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初日(後編)

「失礼します」


 礼儀正しく言って樹は生徒会室に足を踏み入れる。と、腕を組んで生徒会室の真ん中に経つ女子の姿があった。女子は樹の姿を見るなり叫ぶ。


「待っていたわよ、上月君!」


 そう言ったのはまさしく生徒会長の柊霧絵だった。いつもはこんな歓迎のされ方はしない。樹はびっくりして二、三歩下がった。ちなみに上月というのは樹の苗字である。念のため。


 周囲を見回せば、他の生徒会の役員もこっちを見ているのがわかる。これもいつもにはないことで、それで樹は何があったのかだいたいわかってしまった。うんざりした様子で樹は言う。


「……写真のことですか」


 昼に進藤から見せてもらった樹と日野由衣のツーショット。あれはどうやら学校中を巡っているらしい。それも生徒会まで。


「あら、察しがいいじゃない」


「それしか思い浮かばなかったもので」


 生徒会長の柊霧絵はこんなたいした権力もない生徒会の会長になるような女子である。つまり、きまじめなガリ勉タイプか目立ちたがり屋のおしゃべりかのどちらかで、彼女は間違いなく後者だった。つまり、こういう話には目がないのである。うっとりと会長は自分の世界に入り込むような顔をして言った。


「まさか上月君に思いを寄せる人がいるなんてね」


「別にそうと、決まったわけじゃありませんが」


 樹は扉を閉めながら反論する。あまり外に聞かれたい話ではない。


「でも、いいじゃない。写真見る限り可愛い子だし。今度それとなく話でもしてみたら?」


「どんなことを話すんです」


 樹は尋ねてみる。


「そりゃあ、まあ、天気のことからかな」


「……天気ですか」


 脱力したように樹。もっと良いアドバイスが貰える物だと思っていたのだ。


「なにごとも基本よ、き・ほ・ん」


「はぁ」


 霧絵会長のわざとらしい言葉使いに僅かにげんなりする樹。


「それでは話してみる気にはなった?」


「いや特に」


「上月君。後悔はしてからじゃ遅いのよ」


「後悔ですか?」


 どうも実感が湧かない樹であった。


「と・に・か・く! 一度でいいから話してみなさい。向こうが何を思っているのかだけでも。こういうのはあとに引くのが一番良くないの」


「それは経験からくるものですか?」


「あら、あたしの過去に関心があるの?」


 軽く笑ってしなを作る会長。目をそらし樹は言った。


「いえ別に」


「なんだ、がっかり」


 そう言ったわりにはそんなにがっかりした様子を見せず、会長は言った。樹は早く写真のことから離れたかったので提案する。


「それより仕事始めましょう」


「今は暇でしょ~」


 椅子に座った会長の弛緩した答えが返ってきた。


「まあそうなんですけどね」


「う~ん、水泳部の写真でも撮りに行く?」


「いいですね」


 霧絵会長の何気ない言葉に樹はやや意気込んで答える。そういえば今年はまだ水泳部の水着姿を見ていない。いや、嗅いでいない。会長は嬉しそうに言った。


「上月君のそういう素直な所好きよ」


「そうですか」


「でも今日はプール開きに合わせてプールの掃除だって」


 その言葉を聞いて樹はあからさまに気を落として言った。


「興味が無くなりました」


「そう、結構趣があるものよ? 水泳部は何で毎年自分たちが学校全体の分をやらなくちゃ行けないのかってぼやいていたけど」


「たしかにそうかも知れませんね」


 会長の言葉に樹は同意する。


「それで、いくの、いかないの?」


「あの青臭い苔だか藻の臭いが駄目で……今回は勘弁してください」


 実際樹はそう言う臭いが苦手なのだ。嫌悪していると言ってもいいだろう。というより女子の臭い以外に彼が好きな臭いなんてあんまり無い。


「そう。それじゃあ代わりに別の男子連れて行くけどそれでいい?」


「……構いませんよ」


「そう、それじゃあ高槻君、一緒に行きましょう?」


「はい、喜んで」


 呼ばれた高槻はがっちりした男子でどうみても下心丸出しの様子で、そそくさとカメラの用意をすると会長と一緒に生徒会室の外に出た。残された会員の間には弛緩した空気が流れる。


「上月、俺が言うのも何だが、今年の夏までに彼女作っておくといいぞ。三年になると受験で何かと忙しくなるからな」


 そんな空気を破るように眼鏡の副生徒会長(三年)が言った。


「はぁ。しかしあの写真、どれだけ出回っているんですかね」


「さあな。でも結構広まっているみたいだ。あいにくお前のおかげじゃなくて映っている女子のおかげだけどな」


「はぁ」


「まあ、俺も見たけど美人さんじゃないか。見つめられて悪い気はしないだろ

う?」


「僕は全然気づいてないんですけどね」


 ぼやくように樹。眼鏡の副会長は僅かに口元に笑みを浮かべていった。


「とにかく、生徒会のパソコンに保存しておいてあるぞ。高校生活の一ページというテーマで使えそうだからな」


「後で消しますよ」


「まて上月、消すのは待ってくれ。その少女が了解してくれれば使えそうなんだ」


「僕が了解しませんよ。それに写真を撮った人間にも了解を取らないとならないでしょう?」


「まあそうなんだがな。とりあえず残しておいてくれ。まあ消してもデータはいくらでもあるけどな」


「はぁ……しかたないですね」

 そこで会話が途切れた。そうして全然関係ないところから、ぽつりと声が上がる。


「プールの清掃か……。掃除で水に濡れた女生徒いいよね」


「生徒会ですと言って手伝いにでも行けばいい」


 樹はそんなことを言った男子生徒会委員に言った。腕を首の後ろに回していたその男子は飛び跳ねて、樹を指さす。


「上月、それナイスアイデア。おいみんなでこれから手伝いがてらのぞきに行こうぜ」


「わたしは別にいいかな」


 女子の生徒会委員が嫌そうに言う。


「ばか。鍛えた男子の水に濡れた姿も見られるぞ」


「……やっぱり、行く」


 女子はあっさり意見を翻した。そんな中、樹が言う。


「僕は残るぞ。藻の臭いが苦手なんだ」


「わかってるって。お前には彼女がいるもんな。それじゃ、みんな行こうぜ」


「すまんな上月、俺も濡れた女生徒の魔力には逆らえん」


 そう言って眼鏡の副会長もクールに去っていった。


「じゃあ上月君、あとよろしくね」


 みんな口々に言って生徒会室から出て行く。こうして生徒会室には樹一人が残された格好となった。


「ま、プール行ってもどこいってもしばらくはからかわれるだけだ」


 一人呟く樹。さっき誰かがやっていたように腕を首の後ろに回してぼんやり窓越しに空を見る。青い。と、コンコンと生徒会室のドアをノックする音がした。


「どーぞ」


 何ともなしに樹は扉の向こうに声をかける。ガラガラと開く扉。と、そこには。


「あれ、上月君?」


「え? 日野?」


 扉の向こうには驚いたようなというか心底驚いた様子の日野由衣がいた。


 そうしてお互いに流れる長い長い沈黙。沈黙を破ったのは、樹の方だった。それは一度この日野由衣とは話しておいた方がいいと生徒会長に言われたのを頭の隅に留めていたからかも知れない。


「とりあえず、生徒会室、入ったら?」


 立ち上がり、招き入れるような格好をする。


「……はい」


 しばらくのためらったあと周囲をきょろきょろ見回して、日野由衣はおそるおそる生徒会室に足を踏み入れる。その仕草は本当に知らない場所に始めて入る猫のようだった。


「適当に座って」


「……すみません」


 いわれるままに腰掛ける。スカートがふわっと浮いたが臭いなどはすることはなく、樹を僅かに落胆させる。日野由衣はそんな樹の落胆には気づかない様子で、声をかけて来た。


「知らなかった、上月君が生徒会員だったなんて」


「まあ選挙は一年の内にやっちゃうし。そのときはたしか別のクラスだったし」


「それも、そう、ですね……。それで他の生徒会員さんは……」


「プールの掃除の手伝いがてら学校の行事撮影にいった」


「……あぅ、そうですか」


 消え入りそうな声で日野由衣。


「お茶でもだそうか? といっても熱いコーヒーしかないけど」


「いりません」


 即答が帰って来た。


「……暑いもんな」


 樹も納得した様子で返しそこで会話が途切れた。しばらくして気まずさに耐え難くなった樹が、由衣に聞く。


「なんか生徒会に用だったんじゃないの?」


「……そう、ですけど」


「もしかして写真の件?」


「写真?」


 目を丸くして樹の顔を見る由衣。確かにこの視線は目立つかな。やはりなんというか猫のような視線だ。そういえば教室で見た彼女の印象も猫だった。ここに入るときも。ぼんやりと思い返す樹。


「写真って一体なんですか?」


 樹がぼんやりしたせいか、由衣がもう一度尋ねる。機転を利かせて先回りしたつもりが、とんだ裏目に出てしまったようだ。樹は慌てる。


「い、いや知らないならいいんだ」


「そうですか」


 わずかに身を乗り出していた由衣が椅子に座り直す。そうしてじっと樹のことを見た。その目を見て樹は思い直す。やっぱり隠しておくわけにはいかない。


「……やっぱりよくないか」


「えっ?」


「日野さんと、僕に関係あることだよ。ちょっと待ってね」


 たしか生徒会のパソコンに画像が保管してあると言っていたな。そんなことを思いながら樹はパソコンの方に向かいスリープ状態のパソコンを起動させる。画像はデスクトップの背景になっていた。はぁ。大きくため息。それを見て日野由衣は不思議そうな顔をする。多分これだろうと当たりを付けて画像を開く。勘は当たった。目を閉じる樹とまっすぐにこちらを見つめる日野の写真。確かに『眠れる男子と目覚める女子』という名前がつきそうな写真だった。昼は太陽の日差しの下でのスマホの小さい画面だからわからなかったが、たしかに悪くない写真だ。ここに写っているのが自分でさえなかったのならば。


「日野さんは実は知っているんじゃないかな。写真撮られたこと」


「ああ、そういえば午前中に教室で撮られましたね」


「それが学校中に出回っている。ほらこっち来てごらんよ」


 樹の言葉に日野由衣は立ち上がりパソコンの画面をのぞき見た。


「これがその写真ですか」


「ああ、そうだよ。僕は昼に友達に教えられたんだけど、なんかもう生徒会まで回ってきてる。なんか日野さんが僕を見ていた写真として。実際には見てないけれど」


「……パンツが見えそう」


「……え? ん? ああ、これはたしかにやばい」

 たしかに椅子に座る由衣は後ろの樹を見ていたせいだろう、股を軽く開けており、その隙間から今にも白いものが見えそうな構図だった。


「それだけ慌ててた」


 ぽつりと呟く日野。パンツのことは割とどうでもいいらしい。


「どういうこと?」


「まさか写真を撮られるなんて、思っても見なかったから」


「僕もだよ」


「ごめんなさい」


「どうしてあやまるのさ」


「これはきっと全部、わたしのせい。私が上月君を見てたから……」


「別にあやまることじゃないよ」


 樹の言葉に僅かに首を下に向ける日野。そんな日野を元気づけるように樹は言った。


「けど見たかったな。日野が俺を見ている写真。きっと撮った人も綺麗な光景だと思って撮ったんだと思うし」


 樹がそう言うと日野はわずかに感情を込めていった。


「あなたは何もわかってない」


「へ?」


「これはからかいのために撮られた物。私達をひやかすために撮られた写真」


「……そうか。そうかもな」

 そう言って樹は目を閉じる。相変わらず無臭の目の前の少女。だから樹はぼんやりとそんな光景を心に思い浮かべながら言った。


「でも想像してみるとそんな悪い絵面には見えないぜ」


 目を開ける。じっと見つめる日野由衣の目と目が合う。由衣は不思議そうな顔をしていたが、やがて微かに笑みを浮かべて言った。


「そうですね。そうかもしれません」


 そんな顔を見せられた樹はちょっと胸がどきっとした。樹が嗅覚以外で、こんな反応をするのは初めてのことだった。


「私がもっと美人だったら良かったんですけど」


「それを言うなら僕がもっと美男子だったら良かったのに、だ」


 何か返してくるかと樹は思ったが、由衣は黙って眼を細めて微笑むだけだった。心なしか頬が赤かった。パソコンの画面を二人してみてるので顔と顔が凄く近かった。そうして樹はそんな由衣のことを美人だなと思った。パソコンの画像の彼女も自分のことを見つめているような錯覚。それも樹を惑わせた。


「……で、これが写真の件だけど。どうする?」


 パソコンの由衣の目線から視線を外し、やや上気した樹の言葉に本物の由衣はため息をついて応えた。


「どうするといわれても、どうしようもありませんよ」


「確かに」


「写真だけでは何ともない写真ですから、みんなが忘れるまで待つしかありませんね」


「そうだな。日野さんの機転に感謝しなくちゃな」


「私は別に何も……」


 口ごもる由衣に樹は努めて明るく言った。


「じゃあとりあえず伝えたからね。こういう写真が出回っているって」


「……はい、わざわざありがとうございます」


 そう言って由衣は席に戻ろうとする。そんな彼女を樹は呼び止めた。


「そうだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「なんですか?」


「これ撮った人、わかる?」


「……。いいえ。どうしてそんな質問を?」


「そうか……目線がしっかりしているから撮った人を知っているんじゃないかと思っただけ」


「ごめんなさい、あいにく目はそんなに良くないので」


 すまなそうに謝る日野由衣。


「そうなんだ?」


「はい」


「眼鏡とかコンタクトとかはしないの?」


 樹は尋ねる。


「眼鏡はすぐ耳が痛くなるし、コンタクトはなんか怖くて」


 彼女の答えは可愛らしいものだった。


「そっか。それじゃ最後の質問。この写真、学校の紹介とかに使われたら怒る?」


 樹の質問に僅かに考える由衣。やがて口を開いた。


「……パンツが見えそうなのがちょっと気になりますが。まあ、いいんじゃないでしょうか」


「そこいらへんはトリミングするさ。……たぶん」


「上月君はどうなんですか?」


「僕は日野さんがいいというならそれでいいよ」


「主体性がありませんね」


「そう、かもね」


 事実だったので、僅かに照れ笑いを浮かべる樹。


「それじゃあ私は失礼します」


「え、帰っちゃうの」

「ええ、会長がいなければ用事も達成できそうもないので。日を改めてまた来ます」


「そっか……。そういえば、結局一体何の件できたの?」


 樹は尋ねるが、日野由衣の返事はむべもなかった。


「……秘密です。それでは失礼します」


 そう言って礼儀正しく一礼すると、由衣は生徒会室を出て行った。ガラガラと戸が閉まる。


『一体何の用だったんだろう』


 後は呆けたように取り残された樹だけ。パソコンの中の日野を見る。まっすぐにこっちを見つめている。そうしてその横に間抜けな顔をして目を閉じている自分の横顔。ため息を一つつくと、樹は画像を閉じた。壁紙も同じ写真だった。がっくり来てディスプレイの電源を落とす。


 そうして自分の席に戻ると、椅子に深く座り込んだ。頭の中を少し整理しなくてはならない気がして、そうして樹はしばらくぼーっとしていた。


 漂う藻の臭いと塩素の臭い、それとわずかに水道水に濡れた女子の汗の臭いで樹は目が醒めた。プールの清掃に行ってきた生徒会のメンバーがいつの間にか戻ってきたらしい。


「おはよう、上月君」


 目を開ければにこにこ笑う霧絵生徒会長。見れば向かいの席に座っている。どうやら自分は眠っていたらしいと樹はぼやけた視界でそう認識する。


「あれ、どうして、いつもどってきたんです?」


 そうして、まだ完全に目覚めていない樹が会長に聞く。


「君を見てた女の子のまねがしたくなって。起きるまでじっと見てた」


 生徒会長は質問に答えず、樹にそう言った。


「それは、すみません……それで、どうでしたか?」


 なんだかよくわからないけど樹は聞いた。いや聞いたのはプールでのことだったが返事は異なっていた。


「間抜けな寝顔だったわね」


「さいですか」


「鼻をつまんでやりたくなった」


「それは止めてください。死んでしまいます」


 だんだん目が醒めてきた。生徒会室にいるのは霧絵生徒会長だけ。他のメンバーは誰もいない。樹はいぶかしむ。


「あれ、ほかの人たちは」


「びしょ濡れになっちゃって水泳部の好意で服を乾かしているところ。高槻なんか女の子に近づきすぎてカメラ濡らしちゃって。やっぱり下心ありすぎるのは駄目ね。カメラマンは上月君ぐらい冷静な人に任せるべきだったわ」

 

 ため息混じりに霧絵生徒会長。会長が濡れてないところを見ると、どうやら高みの見物をしていたらしい。ぼんやりと樹は言った。


「そういえば、日野さんが来ましたよ」


「日野さん? 誰?」

「ああ、会長は知らないんですね。例の写真で僕と一緒に写っている女子ですよ」


「何しに来たの!」


 急に食らいつく生徒会長。驚いて樹は完全に目が醒めた。


「い、いや理由は教えて貰えませんでした。ですが写真のことは知らないようだったので教えてあげました」


「別に教えること無いのに。きまじめねぇ」


 呆れたように霧絵会長。


「知ってしまったからには教えないと……」


「まあね」


 樹の言葉にやや不本意そうに頷く霧絵会長。逆に尋ねてくる。


「それで、なんで見てたのかは聞いたの?」


「え?」


「え? じゃないでしょ。彼女が君を見ていた理由。それを聞かなきゃ意味ないじゃない」


「そういえば聞いてない……」


 樹の言葉に生徒会長は天を振り仰ぐ。


「どうしようもなく鈍い男ねぇ君は」


「すみません」


「謝ることじゃないけど。その鈍さは人を不幸にするわよ」


「どういうことでしょうか」


「ああ。経験談。鈍い男に恋すると、女は不幸になるのよ」


「恋……ですか」


「それ以外に女が男の顔を見る理由があると思う?」


「え……と。会長が僕を見ていたように変な顔をしていたからとか?」


「馬鹿ねぇ」


 一蹴される。けれど一言付け加えられる。


「ま、私は確かにそんな理由だけど」


「ひどい」


 樹はぼやいた。会長はこの話はおしまいというように両手を挙げる。


「さてそろそろおしゃべりはおしまい。みんなも帰ってくるし。今日の仕事をささっと片付けて帰りましょう」


 会長の言ったとおり、しばらくすると生徒会のメンバーが帰ってくる。みんな今日は藻や汗の臭いがきつい。けれどもそれを勧めたのは樹自身だ。我慢するほか無い。


 仕事と言っても他には特になかったのでプールのことがあっても最終下校時間前には今日の仕事は終わってしまった。『今日はおしまい!』会長の一言で解散する。樹も鞄を持って昇降口へ向かった。初夏の日はまだ高い。部活も活発に練習に打ち込んでいるようだ。土臭さと汗の臭い。それがわずかに伝わってくる。そんな中帰るのが樹は好きだった。テニスコートの脇を抜け、ランニングをする卓球部とすれ違い、学校の外に出る。今日はどこかに寄ろうか。そんなことを思いながら樹は駅に向かっていった。


 参考書でも探しに本屋によると、漫画のコーナーにひときわ匂い立つ少女がいた。どうやら学校が違う少女のようだ。中学生かも知れない。愛乃とはまた違った女子のむわっとした体臭。部活帰りかも知れない。こんな突然の出会いも悪くない。できる限り近くを通り思う存分臭いを吸い込む。と、樹は一人の少年の姿を認めた。小学生高学年ぐらいだろうか、女子の周りをうろつき回っている。漫画に興味があるようではない。というかその女子がいる漫画は少女漫画のスペースだ。普通の男の子が好む場所ではない。一体何をしているんだろう。それは樹の注意を惹いた。と、向こうも樹の存在を認識したようだ。こちらに向かって軽く笑いかける。それにどう応対すればいいのか、樹は戸惑ってしまう。そうして戸惑っている内に匂い立つ女子は文房具売り場の方に行ってしまった。二人して後を追おうとして、足がぴたりと止まる。この少年、自分と同じ行動を取ろうとしている――?


 少年も樹の行動に気がついたようだ。体をこちらに向け、そうして樹の方に近づいてくる。口に笑みを浮かべながら。少年は普通に声が届く距離まで近づいたところで足を止め、話しかけてくる。


「いま。ボクと同じことしようとしたね」


「……」


 樹は無言でその少年を見つめる。


「だんまり? でも何も言わなくても臭いでわかっちゃうんだぞ」


 そう言って少年は鼻を鳴らした。やはりこの少年も少女の臭いを追っていたようだ。ということは自分と同じ、鼻の利く、臭いフェチ。この年でか。戦慄を感じ、一歩下がる樹。


「なっ……」


「おまけにあからさまに態度に出るし」


「む……」


「ほら、今も」


 樹は押し黙る。まさか自分と同じ能力持ちがいるとは。しかも相手の能力はおそらく自分よりも鋭敏だ。しかし、まさかこんなくだらない能力で被るとは。


 ――なんて能力バトルものの主人公のような思考をする樹。


「ふふふ」


 向こうもノリノリでどこかもったいぶった様子でさらに近づいてくる。背景からゴゴゴゴとかドドドドとか効果音が見え始めた。はて、どこで見たものだったか。


 そんなことを思っているうちにもう少年はすぐ側に来ていた。


 逃げられない――ああ、ここまでか、と思ったその時。


 肩――というよりそこまで手が届かなかったので上腕部にぽんと手を置かれる。樹はビクッと反応した。


「同志よ」


「え?」


「だから同志。同好の士」


 ニコッと笑ってそう言われる。漢字にすると微妙に違うのだが、樹にそんな知識があるわけでもなく。気がつけば背景に張り付いていた擬音も消え失せていた。


 樹はあっけにとられた様子でその少年を見る。


「ボクの名前は内山元紀。貴方の名前は?」


「……上月樹」


 妙に礼儀正しい挨拶に魔法に囚われたように自分の言葉を呟く樹。


「上月さんだね。わかった。俺はこの辺りを根城にしてるから。また会うこともあるかもね」


「何のために……」


「そりゃ女子高生や女子中学生の臭いを嗅ぐためさ。上月さんと同じ、ね」


 樹が棒立ちで何も答えないでいると、元紀は言葉を続けた。


「ああ、でもいいなぁ。上月さん高校生でしょ。女子高生の臭い嗅ぎ放題なんじゃないの?」


「……そんなに甘いもんじゃないさ」


「そうなの? ……おや、これは甘ったるそうないい臭い」


「ん?」


「いつきー? なにしてるのー」


 少年の言葉に首をかしげていると突然名前を呼ばれる。振り返ってみれば、ぽっちゃりとした姿が視界に入る。そうして周りに同じクラスの女子の姿。カラオケ帰りの愛乃だった。みんな座って飲食したり歌ったりしていたのだろう。この少年――元紀が言うとおり確かにみんな臭いが強い。とくに愛乃は凄い臭いだ。普通なら樹が向かわなければならないところだけど、少年の姿を認めたのか女子達の方が近づいてくる。


「何この子? 知り合い?」


「かわいいー」


 そうして少年――元紀を取り囲み口々にはやし立てる。普通の男子小学生なら恥ずかしがって逃げるところだが、元紀はなすがまま、いや逆に嬉しそうに女子に絡んでいく。周りにはむわっとした女子の臭い。けれど樹はあんまり嬉しくなかった。


「へへへ。ありがとお姉ちゃん」


 元紀のそれを平然と受け入れる態度が気にくわなかった。愛乃も少年に夢中ぽいのがなんとなく許し難い。と顔を上げて愛乃が樹に聞いた。


「この子、いつきの知り合い?」


「ああ、まあ今さっき知り合ったというか」


「ふうん」

 それだけ言ってまた元紀に視線を戻す。なんとなく、イライラする。こんな少年に嫉妬しているのはみっともないとは思うのだが。


「ねえどこの学校?」


「好きな子とかいる?」


 珍獣をもてはやすように女子達は元紀をもてはやす。かやの外の樹。そんな状況がしばらく続いた。やがてもてはやすのも飽きたのか、女子達は二人から離れてゆく。


「やっぱりJKはいいなぁ」


 うっとりと元紀は言った。


「そうか」


 やや不機嫌そうな樹。なんで律儀に待っていたのか自分でも不思議でならない。


「ねえ。そうだ携帯の連絡先交換しない?」


「何でさ」


「そりゃ、同好の士だからね。それのあの女の子達とも交換しちゃったしさ」


「いつのまに」


「へへ……」


 しかたなく樹は携帯の番号を交換した。言い忘れていたが、樹はスマホは持っていないが携帯電話自体は持っている。小学生の時に護身用に持たされ、中学になって機種変してそのままの古くさい機種だが。元紀も子供用の携帯を持っていた。互いに番号を言って交換する。


「あのぽっちゃりなのがいいね」


 携帯電話片手にぽつりと元紀が言った。


「あれは極上の臭いだよ。さわり心地もよさそう。そう思わない?」


「愛乃とも連絡先交換したのか」


「……へえ、下の名前で呼ぶんだ。そういえばまっさきに貴方のことを呼んでたね」


「まあな」


「恋人?」


 元紀が携帯に視点を落としたまま尋ねる。


「……違う。幼なじみだ」


「そうなんだ。じゃあ取っちゃってもいいかな」


 相変わらず携帯に視線を落としまま元紀。


「取る?」


「ううん。それにはまだ早すぎるかな。……それじゃ上月さん。さようなら」


 ぱたんと携帯を閉じると謎めいた言葉を残して元紀は去っていった。樹はどっと疲れて、へたり込みそうになりそうなのを何とか耐えた。参考書でも覗くつもりだったがそのまま帰ることにする。 


 家に着いた。今日は色々あった。本当に色々あった。思い返すのもかったるいと樹は思い、疲れたと鞄を部屋にドサリと落とす。そうして夕飯を食べてお風呂に入って眠る。樹は一人っ子だ。自室にまた戻り、今度は自身の体をベッドへと落とす。そうしてそのまま寝息を立て始めた。


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