六 まさか、さかさま 3
四階は昼間よりも、ずっと不気味だった。
ぴちょん、ぴちょん、ずずっ、ずずっ、という音が静かに支配している。
手洗い場の前を横切ったとき、水を吸い込む排水溝から声が消えてきた。
やっぱりわたしは驚かなかった。感覚が伸びきったゴムみたいに、使い物にならなくなってる。
『おもしろいだろう?』
「ちっとも」
『おもしろいだろう?』
「おもしろくない」
『おもしろいだろう?』
「おもしろくなんかない! 何度言わせる気なの。もう聞かないで! 耳にタコができるわよっ」
ずるり、と粘着質な感触が首にした。頬を冷たいものが撫でる。気持ち悪くて腕をふりまわした。
なにかが肩からすべり落ちていく。足元を見ると、タコが二匹うねっていた。わたしは悲鳴をあげたけど、もう聞こえなかった。
足元から振動が伝わってくる。その源は手洗い場だった。蛇口から水がものすごい勢いで出ている。排水溝の流れが悪いせいで、あっという間に廊下にあふれだしてくる。
不思議なことに、水は階段より下へは流れていかない。まるで透明の板が張られているかのように、四階だけにたまっていく。
これって、もしかしなくとも危ない?
わたしは防火扉へ急いだ。水は足首のあたりまで来ている。大丈夫、まだ間に合う。
取っ手をつかんで押してみる。びくともしない。鍵がかかってるの!?
急にお尻が冷たくなった。棒になった足だとよくわからなかったけど、この水とても冷たい。それに、もうここまで水が来てる。
もう一度、防火扉にすがりつく。そうだ、押してダメなら、引いてみればいいんだ。強く引くと、ちょっと動いた。でも、押し寄せる水の力でまた閉まってしまった。もうどうやっても無理だった。
静かに四階が水に埋まろうとしている。
足が水に取られて、全身が水に浸かる。こんなところで溺れ死ぬなんてイヤだ。つかむものを探してもがいていた手に、なにかが当たった。そのまま握りしめて立ち上がる。
トイレの詰まりを直す、カポカポだった。名前は知らない。なんでこんなところにあるの? でもちょうどいい。
泳ぐようにして手洗い場に急ぐ。耳タコがものすごく早さで水のなかを移動している。
いちおう蛇口をまわしてみたけど固くて無理だ。止まらないなら、流すしかない。
排水溝にカポカポを当てて、思い切り動かす。音は聞こえないから、感触でしかわからない。なかなか頑固だ。すぐに腕が疲れたけど、休んでしまったら永遠に休むことになってしまう。
『おもしろいだろう?』
聞こえないはずの耳に、あの言葉が飛び込んでくる。本当に、本当にしつこい!
「つまらない! あんたたちが何しても、ちっともおもしろくなんかない! めちゃくちゃつまらないんだから!」
どうしたらわかってくれるの? 自分たちのやってることが、つまらないってこと。
おかげで怖い思いをたくさんしたし、足はこんなになっちゃうし、耳までなくしちゃうし。信じられない。でも……。
「でも、本当でもかまわない」
あいた口に水が入る。手元はもう水のせいで見えない。無駄かもしれなくても、わたしは排水溝のつまりを直そうとしている。涙が出てくる。このまま死ぬのはイヤ。蒼くんを見つけられないまま、死ぬなんて。
「全部、本当でもいい。だから蒼くんを返して! 蒼くんはうそつきなんかじゃないんだからっ」
ぐぽっ、と奇妙な感触がした。その衝撃で握っていたカポカポを離してしまう。慌てて伸ばした手が、小さなものをつかまえた。
それを確かめる間もなかった。いきなり水が逆巻いて、わたしに向かってきた。すさまじい音を立てて、排水溝に吸い込まれていく。わたしも吸い込まれそうになって、手洗い場のふちにしがみつく。
でも水の勢いのほうが強い。手が、すべった。そのまま身体は水にのまれる。
だけど、腕を強くつかまれた。
引き戻されたわたしは、無我夢中でしがみついた。誰かなんて、見なくてもわかった。




