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ナーホトの戦い

 プロシア王国軍参謀本部総長モルトケ大将が考えていた作戦は、北西からエルベ軍が、北から第一軍が、そして東から第二軍がボヘミアの「ある一点」に向かい、オーストリア北軍に決戦を挑む、と言うものです。


 そのある一点とは「ギッチン」。ジチンとも呼ばれるプラハ北東70キロにある現チェコのイチーン市でした。

 エルベ軍によるヒューナーヴァッサー(ギッチン北西45キロ)や第一軍によるポドル(ギッチン北西20キロ)の戦いもこのギッチンを目指す行軍中に起きた戦闘でした。


 モルトケの「分進合撃」は斬新で、当時の軍事常識の逆を行くものであることは指摘して来ました。この後どうなるか知っていて、快適な部屋の中でネットを見ながらコーヒーでも飲んでいる「神視線」の我々と違い、実際に半信半疑で戦わされるプロシア軍将兵や指揮官はさぞ勇気が必要だった事でしょう。


 この作戦概要が伝えられると指揮官から異議や反論が相次ぎ、分進は止め、シュレジエンに全軍を集め、東からヨセフシュタットやケーニヒグレーツの要塞地帯を集中攻撃すべし、との意見が聞こえて来ました。当然ナポレオンの事績が色濃く反映した意見です。指揮官たちは50歳から70歳代が多く、ナポレオン戦争に若い駆け出し士官として参戦した者も多かったので、その呪縛が解けないでいたのです。


 しかし参謀本部とモルトケは、鉄道と電信と言う文明の利器を使用するプロシア軍は各個撃破される心配はない、としてあくまで分進合撃を主張、国王ヴィルヘルム1世の裁可で作戦が決まったのでした。


 とは言うものの、開戦から十日で発生したイタリアでの「クストーザの戦い」で「外線」の分進合撃が「内戦」の各個撃破に敗れたことは、ナポレオン時代を彷彿とさせる出来事で、指揮官や参謀たちでさえ不安を覚えたのではないかと思います。その衝撃を噛みしめる間もなく彼らの番がやって来ます。


 「ナーホトの戦い(別名ヴィソコフの戦い)」は1866年6月27日、プロシア第2軍・第5軍団がオーストリア北軍・第6軍団と戦った戦闘です。


 現在はチェコの町、ナーホトはポーランドとの国境の町です。緑が多く綺麗に整備された郊外の住宅街風の町で、きっと住んだら気持ちの良い場所でしょう。

 町の二キロ東はポーランドのシレジア地方。第二次大戦まではドイツ領シュレジエンと呼ばれていた地方です。

 今はチェコもポーランドも同じEU加盟国で、国境を見ても鉄条網や監視所の類はありません。違いと言えばポーランド側の道が綺麗な石畳だったものがチェコに入るとバッチリ近代的なアスファルト舗装になるなど、お国柄?が見られる位です。


 今でこそのどかな風景ですが、第二次大戦までは常に緊張を強いられる国境の要衝でした。ここはシュレジエンとボヘミアを遮る山岳地帯に切れ込んだ谷間で、大軍がボヘミアへ侵入するには最適な場所だったのです。

 ちなみに、現在の地図を眺めている方、ナーホトの西に大きな湖が見えます(ロズコシュ貯水池)がこれはダム湖で19世紀にはありません。この湖周辺が戦場になります。なお、ヴィソコフの西を大きくカーブを描いてスカリッツへ向かう鉄道は当時とそっくりそのままです。


 6月27日早朝。プロシア第5軍団はリーゼン(クルコノシェ)山脈の南に続くヒュースチャウァー(ストローヴ)山脈とアドラー(オリツケン)山脈の間ギドア(現ポーランド/クドバ=ズドルイ)からボヘミアに侵入します。


 プロシア第5軍団を率いるのは猛将と噂されるカール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ大将。その先遣隊はボヘミア最初の町、ナーホトに入りました。


挿絵(By みてみん)

シュタインメッツ


 このシュタインメッツ将軍。功成り名を遂げた元帥時の写真(普仏戦争後)を見ると中肉中背で優しそうなお爺さん、といった感じですが、泣く子も黙る猛将です。


 1796年12月末、奇しくもあのアイゼナハ(ハノーファーが敗退したあのランゲンザルツァの戦いの前後でプロシアのマイン軍が拠点とした街)で生まれた彼は10歳でプロシア軍の士官学校に入学しました。幼いと思われるでしょうが当時の貴族としては当り前です。

 時はナポレオン戦争の真っ最中。これも偶然がなせる技ですが、あのシャルンホルストの軍改革が始まったのと時を同じくして長い軍歴をスタートさせたのです。

 1813年に少尉に任官するとナポレオンとの戦いでヨルク将軍の軍団に所属し、「ライプツィヒの戦い」や「諸国民の戦い」を戦い、勲章を得ています。

 戦後は名門の近衛部隊(王の護衛という名目のエリート部隊)勤務を続け、面白い事にモルトケと同じで一時、測量関係の幕僚にもなっています。

 第一次のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では歩兵連隊を率いて大活躍、 プロシア軍人さん憧れの的の殊勲勲章プール・ル・メリット勲章を得て新進気鋭の指揮官として順調に出世の階段を登り始めます。

 1857年、正にモルトケが参謀本部を任されたのと同じ頃、東プロシアの古都ケーニヒスベルクにあるプロシア第一師団司令官となり、ちょうど摂政から国王となったヴィルヘルム1世の戴冠式がここで行われたため、観兵式指揮官を務めます。この大役をこなした彼に新国王は赤鷲勲章(一級)を与えました。

 1863年、シュタインメッツはプロシア第2軍団の司令官となると、翌64年、軍団の指揮をフリードリヒ皇太子に引継ぎ、直後に歩兵大将に昇進しました。

 そして同年8月、第5軍団司令官となり、この部隊の指揮官として2年後の普墺戦争開戦を迎えるのでした。


 これからシュタインメッツ将軍の成功物語が始まります。この戦争での「東部ボヘミアの戦い」で、彼の名はモルトケと共に燦然と輝くのです。


 オーストリア北軍司令官ベネデック元帥は、このシュタインメッツ軍団と戦うようオーストリア第6軍団司令官ヴィルヘルム・ラミンク・フォン・リートキルフェン中将に命じます。

挿絵(By みてみん)

ラミンク

 ラミンク将軍の第6軍団は既に前日26日、敵の大軍がナーホト方面に進んで来るとの騎兵斥候の偵察報告を受け、これと戦うため深夜行軍をし、ナーホトの西、スカリッツ(現チェコ/チェスカー・スカリツェ)付近まで進出していました。第1予備騎兵師団から増援としてソルムス少将指揮の騎兵旅団1,450騎も駆け付けます。


 ラミンク将軍は敵第5軍団の進路を遮るように、ヘルトウェック少将旅団とソルムス騎兵旅団をナーホトの西に展開させ、残りの旅団は到着次第順次戦場に展開させることとしました。


 一方、シュタインメッツ将軍の第5軍団は26日夜、特別編成のウンク騎兵旅団を先頭にナーホトの町に入ります。仮眠の後、シュタインメッツは第9師団(レーヴェンフェルド中将指揮)を町の西、街道の分岐点まで前進させました。

 その先にはヴィソコフの部落を中心に南北に走る高地、ヴィソコフ高地が待ち構えています。この高原地帯は、ここまで登ればその先、ボヘミアの盆地が見渡せる重要な高原でした。


 午前7時30分頃。ヴィソコフ高地南側ソノウ(現ショノフ)で待ち受けていたオーストリア・ヘルトウィック旅団が接近するプロシア第9師団の第17旅団(オレッヒ少将指揮)に発砲、戦いの火蓋が切られました。

 ヘルトウィック旅団は奮戦してこの最初の戦いを制しますが8時30分、プロシア軍第17旅団は更に増援を得て前進したので壮絶な銃撃戦となってしまいます。


 ここはヴェンゼルスブルグ(現ヴァーツラヴィツェ)の森林で、ここで木陰から木陰へ、木と木を奪い合うような戦闘が行われました。小部隊同士のぶつかり合いはしかし、銃の性能が高いプロシア側が次第に有利となります。

 結局、プロシア第17旅団がいったんヴェンゼルスブルグの森を制し、ヘルトウィック旅団はソノウまで撤退しました。


 ここでオーストリア・ヨナック大佐旅団が到着、ヘルトウィック旅団とヨナック旅団は合同してプロシア第9師団に対しますが、尾根から森林へ撃ちかけるオーストリア兵に対し、プロシア兵は森の木の陰から正確な射撃を繰り返し、たまらず銃剣突撃で決しようとした小部隊を文字通り粉砕してしまいました。ヘルトウィック将軍もヨナック大佐も必死に防戦に努めますが、部下たちの死傷者はどんどん増えてしまいます。

 それでも午前10時前後までにはプロシアの攻撃を食い止め、更に反撃を加え、押し返すことに成功します。ちょうど戦場にラミンク軍団三番目の旅団、ローゼンツヴァイク少将旅団が到着し、敵を追ってヴェンゼルスブルグの森へ入りますが、ここで司令官ラミンク中将からの伝令がローゼンツヴァイク将軍に駆け寄り、旅団のこれ以上の追撃を禁止する命令を伝えました。


 ラミンク将軍は参謀たちとソノウまでやって来ると、ヘルトウィック旅団の負傷兵や戦死者の惨状に唖然となってしまいます。

 ラミンクは、敵が使う銃が自分たちの先込め銃より数倍優れている事を嫌と言うほど思い知る事となったのです。なんとオーストリア兵が一発撃つ間にプロシア兵は三発撃って来るのですから……。

 ローゼンツヴァイクが深追いすれば無用な損害が増える。旅団を引き留めたのは当然の判断と言えます。


 高地の中心であるヴィソコフの村にもプロシア・シュタインメッツ第5軍団の第10師団が騎兵隊を先頭に迫っています。

 午前十一時頃、プロシアのウンク騎兵旅団とオーストリアのソルムス騎兵旅団がヴィソコフ近郊の森の間で衝突し、壮絶な騎兵戦闘となります。

 当時の騎兵は銃を持たない剣と槍を武器とした部隊が多く、この時も緩やかな起伏と林の続く高原で騎乗の剣と剣による死闘が繰り広げられました。小一時間の戦いは双方引き分け状態で、勝負が付きません。高原の戦場は小部隊同士が戦い合う混沌としたものになって行きます。


挿絵(By みてみん)

ヴィソコフ高地の騎兵戦


 正午を迎え、ラミンクは自分たちが勝っているのか、負けているのか判断に迷いました。

オーストリア軍はヴィソコフ部落の左右に部隊を展開し、高地の西、クレニの部落に砲兵隊を展開します。

 この砲兵が騎兵戦闘の最中にプロシア方面へ砲撃を繰り返し、ウンク騎兵旅団はたまらず退却しました。

 しかし、騎兵部隊同士の戦いの間に接近していたプロシア第10師団(キルヒバッハ中将指揮)の部隊が騎兵と入れ替わりにヴィソコフを襲い、オーストリア軍は押され始めます。

 ラミンク将軍は最後に残った四番目の旅団、ワルドステッテン大佐指揮の旅団を投入しますが、プロシア軍の猛攻は新たなこの旅団でも防ぎ切れません。


 このプロシア第10師団所属の部隊に第20旅団第52連隊という3,000人程度の部隊がありました。この部隊を指揮したのはカール・エドゥアルド・ルイス・フォン・ブルーメンタール大佐で、彼の一歳年上の兄は第二軍参謀長レオンハルト・フォン・ブルーメンタール中将です。

 ブルーメンタール大佐はこの決定的な戦闘を陣頭で指揮して大活躍し、大佐の部隊は遂にヴィソコフの村を占領します。


 これで戦いの流れはプロシアに傾きました。

 同じ頃、高地の尾根を登り切ったプロシア第9師団を南の翼、第10師団を北翼にし たシュタインメッツは、高地の西斜面に押されたオーストリアの四個旅団を狙い猛烈なドライゼ銃の射撃を浴びせました。


 もう、ラミンク将軍にも収拾を付ける事が出来ません。オーストリア兵たちはそれでも勇敢に戦い続けました。

 あちらこちらで部隊単位による突撃が行われます。しかし、何とか高原を奪い返そうという悲壮な試みも、圧倒的威力のドライゼ銃と、冷静で正確な射撃を行うプロシア兵に粉砕され続けます。

 同じ頃、北方で行われていた「トラテナウの戦い」におけるオーストリア第10軍団の同僚たち、グリヴィック、ヴィムフェン、クネーベルの各旅団の運命と全く同じ過酷な運命が第6軍団の兵士たちを見舞いました。


 ドライゼ銃の硝煙が消えた時、ヴィソコフ高地の西側斜面には、おびただしい数のオーストリア兵が倒れ、うめき、助けを求めていました。

 ラミンクは残兵を撤収し、西へ、スカリッツの町へと撤退して行くのでした。

  

 プロシア軍の射撃能力はオーストリア人を自暴自棄にさせて、ほとんど自殺攻撃に近い銃剣突撃を行わせました。

 この恐ろしい光景は翌日も、そしてその翌日も繰り返され、一週間後には犠牲が六倍にも膨れ上がるのです。


 しかもこの光景は普墺戦争だけでなく、五年後のフランスでも、四十年後の遼東半島・旅順でも、そしてなんと半世紀後のベルギーとフランスでも見られることになります。

 全く人間の愚かさを示す光景ですが、軍事的に見れば「仕方がない」光景でもあります。

 なぜならば、こうした攻撃を行う軍隊は「それしか教わっていなかった」からで、指揮官である将軍たちは「それしか方法がなかった」からなのです……


 プロシア第5軍団はこの戦いで1,122名を失い、そしてオーストリア第6軍団は5,719名と、一個旅団に匹敵する兵員を失いました。


「ボヘミアの入り口ナーホト近郊にて、我が第二軍の先鋒は敵の軍団を粉砕す!」


 このニュースは素早く後方に送られ、電信によりベルリンに届きます。同じ頃、第1軍団はトラテナウで敗退しましたから、軍部も政府も殊更にこちらの戦いを持ち上げ、報道させました。

 人々は速報報道に歌い踊り、大興奮状態のお祭り騒ぎ。司令官のシュタインメッツ将軍はたちまち人気者に祭り上げられ、遂には「ナーホトのライオン」と渾名されるまでに至ります。

 新聞は「この戦闘の勝利には政府の指導も大いに貢献した」などとして、ビスマルクの名も一緒にもてはやし、一度として新聞からほめられたことがなかったビスマルクを苦笑させるのでした。


 しかし、戦場での「ライオン」にはまだその声は届きません。

 シュタインメッツ将軍は勝利に浮かれてもいませんでした。何故なら、これはほんの序の口、これから敵の本拠地に飛び込んで行くのです。

 その目は西を睨んでいました。翌日、彼はその西の町スカリッツで本物の英雄となるのです。



「ナーホトの戦い」に参加した主な部隊


☆プロシア第二軍

○第五軍団 戦闘員27,600名

指揮官 フォン・シュタインメッツ大将


第9師団 11,600 レーヴェンフェルド中将

  第17旅団 オレッヒ少将 6,100

  第18旅団 ホルン少将 3,100

  猟兵第5大隊1,000

  騎兵780

  砲兵580 砲24

  他

第10師団 14,100 キルヒバッハ中将

  第19旅団 ティーデマン少将 6,100

  第20旅団 ヴィッチヒ少将 6,100

  騎兵600

  砲兵580 砲24

  他

予備砲兵980 砲42

※ウンク騎兵旅団は臨時編成で記録なし(多分第9第10の2個師団の騎兵を合わせたものか?)



☆オーストリア北軍

○第6軍団 戦闘員27,100名

指揮官 ヴィルヘルム・ラミンク・フォン・リートキルヒェン中将


 ワルドステッテン大佐旅団6,900

 ヘルトウェック少将旅団6,400

 ローゼンツヴァイク少将旅団6,900

 ヨナック大佐旅団6,800

 槍騎兵4個中隊700騎

 軍団砲兵900 砲40


第1予備騎兵師団より

  ソルムス少将騎兵旅団1,450騎



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