黒い豹
「考えておいてくださいねぇ~。10億ならじきに稼いで積んで見せますから」
それが、駆けつけた警官達に引きずられて行く糸目の男の別れ際の言葉だった。
どこまでも人を食った男だ。
ハイジャック被害者の人々は簡単な事情聴取の後、解放された。
旅行者であり、それぞれの用もあるだろうから長時間束縛する訳にもゆかない。
その中でもっとも重要な参考人であるリン達はVIPルームに通されていた。
「東西南北、トン シャー ナン ペイ だろう」リンが言った。
「あ、そうなんだ。だから呼び方がまちまちだったのね」
レイコとリンが犯人達の名前に付いてのんびりと話をしている間、非常事態中は共同戦線を張りながら、お互いの事を全く知らない桑原と村上の間に緊張が高まっていた。
「ただの通りすがりだったって言っても信じちゃもらえないでしょうな」村上が言った。
「堅気じゃ無い事は分かる。聞きたいのは白川様との関係だ」
「別に関係なんてありません。ただのストーカーですよ」村上は肩を竦めた。
「ストーカーだと?それにしては親しげだったな」
「そう見えましたかね。あたしゃあ、あのお人が物凄く怖いんですが。
遠くで見ている分にはまだ良いんですが、すぐ近くで顔を覗き込まれて話しかけられて、ちびっちまう所でしたよ」
「だが、恐ろしく息があっていたが。一体あの血袋の事はどこで相談したんだ?」
「ああ、あれですか。犯人が切りつけて来たら切られた振りをして目を誤魔化せないかなと思って、なんて言い訳は聞けませんよね。
あたしは、他の人よりちょっとだけ霊感ってなものが発達してましてね。
ほんの少しだけ、先の事が分かるんですよ。
特にあの人の事は良く判る気がしますよ。あの人が何をあたしに望んでいるかってね。
あたしゃ、きっと前世はあの人の下僕だったに違いないとさえ思うんですよ。
きっと、物凄く怖いご主人様にビクビクしながらお仕えしていたんだろうってね」
桑原は胡散臭げに村上を見た。霊感なんてものは現実主義者の桑原には到底受け入れられない事だった。
「お父様!」
レイコが立ち上がり、入って来た男の元に駆け寄った。
「で、本当の所はどうなんだ?」
くるりと振り向いてまるでさっきから話に加わっていたいたような口調で話しかけられ、村上は勿論の事だが桑原までがビクッと竦み上がってしまった。
「お前は偶然では無いと言ったが、私がお前の存在に気付いたのはチケットを搭乗券に交換した時だったぞ」
「最初は偶然だったんです。
あたしゃ、別の便でアメリカに行く所でして。
それをもっと遅いあの飛行機に振り替えたんです。
あの飛行機に空きがなきゃ諦めてた所だったんですが、ビジネスクラスはガラガラでしたんで。
あなたは覚えてらっしゃるかどうか知りませんが、うちの社長を助けてくださった時に、ちょっと前にあなたに不埒な真似をしようとしたバカ野郎を路地裏に放り込んでいらしたでしょう。
あれ、うちの社長の坊ちゃんなんで」村上は肩を竦めた。
「いや、、別にその事に文句がある訳じゃありませんし、慰謝料に取り上げられた財布を返してくれって訳でも無いんです」
村上は何を言われても平然としているリンに続けた。
「坊ちゃんは、ただでさえオイタが過ぎていたんで、社長もそれを機にアメリカにやっちまったんですよ。
幸い、気絶させられた以外たいした怪我も無かったんで、あれから直ぐですよ。
社長にその坊ちゃんの様子を見て来るように言われて、あたしゃ出かけるところだったんですよ。
飛行機を取り換えたりしてなきゃ今頃あたしはアメリカの土を踏んでますよ」
「どうして飛行機を取り換える気になった?私がその坊ちゃんとやらに何かするとでも思ったのか?」
「いいえ、坊ちゃんの事など覚えてらっしゃるとも思いませんでしたよ。
坊ちゃんの方があなたを見つけて何かするなんて事もありません。
坊ちゃんはたとえ1キロ先からでもあなたを見つけようものなら千キロの彼方にでも逃げ出すでしょうよ。
あの後の坊ちゃんの怖がりようときたら。
ですから、そっちの旦那にも申し上げたとおり、ただのストーカーですよ。
あたしはあなたが怖い。
でも、何故かあなたに惹きつけられてしまうんです」
「ほう、お前の目には何が見える?お前の目に映るわたしは何者だ?」
「人の皮を被った人喰い虎」
くすっとリンは笑った。
思わず正直に答えてしまい冷や汗をかいていた村上は呆然とその笑顔に見とれた。
同時に泣きたくなるほどの安堵感があった。
もう、自分はこの人に殺される事は無いんだ、と言う安堵感。
ただ、ドジを踏まない限り。
「豹だ」リンは言った。
「え?」
「虎では無く、豹だよ。
知っているか、豹は虎よりも容易く人喰いになるそうだぞ」
何の事かさっぱり分からなかったが、何か物凄く怖い事を聞いてしまった気がした。
カタカタとどうしようもなく膝が震えて来た。
ああ、けれど目の前の少女の顔をした恐ろしい人が華やかな彩りを纏う虎よりも漆黒の豹であるのが相応しいと思うのだった。




