二八、人間と機械
鬼才、レニー・トリスターノのピアノの音が店内に響いていた。碑の気分なのか、少し重たく感じられる空気が、店内を占めていた。
杉岡は、ボトルを一本一本確認しながら、変わらずボトルの拭き上げをしていた。ちょこちょこと入れ替わる瓶がどのような商品なのか、自らの知識を上塗りさせていく。これは本では学べない実践の勉強である。しかも今、存在しない、かもしれないようなレアなボトルが置いてあるバックバーは、他とは比べ物にならないほど勉強になると杉岡は思っていた。
碑は珍しく事務所へと入り、パソコンをいじっていた。
そんな碑のいない店内へ、一人の白髪の客が入り込んできた。
「いらっしゃいませ」
杉岡はカウンターの奥の方へと座った客におしぼりを出した。
「ここってマスターが変わったの」
男はカウンターの中に立つ杉岡を見て、表情を変えずに言った。
「いえ、マスターは今事務所にいるので呼んできます」
杉岡が男に言ってカウンターを出ようとした時に、碑は事務所から出てきた。客が来た事はわかっていたようである。椅子へと座っている客を見て、碑は思わず声を上げた。
「三上さんじゃないですか、懐かしいですね」
三上と呼ばれた男は碑の顔を見ると、椅子から立ち上がり、握手を求めた。
碑はその手をがっちりと握り、頭を下げた。
「あれ、今は故郷に帰ったのではなかったですか」
碑は記憶を思い出すように問いかけた。三上は頷き
「そう、たまたま後輩が表彰を受けるというので、昨日都内でパーティーがあったからね。出席して東京に泊ったのだ。
今日はこれから帰るのだけれども、その前に久しぶりに顔を出す時間があったから」
「そうでしたか、わざわざ来てくれて嬉しいですよ」
碑はそういうとカウンターの中へと入った。
三上は椅子に座り、懐かしい光景を見つめた。
「マスターがいなかったから、店の経営が変わったのかと思ったよ」
「いえ、まだ現役でやっていますよ。彼は勉強に来ている杉岡です」
杉岡は碑に紹介されて頭を下げた。三上は軽く会釈をすると碑を見て
「とりあえず、ギムレットをもらおうかな」
と笑顔を見せた。碑は懐かしさに頬を緩めて答えた。
「かしこまりました」
碑はエギュベル・ジンとモナンのライム・ジュースを取り出した。杉岡が出したカクテル・グラスを冷やし、その間にシェイカーに氷を入れ、水ですすいだ。
材料が入れられ、シェイクしたカクテルが、三上の前に出されたグラスへと注がれた。
「お待たせしました」
碑が差し出したグラスを綺麗に持ち、三上はギムレットを口腔へと流した。唇を噛み締めてから、その口元は少しだけ緩んだようであった。
「やっぱりマスターのギムレットはうまいな」
三上が口の中にため込んだ空気を、嬉しそうに吐き出して言った。
「ありがとうございます」
碑はその言葉に対して頭を下げた。
「昔、マスターに振り方の技術の話を聞いて、何回か自分で挑戦したけれど、やっぱりプロみたいにはいかなかったなぁ。
結局カクテルはバーに行かなきゃ、って思ったのはその時だったかな」
「そうですね。理論を知っていても、それを実践するのは難しいですからね。
スポーツなんかで理論を知っていても、それを身体で体現するのは難しいと聞きます。
だからこそトレーナーとかが必要になってくるのでしょうが」
「そう一流の技術は、教わったりしただけで身につかないのだよね。
技術者も最後はその人の感覚が一番すごかったりするからね」
「新幹線の先なんかも、機械ではなく最後は人がやるなんて話を耳にしたことがありますから、一流の技術は本当にその人の才能でしかできないのでしょうね」
「そう、だから外食も機械である程度できるけれども、一流にはならないのだよね。
普通というもの、もしくはそこそこにしか……」
そんな二人の会話を聞いて、杉岡はそんなものなのかと、不思議に思い、思わず言葉を出した。
「機械でもできないのですか」
「ある分野ではコンピューターの方が上だということはあるよ。
計算なんかは人間が遥に勝てない領域にいっているからね。
でも技術はそうじゃないのだ」
三上は自らの経験を噛み締めるように言った。
「そんなものですか」
何とも納得できない表情で杉岡は頷いた。
「研磨の機械なんかでも、それなりの精度を出すためには、人間が機械を微調整しないとそこには行きつかないし、超一流の職人は、その機械よりも遥に高い制度を出す人がいるみたいだからね。
まあ超一流だから、誰でもできるという訳ではないのだろうけど……」
三上はそう言うとカクテル・グラスを口元へと運んだ。
「そうなのですね」
そこまで言われ、杉岡は何となく納得した。
「人が介在しなければならない分野と、人が要らない分野……
これからはもっと線引きされるようになるのかもしれないけれどね」
碑は三上の言葉に納得するように頷いた。
「バーテンダーなんてまさに人間がやらないとね。
対人だからこそ、成り立つ商売だと思うよ」
三上は碑の顔を見て、笑顔を見せた。碑はそれに対して軽く頭を下げた。
「そういえば、うちの近くに鮨屋ができたのだけれど、それなり過ぎてね」
「それなりですか」
碑は三上の言葉に返した。
「どこかの学校で勉強して……ほら数か月で独立っていうやつみたいなのだけれど……。
本当にそれなりなのだよね。本人は満足してやっているみたいなのだけれども」
「聞いたことがあります。でもしっかり勉強しているから、どこに出しても平気だとか報道でやっていた気がしましたけれど」
杉岡はその時の映像を思い出し、三上に返した。
「平気といえば平気なのだけれども、それって試験に合格しただけで、経験値がないから、それなりにしかならないのだよね。司法試験も合格しただけで、それをどう活かせるかまだ分からない人に依頼したりはしないからね。
もちろん本人もこれからだからいいのだけれど、時間にしか出せないものってあるのだよ」
「それは三上さんの世界でも同じですよね」
碑が合いの手を入れた。三上は頷いて、ギムレットを飲み干した。
「まあ私はもう引退したけれども、理屈がわかっていても若い技術者にはできないことがあるのだよね。
経験値が高いと、理屈を超えた感覚があってね。それって理屈じゃないから教えることができないのだよね。
やっぱりやり込むことでしか行きつかないのだよね」
三上に言われて碑は記憶を辿った。
「昔もそういう話をしましたね。
何だかわからないけれど、ちょっといじったらできちゃったみたいな」
「そう、マスターも何だかわからないけれど、最高の物ができちゃう時があるって」
「ありましたね」
二人は回顧するように笑顔を合わせた。
「さて、昔といえば、まだあるのかなぁ。
あの酒、え~と、名前が出てこないのだよな」
三上はしばらく頭の中の引き出しの中をあちこち探しはじめた。
碑と杉岡は、静かに言葉を待った。
「そうだ、ノースポートだ。まだある」
やっと出てきた三上の言葉に、碑は首を縦に振った。
「うちは客が少ない店ですから、残っていますよ」
そういうとバックバーからUD社のレア・モルトのノースポートを取り出し、三上の前に置いた。三上はボトルを目にすると満面の笑みを浮かべた。
「そうそう、これだよ。ノースポート……これを飲みたかったのだ」
「こちらでよろしいですか」
「もちろん」
碑はショット・グラスを出し、ノースポートを注ぎ、三上の前に出した。杉岡はすぐにチェイサーを準備した。
三上はグラスを手にすると、眼を閉じ、香りをじっくりと嗅いだ。香りの記憶はもうないが、いかにもという表情を見せ、グラスに口をつけた。そして口の中いっぱいにノースポートを広げた。
「これだよ、これ」
三上は興奮したように言ってから、自分で納得したのか頷いた。
「家のそばのバーでも、カクテルはこれから頑張ってもらえればいいが、無くなっている酒は飲めないからね。
やっぱり寄って良かったよ」
三上の言葉に碑は笑みを浮かべ、静かに頷いて答えた。
じっくりとノースポートを味わった三上は、また機会があったら来るという言葉を残して帰って行った。
碑はマカヌードのハンプトンコートを咥え、ノースポートを口にした。あと何回、この酒を飲む機会があるのだろうか……それは自分にも三上にも言えることであった。中身が無くなってしまえば、もう会うことはないかもしれない。閉鎖してしまった蒸留所の酒は、もう二度と生まれてくることはないのだから……。
「お疲れさま、でした」
杉岡は着替えを済ませ事務所から出てきた。その姿を確認した碑は、グラスをそっと杉岡に差し出した。碑の前に置かれたノースポートを確認してから
「いいのですか」
と言った杉岡の言葉に碑は頷いた。
「いただきます」
杉岡はグラスに口をつけ、それを出来る限り記憶に留められるように口の中へと広げた。
「このウイスキーも、いつかは無くなってしまうのですね」
杉岡はグラスを碑へと返した。
「そう、無くなってしまうからこそ、食べ物飲み物の記憶は、鮮明で、強烈なのかもしれないな……」
碑の言葉に杉岡は頷き、記憶にある酒を楽しんだ三上の笑顔を思い出した。




