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枕話:シュリーフェンプランの虚実


参照: 10~11頁「初期の開発」


 この機会に、陸の話の上に無料ソース中心で恐縮ですが、シュリーフェンプランの話をしたいと思います。私がこの作戦について初めて知ったのは渡部昇一『ドイツ参謀本部』であったのですが、お決まりの「ドイツ再統一後/ソヴィエト崩壊後」に出てきた史料というのがありまして、そこは押さえておいた方がいいと思うのです。


 プロイセンの対仏作戦計画とされるシュリーフェンプランは、ドイツ語版・フランス語版Wikipediaでもりもりと書き込まれておりまして、日本語版が内容的に負けているのは当然として、英語版よりも踏み込んだ部分があるようです。


 とくにフランス語版が出色なのは、1871年以前(普仏戦争以前)にまで遡って、プロイセン対仏作戦計画の変遷を追っていることです。じつはこれ、典拠をたどっていくと、統一後の東ドイツから出てきてブンデスアルキーフ(ドイツ連邦公文書館)にごっそり移管されたもので、関連論文と共に次の著作におさめられています。ただドイツ語であることを脇に置いても、生資料として読みやすいものではありません。巻末の年次別作戦計画一覧表は作戦計画書の目次みたいなものが羅列されているようにしか見えず、どうやら各作戦計画の主な動員兵力と重要な前提だけで、机上演習の結果などは所収の各論文を丹念に読むしかないようです。


Hans Ehlert, Michael Epkenhans, Gerhard P Groß (eds.)

Der Schlieffenplan: Analysen und Dokumente: Analysen und Dokumente. Herausgegeben im Auftrag des Militärgeschichtlichen Forschungsamtes und der Otto-von-Bismarck-Stiftung (Zeitalter der Weltkriege)

Brill / Schöningh(2007)


 おそらく動員速度が仏露で違うだろうという予測からでしょうが、「まずフランス、次いで取って返して対ロシア」という発想の作戦は大モルトケの引退前から見られます。ただしそれはフランス軍を一撃して限定的な勝利を得るといったもので、一気にパリを衝いて城下の盟……といったものではありませんでした。


 推進者シリ・ド・リヴィエ将軍の名から、普仏戦争以後のフランス対独国境要塞帯は

Système Séré de Rivières、または「鉄の壁」Barrière de ferと呼ばれています。

Séré de Rivières System(Système Séré de Rivières)

https://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A9r%C3%A9_de_Rivi%C3%A8res_system

https://fr.wikipedia.org/wiki/Syst%C3%A8me_S%C3%A9r%C3%A9_de_Rivi%C3%A8res

https://de.wikipedia.org/wiki/Barri%C3%A8re_de_fer


 アルザス・ロレーヌを取られている関係で後世のマジノ線とは重なりませんが、例えばヴェルダン要塞はその主要なピースであり、ルクセンブルク国境から西になるとぐんと熱量が下がります。予算や人手の問題でもありましょうし、平地でしかも人口密集地帯に要塞建ててどうすんだという話でもありましょう。1888年から3年務めたヴァルダーゼーをはさみ、1891年に参謀総長となったシュリーフェンは、次第にルクセンブルクやベルギーの中立を侵して、比較的防御の薄いフランス国境を突破することを考え始めます。そして予備師団どころかラントヴェーア旅団(日本風に言えば、後備歩兵旅団)も駆り出す作戦計画を立て始めます。もちろん国際政治上の異なる想定の下、いくつか作られた計画のひとつということでしたが。


 ドイツ側も普仏戦争後の新国境に沿って要塞を築き始め、Moselstellungと呼ばれましたが、シュリーフェン時代にベルギー侵攻が意識されるにつれ、「少ない兵力でフランス軍を食い止める時間稼ぎ」といった意味合いを持たされました。


Moselstellung 1914

https://de.wikipedia.org/wiki/Moselstellung_1914


 1905年、ロシアは日露戦争の負担と「血の日曜日」に始まる国内騒擾でドイツへの脅威を減じていました。これを背景に、1905年6~7月に行われた参謀本部図上演習では、常備軍団すべてと予備師団の多くをフランスに投じる作戦計画が試され、フランス野戦軍が次々と壊走する結果が得られました。もっとも同年12月の演習では、同年成立した英仏協商に基づいてイギリスが3個軍団を増援する想定となり、夏の演習ほどの大差はつきませんでした。


 この「特殊すぎる状況」での検討結果を最後に、シュリーフェンは勇退し、小モルトケが参謀総長を引き継ぎました。このころシュリーフェンが小モルトケに送ったメモランダムが、「シュリーフェン・プランの現物」扱いされるものです。オリジナルは戦災で失われましたが写しが残っていて、ドイツ語版Wikipediaにイメージがあります。


https://de.wikipedia.org/wiki/Schlieffen-Plan#Denkschrift


 ただしシュリーフェンはここで「8個軍団の新設」を提案しています。1個軍団が3個師団であるなら24個師団です。日露戦争から昭和初期までの日本陸軍は「常設師団」1個につき有事に「特設師団」1個を編成し、主にあまり年を取っていない予備役軍人を当てることとしていましたが、ドイツ帝国も同様のシステムです。これを計算に入れて、まだ足りないのです(毎年改訂される作戦計画には予備師団や後備旅団も入っていますから、このメモランダムでもそれは当然勘定しているでしょう)。その意味で、このメモランダムは存在しないドイツ軍を加えた「仮想例」であるし、図上演習にかけて大人数で整合性を試したりしていないのです。


「大人数で整合性を試していない」ことから、いろいろな問題が派生しますが、主に補給と移動が問題です。フランス軍を(国境要塞から遠い)野戦において迅速に包囲殲滅するには、(両軍)動員直後のぶちかましで長距離機動を決めないといけないのですが、そんな都合のいい方向に鉄道は通っていませんし、だいたい一番都合の良い敵国路線は撤退時に破壊されるのが当然です。「8個軍団の新設」が年配応召兵で埋められるとしたら体力的な問題もあります。そしてそれらの困難は、補給物資の輸送についても言えるのです。


 では平時の徴兵を増やすのはどうでしょう。ドイツ帝国憲法第60条は、ドイツ陸軍の平時兵員を人口の1%と定めています。これはドイツ帝国を構成する領邦や自由都市の負担公平化をルール化したもので、徴兵増員は憲法改正問題になるのです。もちろんこれは時間がかかる公然たるプロセスですから、英仏露も反応しますね。軍人なら「それは政治家の考えることだ」と思考停止してしまうのかもしれませんが。


 こうしたことを考えていないメモランダムは「お気持ち表明」の域を出ないのだから、シュリーフェンプランなどは最初から存在しないのだ、と結論する研究者もいるそうですね。そのお気持ちはわかりますが、前史をご説明したように、「まずフランスを短期で叩く」のはシュリーフェンが思いついたわけでもなく、実施すればぼろが出る粗い作戦であったとしても、参謀本部内にずっとアイデアはあったと受け取る方が自然なように思います。


「突破よりも包囲殲滅の方が作戦のキモだ」という別の研究者の主張は、もう少し慎重に考える必要があります。モーゼルシュテルンクを固めているわけですから「ドイツ国内に引き込んで一網打尽」という考えは少なくとも1905年前後には(あっても)捨てられていたと思いますが、1905年の2回目の図上演習でも、フランス軍はベルギーに足をかけたあたりで包囲されかかっていたと言います。「ベルギーで機動戦をやって、鈍重なフランス軍を囲んで仕留める」というイメージは、場合分けのひとつとして参謀士官たちの心にあったかもしれませんね。もちろん「その場に先着する」ことが包囲のチャンスを大きくするのですし、まさにそれが1940年に起きたことではないでしょうか。


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