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三日目

 次の日の朝、薄い雨が降っていること以外は何の代わり映えもしない朝だった。登校しても何も変らない。先に来ていた日野由衣に尋ねてみる。


「何か変ったことはあった?」


「いいえ。どうせ、遠巻きにいびる以外何もできない人たちです」


 『いいえ』、の後は小声で由衣。


「それならいいが」


 手間が無くなる。樹も席に着いた。それにしても。


『退屈だ』

 女子の暗い本性を知ってしまった今、樹は臭いを十分に楽しめない状況にいた。それはひどく味気ない感覚で、樹に取っては目の前をふさがれたようなものなのだ。そして今の樹の精神状態では教室に充満するのは悪意の臭いに感じられて、それがどうにも落ち着かない。


 さらに感じるのは視線。突き刺さるような視線。樹はそれに我慢できない。そいつらの所に出向いて『いい写真はまだですか?』と言ってやりたくなる。けれど愛乃の立場を思い出し、思いとどまる。愛乃はおそらくそのグループの側にいる。何もできない状況。それがもどかしい。目を閉じ、雨に濡れた女子の臭いの没頭するわけにも行かない。昨日のように何かされているわけでもないので吠えるわけにも。しかたなく樹は授業の予習でもすることにした。彼にはめずらしいことである。けれども授業の予習なんて頭に入ってこなかった。


 樹の心を占めるのは何でこんな目にあわなくちゃいけない? ということである。


 答えは意外とあっさり出た。前の席に座る由衣が自分の姿を見ていたからだ。そうしてそれを写真に撮った人間。まずはともかく写真に撮った人間だ。樹は怒りの矛先をその見ず知らずの人間に向けることで何とか落ち着きを取り戻した。


 ――そうして樹は思う。日野由衣にもいずれ尋ねる日が来るだろう、と。どうして自分を見つめていたのか。そうして樹はその時が来るのをなんだか恐ろしく思えた。あの写真を撮られてから、さまざまな物事がなんだかものすごい速度で進行している気がする。


 けれど実際には何事もなく昼休みになった。今日からは一人で昼食だ。雨は朝からどんどん強くなってきたので樹は外で食事をするのを諦め屋上前の踊り場で座り込んでパンを食べる。


 誰も居ない。何も起きない。久しぶりの休息を樹は存外に楽しんでいた。臭いすらここには欠けている。雨が扉を叩く音だけを友にして樹は昼食を摂った。けれど、思ったより食欲が無く、パンを一つの残してしまった。しかたないと袋に戻す。幸い、未開封な上、賞味期限はまだ先だ。明日食べればいいと樹は楽観的に思い、そうして昼休みが終わるまで、ここで目を閉じ安らぐのが雨の日の彼の日課であった。しかし、濃い臭いが階段の下の方から立ち上ってくる。これは愛乃の臭い。というより樹が雨の日にここにいるのを知っているのは、愛乃と進藤ぐらいしかいない。


「やっぱりここにいた」


 案の定、愛乃の声がする。


「ああ、愛乃か。いつもの友達はどうした?」


 目を閉じたまま樹。けれど今はあまりこの静かな時間を邪魔されたくなかった。


「うん、ちょっと隙を見てね。ここなら誰も気づかないでしょ」


「そうだな」


 そう言って樹は目を開ける。愛乃の太い太ももが目に入った。そしてスカートも。パンツは……見えそうにないか。それを確認して視線を体の緩やかな線に沿って上げてゆく。愛乃はまっすぐに樹の顔を見つめていた。口を開く。


「……あの、わたし、いつきに言わなきゃいけないことがあって」


「何さ」

 太ももと太ももの間から立ち上る愛乃の臭いをどこか懐かしく思いながら樹は言った。


「あのね、あの写真。……撮ったのはわたしなの」


「え?」


「みんなに見せるつもりはなかったの。けれど何撮ったのって聞かれて、……見せるしか無かった。まさか学校中に広まったり、あんな悪戯に使われるなんて思いもしなかった。……ごめんなさい」


 そう言って頭を下げる愛乃。その反対に戸惑う樹。怒りと困惑が樹の頭を支配する。まさか仮想敵の正体が愛乃だったなんて樹は想像の外だった。


「ごめんなさい!」


 もう一度、頭を下げる愛乃。その瞳からは僅かに涙が溢れていた。なんと言えばわからず、口をぽかんと開ける樹。沈黙と雨が扉を叩き付ける音だけが、踊り場を少しの間支配した。


 やがて樹はようやく口を開く。なるべく心に生じた怒気を押さえながら。


「なんだって、いったい、そんなことを」


「あのね」


「……うん」


「うらやましいなぁ……って」


「うらやましい?」


 鸚鵡返しに樹。


「わたしじゃ、絶対、絵にならないから」


「絵?」


 何のことかわからず樹は問い返す。


「あのね、目を閉じている樹とそれをじっと見ている日野さんが、本当に綺麗だったの。二人ともモデルのように、綺麗だった」


「美化しているだけじゃないか?」


「そんなことない」


 きっぱりと愛乃。そうしてうなだれて言った。


「それはわたしには絶対にできない、光景。太ったわたしなんかじゃやりたくてもできない光景。そんなことをしたら笑われるのがせいぜい」


 愛乃、やっぱり気にしていたのか。樹は思う。そりゃあ女の子だからな。気になるよな。自分の体型とか、美貌とか。


「ごめんね。こんなこと言っても迷惑かけたのは変らないよね。でもね、本当に、あの人は、いつきのことが好きなんだと思う。でなければ、あんな表情するはずがないもの」


 今にも崩れそうな愛乃。樹は反射的に立ち上がった。愛乃の目線が上に来る。


「わたしじゃあ無理だから……。恋とか無理だから……」


「何が無理なんだだかよくわからない」


「無理なの。隣に並べないの」


 そう言う愛乃の隣に樹は移動する。


「ほら並んだぞ」


「いつき……」


 横目で樹を見る愛乃。そんな愛乃に樹は言った。


「何勝手に早とちりしてるんだよ。写真を撮ったのはお前でも、悪戯に使ったのはお前じゃないだろ」


「それはそうだけど、わたしが、よけいなことしなければ……」


「確かにそうだけどな。そこまで落ち込むことじゃない。愛乃は悪くないよ」


 諭すように樹。というかそうするしかない。


「僕はいつものように愛乃と話したいな」


「それは無理」


「なんで」


「あの写真に悪戯したの、わたしの知っているグループの人たちだから」


「そっか」


「だから、もう話せない。いつきが喧嘩を売ったと向こうは思っている」


「そんなつもりはなかったんだけどな」


 けれど実際どうすればその女子達は満足したのだろうか。樹にはさっぱり見当もつかないのだ。樹は軽く頭をかく。まったく女子は臭い以外は面倒だ。今も立ち上る愛乃の臭いを感じながらそう思う樹。


「わたし、どうすればいいのか、わからない」


「僕だってわからない。でもさ。だったら、甘い物でも食おうぜ」


「……え?」


「いつも言っているじゃないか、甘いものを食べていれば幸せだって」


「それは、そういうことは言っているけど……」


 今度は愛乃が戸惑う番だった。そんな愛乃に樹は手に持っていたコンビニ袋を見せる。


「今日は雨だったからな、なんと運がいいことに生徒会行く前に食べようと思って菓子パン一個残しておいたんだ」


 そうしてごそごそと中身を取り出す。カロリーの高そうな甘そうなパンが、そこにはあった。実際には食欲が無くて食べられなかったものだ。


「そんな……わるいよ」


「いいから食え。僕も半分食べる」


 そうして愛乃の返事も待たずに袋を破りパンを半分にして一方を無理矢理口にしもう一方を愛乃に差し出す。


「ほへ、ふえ」(ほれ、くえ)


 パンを口に入れたまま愛乃を促す。仕方なさそうに愛乃はパンを受け取った。一口ほおばる。ゆっくりと嚥下する。そうして言った。


「なんだかしょっぱい」


「泣いてるからだろ」


「そうか、わたし泣いてたんだ。……なんでだろうね」


「ほくに、ひくな」(僕に、聞くな)


 またパンをほおばりながら樹が言う。


「行儀、悪いよ」


「ほうはな」(そうだな)


 無言でパンにかじりつく愛乃。彼女にしてはめずらしくゆっくりゆっくり食べてゆく。


 やがてパンは二人の腹に収まった。


「少しはマシになったか」


「うん……」


「じゃあ僕は先に教室に戻っているから。あとから気づかれないように降りてきなよ」


「うん……」


「ちゃんと涙も拭くんだぞ」


「……わかった」


「それじゃあな」


 そう言って樹は階段を下りてゆく。愛乃はそんな樹の後ろ姿をずっと見送っていた。


 教室に戻る。由衣と目があった。樹は思う。おそらく写真の撮り手について彼女は嘘をついていたなと。知らないはずが無いじゃないか。あんなにまっすぐ見ているのに。いくら眼が悪くても、あのぽっちゃりした姿を誰が見間違うものか。それはおそらく由衣の彼女なりの優しい嘘なのだろう。席に座り由衣の後頭部をそっと眺める。すぐ前の席の由衣は愛乃と自分がよく話す仲だと知ることのできる立場にある。


『あとで日野さんとも話すか』


 そんなことを思いながら席に着いた。愛乃は午後の予鈴が鳴り終わってからようやく教室に帰ってきた。午後の授業が始まり、終わる。


「あの、昨日いただいた書類、書き上げたので、一緒に生徒会までいいですか?」


「別にかまわないけど」


 放課後になっても席を立たない由衣のことを不思議に思いながら生徒会に行く準備をしていた樹は、いざ向かおうとしたときにそうやって彼女に呼び止められた。


「その前にちょっといいかな」


 樹はそんな由衣に話しかけた。昼に愛乃から聞かされた写真のことを話すつもりで。


「なんでしょうか」


「あの写真を撮った人間がわかった。というか自分から話してくれた」


「……そうですか」


「あのさ、日野さんは知っていたんだね」


 樹は少しばつの悪そうな顔で尋ねる。


「……ええ、まあ」


「そうだよなぁ。いくら眼が悪くてもあんなぽっちゃりした姿、見違えるわけないものなぁ」


「ああ。すみません。眼が悪いというのも嘘ですよ」


「……そうだったんだ」


 騙されていたのか、と思い若干固まる樹。確かによく考えれば変な話だった。そんな樹に由衣は頭を下げて言った。


「すみません。言えなくて。……なんとなく言いづらくて。嘘までついてしまいました」


「いいんだ。本人と話したから。本人も悪気があったわけじゃないと言ってた。信じていいと思う」


「ならよかったです」


「まあ、結局悪戯として使われてしまっているけどね」


 少し困ったように樹が言うと、由衣も僅かに眉をひそめた。


「そうですね。……何の意図で撮ったのかわかりませんけれど。視界の隅でこうスマートフォンを構えられたので、気がつきました」


「確かに、目がいいんだな」


 やや皮肉を込めて樹。


「すみません」


 ぺこりと頭を下げる由衣。


「いや別にいいんだけどさ。それじゃ、生徒会室に行こう」


 ちょっと意地が悪かったなと思う樹。由衣を急かすことにした。


「はい」


 由衣も特に反論することなくそれに従う。


「そういえば、言い忘れていた」


 道すがら、樹は由衣に声をかける。


「何をですか」


 首だけこちらに向けて言う由衣。


「写真を撮った理由」


「ああ……」


「僕がこの間言った理由とほとんど同じだった。綺麗だったんだってさ。それでおもわず……だそうだ」


「そうですか」


 後のことは黙っておくことにした。それは愛乃の内面に踏み込むことになる。と思ったら、由衣が口を開いた。


「考え方、似ているんですね」


「……そうかな」


「ちょっと妬けてしまいます」


「妬ける?」


「ああ、何でもないです。独り言です」


「そう」


 そんなことを話している内に生徒会室に着いた。扉を開ける。二人そろってやって来たのをみて生徒会の役員達が目を丸くする。そんななか会長だけがニコニコ声をかけてくる。


「あら、ついに同伴出勤?」


「そんなんじゃないですよ」


 会長の軽口にきっぱりと答える樹。そんな樹の代わりに由衣が前にでて会長に紙を渡した。


「あの、昨日いただいた書類です。書いてきました」


「もう書いてきたの?」


「はい」


「わかった。受け取っておくわね」


「それでは私はこれで失礼します」


「ああまたナイト付けようか」


「いいえ、お仕事にもさわりが出るでしょうから、これで」


 会長が何かを言いかける前にそそくさと由比は生徒会室を出て行ってしまった。会長は樹の方に向き直る。


「上月君、昨日何かした?」


「何もしてません」


 樹は応えた。会長は小さくため息をつく。


「何もしてないから呆れられたんじゃないの?」


「意味がわかりません」


「どこかに寄り道とかしなかったの?」


「まっすぐ駅まで送り届けました」


 てきぱきと会長の問いに答えてゆく樹。それをみて会長は笑った。


「馬鹿ねぇ。せっかく機会を作ってあげたのに」


「申し訳ありません」


「まあ二人のことは二人のことだから別にいいけど。それじゃあ書類もそろったし、ささっと申請しちゃいましょうか」


「定例の生徒会会議で半数以上と会長の承認が必要です」


 眼鏡の副会長が口を挟む。会長は眼鏡の副会長を見ると大きくため息をついた。


「めんどうくさいのね。たかが同好会の承認ぐらいで」


 呆れたように会長。


「規則は規則ですから」


 あくまでも態度を崩さない眼鏡の副会長。


「それじゃあ明日の定例会議まですること無いわね。解散」


「それでいいんですか?」


 思わず尋ねる樹。そんな樹に会長は行った。


「いいわよ。緊急招集かけるほどではないでしょう?」


「それもそうですね」


「はいそれじゃ解散。かいさーん」 


 会長のその一言で今日の生徒会の活動は終了した。


「はぁ」


 生徒会を出て一呼吸する樹。急に暇になってしまった。静かな廊下を一人歩く。昼は本降りだった雨もだいぶ弱くなってきている。


『今のうちに帰るか』


 樹は思案し、そう決めた。昇降口まで歩いて行く。


「やめてください!」


 急に大きな声がした。いつもは大声を出す人ではないが樹にはわかった。これは由衣の声だ。


「どうかしたか!」


 考える暇もなく反射的に同じくらい大きな声で叫ぶ。小心な相手ならばそれで逃げるだろう。そうして樹は由衣の声がした方へと樹は向かった。そこには、困った顔の由衣とそして険しい顔の進藤がいた。


「……おい進藤、お前何してるんだ」


 樹はかつての友人に呼びかける。


「関係ない……と言うわけにはいかないか」


 樹の方を横目で見て進藤。樹も返す。


「そうだな」


「この人が自分について来いって、言うんです」


 進藤を睨み付ける樹に由衣は言った。


「どこへ連れて行くつもりだ?」


「そんなことお前の知ったことじゃないだろ」


 樹に向かって吐き捨てるように言う進藤。


「進藤、お前、誰かに命令されているな。女か?」


 樹の指摘に進藤は顔を背ける。


「……しょうがないだろ」


「好きな人か?」


「関係ないだろ!」


 図星を突かれた進藤が叫ぶ。そんな進藤を樹は冷静に諭した。


「とにかくやめとけ。そんなことお前に頼むような奴はろくな奴じゃないよ」


「うるせえな」


 怒鳴る進藤。樹に向き直る。樹はそれを待っていたかのように由衣に呼びかける。


「今のうちに逃げろ!」


 けれど由衣は動こうとしない。


「早く!」


「でも……」


「僕のことはいいから」


 そう言う樹に由衣はまっすぐ樹の目を見て言う。


「貴方の側が一番安全です」


「妬けるな。けっ」


 由衣の言葉に舌打ちする進藤。そう言うと樹に向かって拳を構える。樹もやれやれと思う。これで戦わなくっちゃいけなくなったんだぞ。昨日までの友人と。樹は鞄を落として構え向こうの出方を待つ。しかし戦いは起きなかった。こっちに向かって拳を構えていた進藤が両手を下げるとつまらなそうに言う。


「やーめた」


「進藤?」


 問いかけては見たがまだ警戒を解かない樹を見て、進藤は少し笑った。


「なんか馬鹿馬鹿しくなってきた」


「そんなの最初からだろ」


 進藤の言葉にそう返答する樹。ようやく警戒を解く。


「まあな。先方には適当に逃げられたと言っておくよ」


「すまんな」


 そう言う樹。由衣に呼びかける。由衣が進藤を避けるように遠回りしてやって来る。背後に回ったところでようやく樹は鞄を拾い上げた。それを見て進藤は鼻を鳴らす。けれども口にしたことは別のことだった。


「でも気をつけろよ。お前等マジで恨み買ってるぜ」


 樹ははその情報に感謝して言う。


「忠告ありがとう進藤。でもそこまでしたつもりはないんだけどな」


「俺も何でかしらねーよ。さっさと行っちまえ」


「わかった。行こう。日野さん」


「はい」

 そういうと樹は由衣を庇うようにして二人して階下に降りてゆく。そんな二人を見て進藤は『畜生!』と床を蹴りつけた。


「びっくりしたよ。帰ろうとしたら日野さんの大声が聞こえて」


 そんなことに気づかずに由衣に話しかける樹。


「すみません。何もしてこないと思っていたのですが、お手を取らせてしまって」


 頭を下げる由衣。


「いいんだ。僕のせいでもあるし」


「そんなこと、ありませんよ」


 驚いたように由衣。樹は首を横に振る。


「僕の行動が写真に悪戯した人達を怒らせちゃったたみたいなんだ。だから僕のせい」


「そんな……」


 困惑する由衣に樹は笑顔で言った。


「だから今日も送るよ」


「いいんですか。……すみません。ありがとうございます」


 もう一度、ぺこりと頭を下げる由衣。そうして二人は昇降口から外へ出た。並んで傘を広げる。樹は黒、由衣はベージュピンクの花を咲かせる。


「いこっか」


 樹のその声で、二人は雨の世界へと踏み出した。傘に雨の打ち付ける重みを感じながら二人して歩いて行く。


「そういえば生徒会はどうされたのですか」


「ああ、定例会議が明日なんだ。それまですることがないから会長の一存で解散になった」


「そうですか、会長には感謝しないといけませんね」


 樹の言葉にそう返す由衣。たしかに早めに解散しなければ、由衣の身に何が起きたかわかったものではない。


「あいつ、日野さんを連れて行ってどうするつもりだったんだろうな」


「わかりません」


 樹の問いに由衣はそう答えた。


「まああいつも知らされてないんだろうな」


「さっきの人とお知り合いだったのですか」


 由衣が尋ねる。


「まあね」


 樹は少し気まずそうに言い、由衣もそれ以上詮索することではないと悟ったらしく、押し黙った。沈黙と傘に雨が落ちる音が響く。重い気分だ。空気も重い。それを晴らすように樹は由衣に向かって言った。


「今日は早いからどこか寄っていこうか」


「よろしいのですか?」


「ああ。本屋でもいいしゲーセンでもいいよ」


「そうですか……。それでは本屋で」


 由衣は答えた。


「そういえば本好きなんだっけ」


「そんなこと、言いましたっけ」


「ああ、そういえば聞いてなかった。……でも好きなんでしょ」


「ええ、まあ」


 樹はその言葉に頷く。文芸同好会を作るくらいだからきっと好きなんだろうと思う。


「じゃあ行こう。駅の本屋で良いかな」


「はい」


 樹の誘いに由衣は優しく返事をした。そのまま二人して駅へと向かう。目指すは駅ビルにあるそれなりに大きな本屋だ。傘をビニール袋に入れ、本屋のある階へ向かう。けれど由衣は本のあるところを通り過ぎて行く。それを見て樹は由衣に言った。


「あれ本見るんじゃないの?」


「どちらかといえば今日は文具のほうを……」


「そうだったんだ。僕も付き合って良いかな」


「いいですよ」


「といっても買う物なんて無いんだけどね」


 そう言って照れたように樹が笑う。由衣もそれを見て微笑んだ。


「私も特に買う物はありません」


「じゃあゲーセンの方が良かったんじゃない」


「いいえ、こうして眺めているだけで楽しいですから。それに気に入った物もあるかもしれませんし」


「そっか」


 樹は了解し、二人して文具売り場を見て回った。けれど実用的な物が多く可愛らしいと言うものはあまりなかった。しばらく見て回って由衣は樹に言う。


「別の階にも文具というより雑貨売り場があるのですが、そっちも見ても良いですか?」


「いいよ、ちょっと退屈してた所だし」


 そうして二人はその雑貨売り場に向かった。そこは明るい色で彩られた、キャラクターのアンテナショップだった。可愛いキャラクター達が『女性以外立ち入り禁止!』と言っているかのように立ちはだかっている様に樹には見えた。


「これはちょっと入りづらい……」


 樹は心からの思いを由衣に伝える。由衣は不思議そうに首をかしげた。


「入り口で待ってますか?」


「い、いいや入るよ。物は試しだ」


 樹は勇気を振り絞って敷地内に入っていった。何かキャラクターの視線から目をそらしながら風に立ち向かうように一歩一歩進んでゆく。そんな樹の様子を可笑しそうに由衣は見つめ、彼女も樹の後を追った。


 由衣の反応は、明らかにさっきの文具売り場とは違っていた。ショップに並んだ色とりどりの商品を手に取ったり良く見たりして戻す動作を何度も繰り返す。声を出さないのは同じだったけれど。樹はと言えば商品には興味が持てず由衣の明らかに嬉しそうな横顔ばかりを見つめていた。たまに由衣が手に取ったものと同じ商品を手に取ってみたり眺めたりするが何が何やらわからなくなってもとに戻してみたりする。やっていることはあまり由衣と樹で変らない。――二人の態度は全然違ったけれど。そんなこんなで店を出て駅の改札口で由衣が樹に言う。


「結局何も買いませんでした」


「なんか誘っておいて悪いね」


 誘っておいてのこの結果は申し訳ないと樹は思い、照れくさそうに頭をかいた。


「いいえ、こちらこそ、申し訳ないです」


 反対に少し上気した様子の由衣。言葉を続ける。


「今日は楽しかったです。その……ありがとうございました」


 そう言って由衣はくるりと背中を向けると改札を通って行ってしまった。あとに恋の臭いを残して。樹はそれを嗅ぎ、それを好ましい物だと思っている自分に気がついてしまう。


『こういうのも悪くないな。確かに』


 樹はそんなことを思いながら帰路についた。

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