第一話「壊れた家」
土曜日。
多くの人は仕事が休みで、家庭を持つものは”家族団欒”で過ごすことが多いはずだ。
家族で出かけるもの、リビングで共に過ごすものなどー。
虹夏の家では午後になると、母親が急に掃除を始めた。
もう十分きれいなのに、何度も何度もテーブルを拭きなおした。
シンクに皿を置く音が少し大きいだけで、母は振り返って睨んだ。
「静かにして」
怒っている声ではない。怯えている声だった。
父が帰ってくる時間が近づくと、家の空気が薄くなる。
テレビは消され、虹夏は自室へ促される。
誰も相談したわけではないのに、毎週同じ動きをする。
玄関のドアが開く音だけで、父の機嫌が読める。
それは天気みたいなもので、ドアが開くまで分からない。
今日はまだマシな方だった。
マシ、という言葉に意味があるのかは分からないけど、少なくとも食器は飛んでいない。
母は台所で、できるだけ音を立てないように鍋を洗っていた。
機嫌を壊さないための音。機嫌を測るための音。
虹夏は自室のドアを閉めるが、それでは安心にはならない。
むしろ、音がよく聞こえる。
父の足音。
母の小さなため息。
言い争いの前の、あの“間”。
その夜、父の声がいつもより低かった。
怒鳴り声ではないのに、怖い声。
母が何かを言い返した瞬間、空気が変わる。
次の瞬間の音は、虹夏の中で“記録される音”になった。
身体が勝手に固まるやつ。
布団の中で、虹夏は息を止める。
「まただ」
そう思うのに、何が“また”なのか説明できない。
毎回少しずつ違うのに、全部同じに感じる。
気づいたとき、虹夏は台所に立っていた。
夜中だったのか、時間の感覚がない。
頭の中がぼんやりしている。
そこにあった料理に使うものを、ただ手に取った。
理由はなかった。
ただ、何かが“終わる感じ”を探していた。
腕に当ててみる。
冷たい。
痛みは来ない。
その代わりに、頭の中の音が一瞬だけ遠くなる。
あれ、と思う。
さっきまで部屋中にあったはずの気配が、少し薄くなる。
虹夏はしばらく動かなかった。
ただそこに立っているだけで、世界が少し静かになる気がした。
翌日。
学校はいつも通りだった。
誰も昨日のことを知らない顔で笑っている。
虹夏は自分の腕を見ないようにして一日を終える。
でも夜になると、また家の音が戻ってくる。
同じ足音。
同じ空気。
同じ「逃げ場のなさ」。
数日後。
虹夏はまた、あの場所に立っていた。
今度は“静かにしたい”という気持ちが、はっきりしていた。
昨日よりも、少しだけ現実感がある。
手が震えているのに、それを止める理由が見つからない。
そして、浅く触れた。
痛みは強くない。
むしろ“感覚がそこに戻ってくる”感じがした。
虹夏はそれを見て、ぼんやり思う。
ああ、これは「生きてる感じ」なのかもしれない、と。
同時に、どこかで小さな声がする。
——これ、やめたほうがいい気がする。
でもその声は、あまりに小さくて、家の音にかき消された。
その夜、父はまた怒鳴っていた。
母は泣いていた。
虹夏は自分の部屋で、ただ膝を抱えている。
さっきの“静けさ”を、無意識に思い出してしまう。
そして気づく。
あれは解決じゃない。
ただ、少しだけ音が遠くなるだけだ。
でも今の自分には、それでも十分だった。




