。


 厚意であり好意でもあるから、あまり強く話をぶった切るのも気が引ける。


 ――こういう時、人間の部分を無駄に残している自分に呆れる。


 彼女の想いは、どう転んでも成就しようがないというのに。


「そうだわ! ねえ、お二人共今日はうちに泊まって行きませんか!?」


 そしてこう来るのも容易に想像がついていた。


「……せっかくのご厚意でございますが、私どもは先を急いでおりますので」


 無駄だとは思いつつ、神楽も一応言ってはみたが。


「そんな事仰らずに! もうすぐ日も暮れますし! ね、兄さん、いいでしょ?」


「そりゃそうして頂けたならこちらも有り難いが、朱音、あまり無理を言っては……」


「だって命の恩人よ? お礼がお茶一杯だけなんてやっぱり失礼だわ!」


 取り付く島もないというか強引というか。

 せめて茶の一杯でも、と言ったのは他ならぬ朱音ではなかったか。


 良い捉え方をするなら積極的な女、ということだろう。


 隣で焔獄鬼が目線だけで「何とか断ってくれ」と訴えている。


 矢継ぎ早に話す間も、朱音は焔獄鬼に熱い視線を終始向けていた。

 あからさまだった故に、焔獄鬼も少々辟易しているらしかった。


 訴えられるまでもなく、多少強引にでも立ち去るつもりでいる、が。


 そうもいかない事態が発生したのは、その時だった。


「先生ーっ!! 直正先生ー!!」


 障子の向こうから、切羽詰まった男の声が響いた。


 この客間は庭に面していて、直正が障子を開けると、小さな子供を抱えた一人の農夫夫婦が駆け寄って来ていた。


「六太、どうした」


「先生、助けて下さい! 息子が大怪我を負って……っ!」


 見ると、母親に抱えられた子供は、足から大量に出血している。

 何とか応急処置をしようとしたんだろう、患部に布が巻き付けられているが、その当て布から血が滴り落ちている。


「一体何があったんだ」


「私がちょっと目を離した隙に、鍬で遊んでたみたいで……転んだ拍子に切ってしまったんです……っ!!」


「そうか……とにかく奥に。朱音、急いで清潔な布と薬、それから布団を」


「はい!」


「神楽さん、焔さん、見ての通りだ、すまないが少々――」


「――先生ーっ!」


 少々席を外す、とでも言い掛けたらしいが、六太とは違う男の声が庭の向こうから聞こえて来て、直正は言葉を遮られた。


「先生、来てくれ! おっかあの容態が悪いんだ!」


「なに……!?」


「今朝はいつも通りだったんだが、さっきから何だか苦しそうにしてて……!」


 一度に二人の急患が駆け込んで来て、直正は流石に狼狽えているようだった。


 六太夫婦と親を助けてくれと懇願する男、三人が縋るような必死な眼差しで直正を見つめている。


 この町には医者は一人しかいないという。朱音は兄の手助けをしているというが、医術の心得はないに等しい。

 兄妹で手分けするわけにもいかないだろう。


 焔獄鬼は口の中だけで深い溜息を零した。狛も彼の肩の上でつまらなさそうな声を上げる。


 多分、この状況下、神楽が次に発する言葉は。


「その子供は私が診ましょう」


 面白い位に予想通りだった。


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