降臨
「ヘイ、仔猫ちゃん」
へらへらと声を掛けた男は仲間に目配せして少女の退路を断とうとした。
生意気な小娘をお仕置きして欲しいと言う金持ちの留学生に頼まれた美味しい仕事だった。
殺す事は無いが彼らに散々玩んで懲らしめて欲しいと言うのが依頼の内容だ。
依頼主は彼らに連絡用の携帯電話まで渡して、少女が唯一人でアパートを出た事を知らせてよこしたのだ。
少女がくるりと振り向いた。
彼女の猫めいた東洋人の目がキラリと光を弾く。
こんな夜更けにたった一人で外出なんてする方が迂闊なのさと、のんびりとした平和ボケの国からの留学生を嘲っていた男達は薄暗い街灯の明かりに浮き上がった白い顔に腰が抜けそうになった。
まだ、年端もゆかない、大学生だなんて冗談としか思えない幼い顔立ち。
スキップ制度の無い国から来たのだから成人している筈なのに。
体つきも華奢で、彼等から見れば子供としか思えない彼女の顔が花が咲くように鮮やかな笑みを浮かべた。
「ヒイッ、あ、姐さん」
男は小便を漏らしそうだった。
もう絶対会いたくないと思っていた人物によりによって自分から声を掛けてしまったのだ。
玩ぶなんてとんでもない。
彼のギブスで固めた肋骨がズキズキ痛んだ。
当の彼女に散々玩ばれたのは彼らの方だったのだ。ほんの5日ばかり前に。
5日前、彼らは今日のように独り歩きしていた彼女を良い獲物だとばかりに襲い掛かり、何が何やら判らぬ内に殴られ蹴られ投げ飛ばされて散々な目に遭わされた。
ただ、それだけならば彼等もこれほど怯える事は無かっただろう。
身動きもままならなくなった彼らを見下ろす少女の顔をした彼女が恐ろしかったのだ。
ほとんど、本能的な部分で彼らは自分達が狩られる立場の者で、彼女が狩る側の存在なのだと悟ってしまっていた。
何より怖かったのは彼女の笑みだった。
修羅場など何一つ感じさせない美しく恐ろしい笑み。
彼等は判ってしまった。
そうしようと思えば、彼女はその笑顔を欠片も歪める事無く、聖少女の顔のままで彼らの命などあっさり摘み取ってしまえるのだと。
「私によほど殺されたいとみえる」
彼女に言われて彼等は思いっきり首を横に振った。
「なれば、お前たちを差し向けた者の事をしゃべってもらおうか」
一層鮮やかな笑みがその白い顔を彩り、彼等には反抗する事など出来るはずも無かった。
「根岸君、急に帰国しちゃったんですって」
朝食のトーストにバターとジャムを塗りながらレイコは言った。
「根岸?」
形良く仕上がったポーチドエッグと皿に盛った茹でた自家製ソーセージをテーブルに置きながらリンは首を傾げた。
「ほら、ちょっと前に私達にしつこく言い寄って来た根岸産業の次男坊よ。
私が藤村の娘だと知った途端に、妙に馴れ馴れしく近づいて来たでしょう。
それまでは取り巻きの沢山の女の子達を侍らせて騒いでいたのに、いきなり花を持って押し掛けて来るんですもの。
私じゃ無くて家目当てだってバレバレじゃない。
何が気に食わないって、リンちゃんを召使扱いして失礼な態度。
『君、ここは良いから暫く二人にさせてくれない?』って、誰がよく知らない男と二人っきりになんてなりたいはず無いじゃない。
リンちゃんにつまみ出されてスカッとしたわ。
いったい、何のために留学したのって聞きたいわ。
ずっと女漁りばかりしてたみたいだけど。
もう2カ月も留学しているって言うのに、まだろくすっぽ英語がしゃべれないのよ。
そりゃあ、私だってまだ片言だけど」
そうでもなかったな、とリンは密かに思った。
あの時、根岸隆次は多少たどたどしさはあもものの、ちゃんと通じる英語を喋っていたのだ。
初めは横柄な口調で、そして次には泣き叫びながらの哀願口調で。
別にリンが手を下した訳では無い。
ただ、彼が町のチンピラ共を使ってリンに仕掛けた事をそっくりそのままその身に返されただけだった。
そして、根岸は帰国する事になった。
あとくされ無いように殺すかどこかに売ってしまおうと言うチンピラ共を止めたのはリンだった。
勿論、根岸は何も出来る訳が無かった。
チンピラを使って女の子を暴行させようとして、それをわが身に受けたなどと言える訳も無く、恐怖に精神に失調を来たし留学を続ける事が困難になったのだ。
「それにしても、リンちゃんは凄いわねぇ。
まだそれほど経っていないのに英語がペラペラ。
皆、留学生だなんて気付かずに日系だと思ってるのよ。
語学の教授だって判らなかったみたい。『君が英語を受講しても仕方が無いだろう』なんて言ってたわね。
リンの世界では世界中の言葉がほぼ同じだ。
ただ、地域によって訛りと言うか、あちこち言い回しが違っていたり、イントネーションの違いが有ったりする。
それを、リンの一族の者は最初に聞いただけで完璧にその土地の言葉を喋る事が出来た。
そして英語と日本語はその根元から違う言葉だがやはり聞いただけで完全になぞる事が可能だった。
それは彼の種族の特性かも知れない。
ただ、相手によってその訛りまで完璧になぞって変に思われないようにテレビのアナウンサーの言葉を参考にしてそこからはみ出さないようにするのが課題だったのだ。
留学と言う名の語学研修と観光旅行は間もなく終わる。
夜毎の徘徊でリンの感覚もかなり元に戻ったと思う。
その事を考えれば気が進まなかったこの留学も良かったのかも知れない。
ストックが切れました。
明日更新できるかな~?




