二七、口コミに踊らされる人たち
誰もいない店内に、カウント・ベーシーのダンス・セッションが流れていた。
杉岡はカウンターの端に立ったまま福西英三の著書であるリキュールの本を読んでいた。
実践練習だけではなく、知識もしっかりと覚えていかなければならない。そんな思いであった。
碑はキャンドルライトを吹かしながら、小説を読んでいた。
変わらずのんびりとしたスタートの店内に、二人の客が入ってきたのは、二一時を回った頃であった。
その二人が注文したスクリュードライバーとモスコミュールを提供した時に、店の扉が開いた。
夏木であった。
「いらっしゃいませ」
杉岡は夏木におしぼりを出した。
「イチローズのホワイトを水割りでください」
「かしこまりました」
杉岡が答える。碑はカウンターの中で、レコードをひっくり返すと、その位置に留まった。杉岡は材料を用意し、水割りを作って夏木へと提供した。
夏木は水割りを口に含むと、落ち着いた表情を見せた。杉岡はそれを見て胸を撫でおろした。それは自分の作った酒をどのように評価されるか気になっていたからである。
「そういえば、今日行った店、何か酷かったなぁ」
「そうだな、口コミでは高評価だったけど、期待外れだったなぁ」
男たちはそんな話をしながらロング・カクテルに口をつけた。その話はなかなか終わらず、そのうちそんな憂さを晴らすために、キャバクラにでも行こうなどと言って店を後にした。
「マスター、ジントニックをお願いできますか」
「はい」
碑は夏木一人になった店の作業台で、ジントニックを作り、それを差し出した。
「さっきの人たちの話ですが」
グラスに手を付けることなく、夏木はしゃべりはじめた。
「何だ、口コミの話か」
「はい、うちの店の口コミに、私の悪いことが書かれて」
夏木はジントニックを口にして、苦々しい表情を見せた。碑は表情を変えずに言葉を出した。
「そうか、それで思い当たる節はあるのか」
「いえ、特に何かをしたということはないのですが……。
まだ味などの評価ならば改善するように努力すればいいのですが、態度とか言われると何とも、しかも思い当たる節がなくて……」
碑はミニシガーのキャンドルライトを手にして、火を点けた。
「態度か、俺もこうやって葉巻を吸いながらやっていることを書かれていたなんて、客に聞いたことがあったな。
もっとも俺は口コミとか見ることがないから、別にどうでもいいと思っているけれどな」
碑は涼しい表情で答えた。
「気にならないのですか」
夏木の言葉に、碑は煙を宙に浮かべてから首を縦に振った。
「気にならないと言えば、完全にそうとは言えないが、あまり気には留めないな」
碑はそういうと作業台にジントニックの材料を出し、そのままカウンターの外に出た。杉岡は何となく察したのか、カクテルを作り、夏木の横に座った碑に差し出した。
「口コミって、誰が書いているかわからないのだよな」
「はい」
「その人間がどういう人間かわからずに、それをさも世間の評価だと思って見る人が多いのかもしれないが、どうしようもない奴なんかが書いていてもそれを信じるって、おかしな話だろう。
そんな客ならば俺は来なくてもいいと思っているけれどな」
「そんなものですか」
夏木は自分と碑の考え方の差に、驚くような表情を見せた。
碑は表情を変えずにジントニックを飲んだ。
「そんなもんだろう。
味だとかなんとかだとしても、その人間がどのような価値基準を持っているかわからずに、それを鵜呑みにできるとしたら、それこそ脳みそが動いていないと自ら言っているようなものさ。
知り合い何かだと、この人はこういう物に対して、どのように考えているか、味にしてもどういう物が好みか、などがわからない限り、正当な評価にはならない。逆にわかっているのであれば、この人の紹介ならば信頼が置けると考えることができる。
口コミをその辺の落書きとは良く言った物だがな……」
そこまで言うと碑は再びジントニックを口にした。
「でも、それで客が来なくなったら、どうするのですか」
不安そうな表情を浮かべて夏木は問いかけた。
「その程度で来なくなるようなら、俺が悪いってことだろう。
自分のやり方が通用しなくなったら、身を引けばいいだけだろう」
碑はそういうとジントニックを飲んだ。夏木もそれにならった。
「マスターはそうなったら店を辞めるという事ですか」
「時流に合わないで、客が全く来なくなったのであれば、そうなるだろうな」
杉岡の言葉に、碑はあっさりと答え、口を潤してから言葉を続けた。
「人が評価するよりも、まずは自分の評価。
自らが足を運んで試さない限り、何もわかることはないさ」
「そうですね。あとはうちのオーナーが決めることですよね」
夏木は何となく納得したのか、そういうと口を強く閉じた。
「そう、結論はネットの上じゃない。
その店で夏木がどのような評価を受けているかは、オーナーが判断すること。
その上で直すべき事を指摘されたらそうすればいい。
それが納得できないのであれば、自分で独立すればいい」
そこまで言った時に、神代が店内へと入ってきた。
「何だ、マスター飲んでいるのか」
「いらっしゃいませ、そうですね。何となく飲み始めてしまいました」
「夏木までいるとは思わなかったけれどな」
碑の隣に座る存在を確認して、神代はいつもの定位置へ着くと、腕時計を確認した。
「まあちょっと早いけれど、いいの、じゃないか。
それよりも教えてもらった鮨屋に行ってきたけれど、良かったよ」
杉岡から出されたおしぼりで手を拭きながら神代は碑に言った。
「そうでしたか、それならば良かったです」
「まあマスターの紹介で変な店にあった事はないからな。
信頼が置けない人間の紹介ならば行かなかったかもしれないが」
そこまで言うと神代は、杉岡にサイドカーを注文した。
カミュVSOP、エギュベルのホワイト・キュラソー、レモン・ジュースをシェイカーへと入れ、杉岡はカクテルを作った。そのカクテルを神代は一口飲んだ。
「あの、マスターの紹介ならば行くとおっしゃっていましたが、その店の口コミなんかは見られたのですか」
思わず神代に夏木が問いかけた。
「見る訳ないだろう。信用できるかどうかわからない評価なんてな……。
しかもそういう評価ばかり気にして、味のわからない奴らに合わせて、ここ数年だか、十数年だかで外食の味は圧倒的に濃いだけの物が増えてきたからな。
変な奴らに迎合すると、まともな物は衰退していくのだよ」
神代はそこまで言うと、サイドカーを口にした。
「今の外食の味って、確かに濃いような気がします」
思わず杉岡が口を挟んだ。
「そう感じるのか」
「はい、自炊することが多いのと、酒の味がわからなくならないように、できる限り気を使っているものですから」
杉岡の答えに神代のみならず、夏木も感心した。
「どうでもいい物に踊らされる必要は、ないってことか……」
碑は呟くと、ジントニックを飲み干した。夏木もそんな話を聞いていて、何か吹っ切れたのか、グラスを空にした。
「マスター、何か作ってもらいたいのですが」
「ああ、何がいい」
夏木は一瞬考えたが、まとまらなかったのか思わず真剣な眼差しで言葉を出した。
「マスターは嫌がるかもしれませんが、今私に勧めたいカクテルがあれば……」
碑は軽く頷くと、椅子から立ち上がった。
杉岡はカクテル・グラスをすぐに準備した。
カウンターに入った碑は、カミュVSOPと、ウェルッシュベルジェールのミント・リキュールを作業台の前に出した。
シェイカーの中へ材料が入れられ、碑の独特なシェイクを経たカクテルが、夏木の前へと差し出された。
「スティンガーですか」
夏木は碑に言われる前にカクテル名を言った。
「その通り」
碑はそれだけを言うと、葉巻を持ち、カウンターを出た。
夏木は一口、カクテルを口につけた。
「マスターのスティンガーはどこで飲むよりも、ドライですね」
「まあ使っている材料も違うだろうからな」
碑は宙へ煙を吐き出した。
「今の私の心には刺さります。
落書きなんて気にしないで、自分らしくやろうと思います」
夏木の眼には、決意がみなぎっているようであった。
碑はその姿を見て、笑みを浮かべ、再び葉巻を口にした。
「今のネット社会って、ある側面を見たら怖いものですね」
片づけを終えた杉岡が、碑に声をかけた。
「まあな、踊るのは音楽に乗りながら、だけで十分だよ」
スピーカーから流れてくるカウント・ベーシーを耳にしながら碑は答えた。
「みんな何で乗せられてしまうのですかね。
自分の判断が一番自分に取って大切なはずなのに……」
杉岡は納得できない表情を浮かべた。
「楽だからだろう」
碑はそう言うと、煙を宙へと舞わせた。
「受動的に生きるほうが確かに楽ですけれど、それによって不利益を被ることもあるのに……」
杉岡は悲しそうな表情を見せた。碑は思わず鼻を鳴らした。
「それほど考えることを放棄しているって事だろう」
杉岡は自分がそうならないように、できる限り考える動物でありたいと、自らを戒めた。