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二九、食後の酒

 チェット・ベーカーのイット・クッド・ハプン・トゥ・ユーが流れる店内で、杉岡はシェイカーを振っていた。随分とカクテルを作ることに慣れてきたが、基本はしっかりとやっておいたほうが良い。これは碑に言われた訳ではなく、自分の中での考えであった。

 経験が長い碑であれば、今までやってきた基礎が身体に沁みついているので、日々の営業で振ることで問題はないのであろうが、まだまだ経験の浅い自分の自信になるものが杉岡は欲しかった。

 だからこそ客がいない時間にシェイカーのみならず、他の技術においても繰り返し身体に馴染ませるという行為をしなければならないと考えていた。

 そろそろ二一時を回ろうという頃に、一人の男が店内へと入り込んできた。決して若くはない、中年というイメージである。

「いらっしゃいませ」

 ちょうど碑はカウンターの中に入ったところで、客を認識してカウンターを指した。

 男は入口に近い席に座った。そこに杉岡がおしぼりを出した。

 そのおしぼりで手を拭きながら、男は何を注文しようかと考えているが、なかなか浮かんでこないようであった。

「いかがいたしましょう」

 杉岡はもしも悩んでいるようであれば、相談にのれるのではないかと声をかけた。

「ちょっと食事をしてきたものですから、何にしようかと……」

 男は杉岡に答えると、バックバーを見渡した。

「食事ですか、何を召し上がってきたのですか」

「知り合いの紹介で、居酒屋に行ってきたのですが、刺身のうまい店だったのですよ」

「そうでしたか、それならばさっぱりとしたものでも、濃厚な物でも合うと思いますが、どのような物がよろしいですか」

 杉岡がやり取りしている姿を見て、碑は任せてみようと少し離れた場所から見守った。

「そうだな、赤身だけど、ほどよく脂がのっていたものを食べてきたので……」

 男は思い出すように呟いた。杉岡は頭の中で閃いた酒を提案した。

「それならばシェリーはいかがでしょうか」

「シェリー、確かにさっぱりはしているけれど……」

 男は少し腑に落ちないような表情を見せた。男の頭には、シェリーは食前酒というイメージがあるのかもしれない。杉岡はそう思ったのか

「シェリーと言っても、ドライ・シェリーではなく、オロロソあたりはいかがでしょう」

 碑はそんな提案をする弟子の成長を見て、心の中で微笑んだ。

「オロロソですか……」

 男はオロロソが何だかわかっていないような返答であった。

「シェリーも色々と種類があるのですが、オロロソは肉の脂などにも合うものですから、脂が乗っていた赤身の後でも合うと思いますよ」

 杉岡は笑顔を見せた。その笑顔に安心してか

「じゃあとりあえずそれで」

 と男は任せた。

 杉岡はシェリー・グラスにエミリオ・ルスタウのオロロソを注ぎ、客の前に差し出した。

「シェリーって、透明な物じゃないのですか」

 その返答に、ドライ・シェリーのイメージでやはり食前酒として考えていたのかもしれないと杉岡は確信を持った。

「そうですね、オロロソやアモンテリャードなどはこのように濃い色をしているのですよ、透明な物は、フィノ、マンサリージャなどですね」

「そうなのか。まあ良くわからないけれど」

 男は杉岡の説明を聞き流すようにして、グラスを口元へと運んだ。そして初体験ということがわかるような表情を見せた。

「何だ、これ、今までのシェリーと違って、濃厚な感じもある」

「はい、これだけの濃さもあるし、脂との相性も良いので、食中、食後にもいいと思います」

 杉岡は自信を持って答えた。

「そうだね。確かに肉料理とかに合わせてみたい気もするよ」

 男は納得するように同調した。

「シェリーはスペインの原産ですから、スペイン料理などに行けば色々な組み合わせができるとおもいますよ」

 杉岡は自らの提案に客が喜ぶ姿を見て、気持ちの共有ができるバーテンダーという仕事を改めて素敵だと思った。

 再び扉が開き、今度は三〇代と見える男女が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 碑は奥の席を指した。二人は案内されるまま、奥の席へと座った。

 碑は二人におしぼりを出した。受け取ると、二人は店内を何となく見渡した。

「フレンチの店の人が言ったままの雰囲気だね」

「そうね。バーなんて初めてだから緊張しちゃう」

 男の問いかけに答えた女は、更にバックバーを見て圧倒されているようであった。

「何を注文したらいいかな」

 女はあまり酒がわからないのか、男に助けを求めた。男もバックバーを見て

「俺もバーってあまり来ないからわからないんだけど、ウイスキーもあるみたいだ」

 どこかで見たことのあるボトルが目についたのか、男はとりあえず答えた。

「食事をされてきたみたいですね」

 碑が軽く声をかけた。

「今日は結婚記念日なんです、一年目の……。

 それで思い切ってフレンチに行ったんです。

 そしてここのお店の事を聞いたので、行ってみようということになって」

 女は嬉しそうに、自分たちの記念日を踏まえて答えた。自分の喜びを誰かに聞いてもらいたい気持ちだったようである。男もそう言ってもらえて笑みを浮かべた。

「お酒は強いほうですか」

「それなりには飲みます」

「フレンチはどのようなフレンチでした」

「どんなって」

 男は少し考えるように、首をひねった。碑は答えやすいように二人に問いかけた。

「あっさりした物でしたか、それともこってり」

「古典的なフレンチって食べてみたいというので、魚はバターたっぷりめで、肉もソースがこってりしている物でした」

 女が思いだすように答えた。

「そちらで食後酒はお召し上がりになりましたか」

「いえ、コーヒーを」

 今度は男が答えた。

「もしも強いお酒が大丈夫であれば、ブランデーなどはいかがでしょう。

 食後酒として良いと思いますよ」

 碑は笑顔で提案した。

「私ブランデーって飲んだことない」

「俺もあまり記憶にないかも……」

 二人はお互いを見合って答えた。

 碑はバックバーから、ボトルを取り出した。

「もしもよろしければ、こちらなどはいかがでしょう。

 ダニエル・ブージュのXOと、デュポンのオルタージュです。

 ダニエル・ブージュはコニャクで、デュポンはカルバドスです」

「コニャックは聞いたことがありますが、カルバドスとは」

 男が不思議そうな表情で訪ねてきた。

「コニャックはブドウが原料ですが、カルバドスはリンゴが原料です」

「リンゴのお酒なのですか」

 女は興味津々という表情で言った。碑は笑顔で答えた。

「はい、リンゴのブランデーです」

「私それを飲みたいです」

 女は満面の笑みを浮かべて注文をした。男はそれに釣られるように

「じゃあ私はコニャックを」

 と碑に答えた。

「かしこまりました」

 碑はブランデー・グラスとチェイサー用のグラスを準備し、液体を注いだ。

 差し出されたグラスを持ち、二人は香りを嗅いだ。

「思っているよりも柔らかい気がする」

「そうだね、アルコールが高いからもっとツンとするかと思った」

「そこまでアルコール臭はしないと思います。グラスを手で包み込むように持ってもらい、手の平の温度で少しずつ温めていくと、もっと香りが立つようになりますよ」

 二人の感想を受けて、碑は手でブランデー・グラスを持つような形を見せながら説明をした。

 二人は、言われたようにグラスを持ち替え、液体を口腔へと流し込んだ。

「思っているよりも、香りが凄い。本当にリンゴみたい」

「こっちはブドウの感じもするけれど、濃厚だ」

 二人は楽しそうに感想を述べて、お互いのグラスを交換し、再び感想を述べあった。

「アルコール度数は強いですが、最後の締めには、このような酒も楽しんでもらえると思います」

 碑は二人の笑顔に触発されるように頬を緩めて言った。


 客たちが帰り、閉店が近くなった頃に、神代が店内へと入り込んできた。

「珍しいですね、こんなに遅い時間に」

 カウンターに座っていた碑が立ち上がって言った。

 杉岡はその間におしぼりを用意して、定位置に座った神代へと出した。

「今日は接待だったので、こんなに遅くなっちゃったのだ」

 神代は疲れているのか、深いため息を漏らした。

「そうだったのですね」

 碑はカウンターの中へ入ると、同調するように返した。

「とりあえず落ち着ける酒がいいな」

 神代はそう言うとバックバーを覗き込んだ。碑と杉岡は邪魔にならないように端へと移動した。

「セント・マグディラン」

 神代はウイスキーの銘柄を呟いた。

 碑はすぐさまバックバーから一本のウイスキーを手に取った。

「今、うちにあるのはウイスキー・エクスチェンジのものですが、よろしいですか」

 目の前に置かれた酒瓶を一目してから、神代は頷いた。

 ショット・グラスに注がれたウイスキーが、神代の前に差し出された。

 神代はそれを飲むと、思わず吐息を漏らした。それは碑たちにもわかるくらいに、ウイスキーの香気を含んでいた。

「今日の最後の酒が、こんな酒で良かった」

 神代は、ホームに帰ってきた安堵感から、落ち着いた表情を見せた。


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