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ザクセン突破とボヘミア緒戦

 

 1866年6月15日。普墺戦争はプロシアの「宣戦布告」によって始まります。

 この15日から17日にかけて、プロシアのエルベ軍、第一軍、第二軍合わせて25万余りの大軍が南下を始めました。


 一方のオーストリア軍とザクセン軍は当初積極的な作戦は控え、強固な要塞を中心に守備に徹することにします。

 これはオーストリア北部国境地帯が山岳地帯でありプロシア軍は装備を抱えてまずは山登りをしなくてはならなず、この山岳地帯で防御戦闘を行い暫時敵の数を減らし、ボヘミアの要塞地帯で受け止め、敵の息切れを狙う、という作戦でした。


 この背景には、山岳地帯を越えた先にあるボヘミアの平原にある要塞都市、ケーニヒグレーツ周辺はオーストリア軍が演習を行う地方であり、軍はこの地方の丘や川や林、木の一本一本に至るまでよく知っていたということがあります。知らない土地に進出して戦うより、敵を知っている土地に誘い込んで叩く。

 オーストリア・ザクセン連合軍がモルトケが予測したようにベルリンを目指すと、逆に山岳地帯を越えて敵の懐に飛び込まねばならず、その場合山岳地帯をバックにしなくてはならないので補給が困難となり、万が一後退した場合は山が障害になるという考え方が根底にありました。


 しかしこれで、敵エルベ軍と第一軍の一部が目標としたザクセン王国はほぼ見捨てられた形となってしまいます。


 このプロシア軍によるザクセン王国攻略戦は順調に進み、15日の宣戦布告でザクセンがどう動くか(ひょっとすると戦わずして降伏かも)見極めた後、ザクセンが降伏を否定したのを受け16日、エルベ軍が侵攻、早くも18日にはザクセン首都ドレスデンの街が陥落します。

 ザクセン軍の主力部隊は既に国境を越えてボヘミアに入り、オーストリア第1軍団の傘下に入りました。


 また、オーストリアのベネデック総司令官はこのエルベ軍の積極的行動を見て、プロシアが防御ではなく積極的な攻勢を仕掛けている事、このエルベ軍が攻勢の本体である事を確信し、自軍の主力を開戦前から待機していたモラヴィアのオルミュッツ要塞都市から出立させ、エルベ川上流の要衝ボヘミアのヨセフシュタット要塞(現チェコ/ヤロムニェルシ南のヨセフォフ)に向かわせ、その周辺で迎え撃つ体制を敷く事としました。


 プロシアのエルベ軍は19日、ドレスデンを越えると自軍の第一軍と合流する命令を受けて東南に進路を変えます。20日頃にはオーストリア国境をルンブルク付近で突破、そのままボヘミア盆地に入りました。


 一方、カール王子率いるプロシア第一軍は、現在のドイツとチェコ、ポーランド三国の国境が交わる地点、ゲルリッツを開戦と同時に出立、難なくオーストリア領に入り、既に敵により破壊されていた国境山岳地帯の鉄道網を修理させながらツィッタウとフリードラントの街の中間から山地越えに入りました。この周辺はナポレオン戦争の激戦地、フリードラントの古戦場でもあります。


 ここまではモルトケが描いた設計図通りの「分進」、大きな蛇(第一軍)と小さな蛇(エルベ軍)が二匹、互いに一日ほどで連絡出来るような位置関係で南へ動いて行きます。

 25日にはエルベ軍がボヘミアのガルベ市付近に進み、第一軍の先遣隊は山岳地帯を越えてボヘミア盆地の入り口にたどり着きました。


 オーストリア側はプロシアの合撃を嫌い北側に展開していた部隊をザクセン国境付近から下げ、ボヘミアの中心を流れるイーザー川付近で敵を待ちます。


 この時点で普墺戦争はほぼ10日が経過しました。ここまでオーストリアから見ての北方戦線はプロシアが積極攻勢で南下中、プロシア西部ではファルケンシュタインのプロシア西部(マイン)軍が諸侯領を攻略、ハノーファー軍を追う、といったところです。


 ヒューナーヴァッサーの戦いはオーストリア・ベーメン(ボヘミア)軍第1軍団(エデュアルド・グラーフ・クラム=グラース将軍指揮)の前哨部隊(本隊の前方に張り出して敵を警戒する小部隊)とプロシア・エルベ軍(ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト大将)の先鋒旅団との間で発生した小さな遭遇戦です。

 6月26日にボヘミア盆地北辺の寒村で発生したこの戦いは、ボヘミア戦で最初に記録されるべき戦いとして戦史に残りました。

 

 ビッテンフェルト大将はザクセンからボヘミアに侵攻すると部隊を二手に分け、第15と第16の二個師団を西側、ニーメス(現・チェコ/ミモニ)からミュンヘングレーツ(ムニホヴォ・フラジシチェ)方面へ進め、第14師団を東側、オシック(オセチュナー)からイーザー川方面へ進ませました。

 この第16師団所属の第31旅団は二個の師団の先鋒として敵の前哨部隊や騎兵を警戒しながら南下して行きます。

 この26日、指揮官のセーレル少将は歩兵6,000人と騎兵300、大砲12門で編制される前衛を率い、早朝にニーメスを出発、細い山間の街道を一路ミュンヘングレーツ目指しました。


 このニーメスから街道沿いに9キロ南東にヒューナーヴァッサー(ラルスコ村のクジヴォデイ地区)という部落があります。ここにはオーストリア第1軍団のライニンゲン少将旅団から派遣された一個中隊と少数の騎兵が前哨として駐屯していました。彼らは早朝、ニーメスから敵の一個旅団が出発したと聞き、やがてその前方警戒の騎兵が街道をやって来るのを発見します。

 オーストリアの騎兵がこれへ果敢に突撃しますが、敵の数が過ぎて短時間で退却、迫る敵の前衛にオーストリア中隊は小銃の乱射で必死に防ぎ、ひとまずこれを退却させました。

 しかし、時を置かずに敵の本隊が現れたため、オーストリア指揮官の少佐は退却を命じ、部落の南にある森へ逃げ込みました。


 敵がヒューナーヴァッサーに迫り前哨が退却した、との報は素早く(電信と思われます)オーストリア第1軍団の本営にも届き、軍団付き将官(副指揮官に当たる)ゴンドルクール少将は前哨のふがいなさ?に激怒し、直ちに部隊を部落へ戻せ、と命じます。同時に少将はライニンゲン旅団に命じて、旅団の精鋭第32猟兵大隊500名余りをヒューナーヴァッサーへ向かわせました。


 前哨中隊の少佐は仕方なく部隊をヒューナーヴァッサーに戻しますが、多勢に無勢、激しいセーレル旅団の攻撃で僅かな戦いの後、オーストリア兵たちは部落を追い出され、そのまま街道を南へ遁走してしまいました。

 この前哨部隊の潰走を聞いた猟兵大隊は、一旦ミュンヘングレーツ4キロ北西のワイスライム(ビーラー・フリーナ)部落で待機、午後2時にゴルドンクール将軍の命令で改めてヒューナヴァッサー奪還に向かいます。


 午後3時頃、猟兵たちはオーベル・グルパイの高地(ドルニー・クルパーの北側)でプロシア・セーレル旅団の前衛と衝突、これを撃退しました。

 ところが勢いに乗って敵を追った大隊は、ニーダー・グルパイ(ドルニー・クルパー)部落外れの林で敵の一個大隊と遭遇し、激しい銃撃戦となります。その銃声は、プロシア軍の残りの部隊への警報となったのです。

 後から駆け付けたプロシアの四個大隊は、オーストリア兵の突撃を止めるためにドライゼ銃を撃ちまくりました。発射速度に勝る銃は襲い掛かるオーストリア兵をなぎ倒し、攻撃を頓挫させることに成功します。

 結局、オーストリア軍は士官13名に兵士264名を失って、部隊はワイスライムに退却し、代わりに前哨として一個大隊がライニンゲン旅団から送られてニーダー・グルパイに陣を敷きました。

 プロシア・セーレル少将は激戦で弾薬などが不足し始めたので補給をするため一旦兵を引くことに決め、ヒューナーヴァッサー付近に前哨を残すとニーメス近郊に引き返して行きました。

 この日、セーレル旅団の死傷者は士官4名と兵士46名だけでした。


 続くポドルの戦いは、6月26日から翌27日中まで続いた夜の戦いです。


 戦いはプロシア第一軍(カール親王指揮)第8師団所属のボーズ少将率いる第15旅団とオーストリア第1軍団ポシャッハー少将旅団の間でポドル(現チェコ・スヴィヤニの東側部分)で起こりました。

 ちなみに現在のムニホヴォ・フラジシチェ北東2キロに「ポドリー」という村がありますがここではありません。


 この6月26日、西ではヒューナヴァッサーで少し大きな戦いがあり、またジヒロー城(シフロフ)をめぐる遭遇戦があり、プロシアの第一軍がこのジヒロー城を占領しました。

 迫り来るプロシア第一軍を迎え撃つため、オーストリア第一軍団の指揮官クラム=グラース将軍は配下になったザクセン軍を指揮するアルブレヒト親王と軍議を行い、プロシア軍を食い止めるため翌日(27日)イーザー川から部隊を北上させる決定をしました。


 この夜、オーストリア第1軍団所属の五個旅団のうち、三個とザクセン軍が翌日の北上を控えて準備を開始します。

 この中の一つ、ポシャッハー旅団は午後8時30分「スヴェヤン(スヴィヤニ)北方の高地に進め」との命令を受けました。あいにく旅団長フェルディナント・フォン・ポシャッハー将軍はグラース将軍の本営に行っており、部隊は副司令官格のベルゴー大佐が率いて隊を二縦隊に分け、野営地を出発しました。


 この縦隊がミュンヘングレーツとツルノフ(トゥルノフ)を結ぶ街道を進み、ポドルでイーザー川に架かる橋が間近に迫った時、この橋の方向から激しい銃声が聞こえ始めたのです。

 これは橋を守備していたオーストリア中隊がプロシア第15旅団の前衛に襲われた瞬間でした。


 フリードリヒ・ユリウス・ヴィルヘルム・グラーフ・フォン・ボーズ少将の第15旅団はプロシア第一軍の前衛部隊です。この日夕方、ツルノフの西郊からイーザー川の北岸沿いに西へ向かい、このポドルの重要な橋二つ(道路橋と鉄道鉄橋)を奪取すべく急進撃して来たのです。

 プロシア軍にとってポドル村の確保は二つの橋の存在のためにとても重要でした。ここを確保すればイーザー川の渡河は楽になり、南への進撃には絶対に欠かせない場所です。


 この緒戦は橋を襲ったプロシア部隊をポシャッハー旅団の先鋒が橋の守備隊と共に防戦、橋は守られますが、この戦いの最中、プロシア軍は一隊を南下させ浅瀬から川を渡り、反対側から街道を狙いに来たため、オーストリア軍は包囲されるのを回避するため一旦橋を放しました。

 しかしこの直後、プロシアの川を渡った部隊を遅れて到着したポシャッハー旅団本隊が襲いました。川沿いにあった旅館に立てこもるプロシア兵をオーストリア兵は集中攻撃し、プロシア兵は追い出されてしまいました。オーストリア兵は、橋もプロシア軍から完全に確保される前に奪い返します。

 続々と到着する増援に勢い付くオーストリア軍は、そのままプロシア軍を押し返しながらポドルの東に続くプリソーヴィック(プジーショヴィツェ)部落に進出、これでプロシア軍ボーズ旅団のポドル攻略は潰えたか、と思われました。

 

 しかし、プロシア軍もここで奮戦、この部落を挟んで膠着状態になりました。

 この最中(午後10時頃)、軍団長クラム=グラース将軍が旅団長ポシャッハー少将と連れ立って前線に到着し、これ以上部隊の進撃を中止させました。

 ところがこの頃からプロシア・ボーズ旅団も本隊の三個大隊が到着、その内一個大隊がオーストリア軍の前線を突破、ポドルの橋に迫りました。

 ここポドルとプリソーヴィックの至る所でプロシア兵とオーストリア兵の白兵戦が発生し、乱戦状態となりました。ここでもドライゼ銃は威力を発揮し、後手に回ったオーストリア兵たちは動揺し浮足立って来ました。


 この望まない激しい市街戦に追い込まれたグラース将軍は、やむを得ず後方で明日の準備をしていたアベル少将旅団とピレー少将旅団に対し「至急ポドルへ前進せよ」と命令を飛ばします。

 駆け付けることが出来たのはアベル旅団所属の一個大隊700名で、彼らはポドルの川岸に迫りますが、既にその頃(午後11時)には橋はプロシアの手に渡っていました。

 同時刻にグラース将軍は退却を命じ、兵たちを前線近くまで走らせた貨物列車に載せて一斉にポドルを後にします。


一方のプロシア軍も激しい攻防戦を敢行した後では弾薬を消耗し切っており、ボーズ少将は橋を確保しただけでそれ以上の追撃を諦めたのです。

 最後に銃声が止んだ時には真夜中の二時となっていました。


 オーストリア軍の損害は士官33名、兵士1,015名。その内捕虜は、負傷してポドルに残された兵士を中心に600人以上。

 一方のプロシア側の損害は士官12名、兵士118名という軽微なものでした。

挿絵(By みてみん)

ポドルの戦い


 この結果、クラム=グラース将軍は北上してカール王子と戦うのを諦め、部隊をイーザー川の南へと撤退させます。

 ミュンヘングレーツを橋頭堡に、イーザー川の南に軍団を置いて、川を防衛線としてカール王子とビッテンフェルド将軍のプロシア軍を待ち受けることとしたのでした。


 さて、これらの戦いは、後日ボヘミア・エルベ川流域で繰り広げられた死闘から比べれば前哨戦です。規模も精々旅団(6,000人前後)同士の戦いでした。

 この北部戦線の「嵐の前の静けさ」の様な緊迫した雰囲気の中、普墺戦争最初の大きな戦いはここボヘミアではなく、遥か南方で発生しました。プロシア軍は一切参加していない戦いです。

 

 それは新旧の対決であり因縁の戦いでもある、新生国家イタリアと由緒あるハプスブルグ家のオーストリアとの戦いでした。



挿絵(By みてみん)

ジヒローの野営(野営するプロシア軍)

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