#6 生命の源流、ルビーの深淵
ティロリン♪
『今日、仕事終わりの十七時に三鷹駅で待ち合わせできる?』
「ん……あかん、寝てたわ。LINE……渋井くんか。えーと、この後は……」
みりあは画面をタップし、『ええよ』とだけ返信した。
ティロリン♪
『じゃあ、生命の源流に触れに行かないかい?』
「……は?」
『生命の源流て?』
ティロリン♪
『虚飾を脱ぎ捨てて、すべてを曝け出そう』
「……」
『漢字がわからへん』
ティロリン♪
『きょしょくをぬぎすてて、すべてをさらけだそう』
「……」
『は?』
ティロリン♪
『つまり、みりあちゃんの本当の熱を僕は知りたいんだ』
「どういうことや……」
『どういうことや』
ティロリン♪
『文字通りだよ。ありのままの「生」を、僕たちで味わい尽くしたいんだ』
「……こいつ、またワケわからんことを」
『生って?』
ティロリン♪
『うん。新鮮さが命だからね。きっと、今までにない濃厚な体験になるよ』
「…………ん?……え、ちょっと、まさかやと思うけど……」
『濃厚な体験?』
ティロリン♪
『最高の夜にしよう。身一つで来てくれればいいから』
「……やっぱやん!! え、ほんまに……すんの……⁉」
『ようわからんけど、三鷹行くわ』
ティロリン♪
『楽しみにしてるよ』
画面に浮かび上がる拓海からのメッセージに、みりあは震える指で『よろしゅう!』とサムズアップする関西弁ネコのスタンプを送信した。直後、みりあは無言でソファのクッションに顔をうずめた。
「……っ!……っ!……っ!……っ!」
激しく悶絶した後、バクンッと体を仰向けにして叫ぶ。
「な、ななな……なんやねん……!! 突然発情すんなや、渋井くんのくせに……!!」
スマホを握りしめたまま、みりあは顔を真っ赤にした。
「あっ!」
そういえば……と、みりあには思い当たる節がある。少し前に二人で近所を歩いていた時のことだ。前を歩く、小さな子どもと手を繋いで笑い合う三人家族の姿を見つめながら、拓海はふと「いいなぁ……」と熱を帯びた声で呟いていたのだ。
『生命の源流──すべてを曝け出す──本当の熱』
あの時の呟きと、このLINEのメッセージ。点と点が線で繋がった。それはもう間違いなかった。
〝子作り宣言〟
あるいは、理性のタガを外した濃厚な一夜への宣戦布告である。
勝負まではあと四時間。浴室の鏡の前で、みりあは己の肉体と人生最大ともいえる〝セッティング〟を繰り広げていた。
「……二十代の最後。まだまだ女盛りや。大人の色気、見せつけたる」
ドンキで買ったものではない、高級なボディクリームを肌に叩き込み、ウエストのくびれから脚のラインまで、毛穴の一つ一つを精査するように見つめる。
「♪ふんふふ~ん、しぶいくんは~すけべ~」
髪はナチュラルなウェーブヘアにセットし、フラワーモチーフのピンを髪全体ではなく、サイドの一部にだけ多用して留めることで、大人の色香と抜け感を両立させた。用意した勝負服は、背中が腰のあたりまで大胆にV字に開いた、白のリネン・バックレスワンピースだ。
「少しやり過ぎか……?」
いや、これくらいで丁度いい。下着のラインが響かないよう、潔くワンピース一枚だけを素肌に纏う。足元はレースアップのグラディエーターサンダルで、これぞセクシーな野生味を演出した。
無駄のない集中した動作により、セッティングはたったの二時間半で完了した。
「いってきま~す」
みりあは甘い鼻歌を漏らしながら、浮き足立つような軽やかな足取りで家を出た。
「おっ、アンタもええオトコ見つけや♪」
マンションの下でよく見かける愛想のない野良猫にまでウインクを飛ばす。実はその野良猫は立派なオスなのだが、もちろんみりあはそんなこと知る由もないし、今の彼女には全く関係のないことだった。猫は冷ややかな目でみりあの背中を見つめていたが、今日のみりあは、誰がどう見ても無敵のオーラを纏っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
三鷹駅のロータリーを囲むように並ぶ街路樹の緑が五月の陽光に映え、行き交う人々の足取りもどこかのんびりとしている。いつもなら拓海が先に着いて待っているのが常だが、今日ばかりは気合の入り方が違った。みりあは待ち合わせの十分前には駅に到着し、スマホの画面でリップのノリを確認したり前髪をいじったりと、そわそわしながら拓海の姿を探していた。
やがて、穏やかな駅前の雑踏の中に、サファリ調のハンティングジャケットのインナーに白のヘンリーネックカットソーを合わせ、焦げ茶のワークブーツという、あたかもこれから未知の密林へ分け入るかのような狩人の装いに身を包んだ拓海が現れた。
その姿を視界に捉えた瞬間、みりあは先ほどの落ち着きのなさを瞬時に消し去り、何事もなかったかのようにすまし顔を作った。
「ごめん、みりあちゃん。待ったよね?」
「……あーん? 別にー、ええよー」
少し急いだ様子で現れた拓海に対し、みりあは心臓の爆走を悟られまいと、努めて余裕のある淑女を装った。素知らぬ顔で応えるみりあだったが、背中をフルオープンにしたその姿は、五月の陽光の下で異様なまでの色香と存在感を放っていた。
拓海はそんな彼女を、獲物を見定めるような熱を帯びた目で見つめる。
「……今日のみりあちゃんからは、生命の鼓動が聞こえてきそうだね」
「せっ、せせせいめい⁉ って……なんやのん、もうっ」
「フフッ。じゃ、行こうか」
みりあは激しく打ち鳴らされる心音を抑え込み、拓海の後をおずおずと追った。
拓海は駅前の喧騒を背に、静かな住宅街の方へと歩を進めていく。立ち並ぶマンションや戸建ての建物が増え、人通りもすっかりまばらになっていた。みりあは、大胆に開いた背中を撫でる五月の夜風に身震いしながら、拓海の背中をじっと見つめる。
(……この先って、もしかしてホンマにそういうホテル街なん⁉)
期待と緊張で高鳴る心臓を抑えきれないまま、みりあは路地の角を曲がった。
しかし、辿り着いたのは不気味なほど緑のツタに覆い尽くされた古い建物だった。
「着いたよ、みりあちゃん」
「は、はい❤ って……え?っと……ち、ちょっと……な……なんやのここ⁉」
色褪せた赤い看板の文字はひび割れ、軒先には白い暖簾と黄色い提灯が風に揺れている。入り口の横にはビールの空き瓶が入った黄色いプラスチックケースが山積みにされ、オーガニックな雰囲気など微塵も感じられない。
「……な、なぁ、一応聞くわ。また嘘ついてへんやろな……? ここが〝目的〟の場所なんやんな?」
「もちろんだよ。文明の皮を剥ぎ取った者だけが許される、生命の神殿さ」
みりあの瞳孔がカッと開く。
「こんのぉ、ボケ……」
(……待て待て、落ち着けあたし。まだ諦めたらあかん!)
怒りを吐き出そうとしたみりあは、必死に自分に言い聞かせた。
そうだとも、いきなり直球は投げてこない。相手は渋井くんだ。まずはこういうクセの強い店で気分を高めて、精をつけてから、その後に〝お目当て〟の展開が待っているに違いない。
「さあ、みりあちゃん。中へ入ろう」
これは壮大な〝前戯〟……のはずなのだが──
「……めっちゃ、飲み屋やんっ!!」
引き戸を開けて店内に入った瞬間、みりあは思わず叫んだ。そこは想像を絶するカオスな空間だった。迷路のように入り組んだ木の柱、天井からぶら下がる扇風機や無数の提灯、壁という壁を埋め尽くす色褪せたポスターとメニューの短冊。極めつけは、まるで大木をそのまま切り出したような、分厚くて歪な形の木製カウンターだ。
「みりあちゃん、ここへ座って」
「え、あ……うん」
丸椅子に座らされたみりあは、背中どころかお尻のあたりまでスースーする心もとなさを意識しながら、隣の拓海を横目で盗み見る。
「ここは三鷹で有名な鳥料理の店さ。いよいよすべてを曝け出す時が来たよ」
「……なんや、もしかしてお酒を〝飲んでから〟ってことかいな」
「え? 飲んでから?」
「あっ! いや、まあええか……」
みりあはそう言って唾を飲み込み、そっと深呼吸をした。このカオスな空間ですら、都会の虚飾を脱ぎ捨てるための壮大な演出なのかもしれない。まだなのだ。まだ本物のラグジュアリーな〝その時〟が来る可能性は残されている。
目の前にドスンと置かれたのは、星のマークが描かれた分厚いジョッキと、茶色いガラス瓶だった。
「さあ、まずは乾杯しよう。都会の虚飾を洗い流す、大衆の聖なる水さ」
「なんやこれ。ビールちゃうんか? 新世界でもこんなん見たことないで。どうやって飲むん?」
大阪の居酒屋では見慣れない、焼酎だけが入ったジョッキと、麦酒風味の炭酸が入った茶色い瓶「ホッピー」。みりあが戸惑いながらも瓶の液体をトクトクと注ぐと、シュワシュワと黄金色の泡が立ち上がった。
「……どう見ても安っちい炭酸飲料やん」
「そのチープさが魅力なんだよ」
「まあええわ、乾杯!」
カチンと分厚いジョッキを打ち鳴らし、勢いよく喉に流し込む。
「……くぅーっ! あっさりやけど、妙にガツンとくるな。なんやこれ、めっちゃ美味しいやん!」
冷たい液体が、火照った体を内側から冷やしていく。チープだが妙にクセになるアルコール感だ。
そして、いよいよ本番の生命を感じさせる料理がやってきた。
「見てごらん。これが僕の求めていた〝生命の源流〟。剥き出しの命そのものだよ」
みりあの前に置かれたのは、ルビーのように深紅の輝きを放つレバーと、表面を軽く炙っただけの真っ白な鶏肉が盛られた皿だった。その上には、親の仇のように大量のネギと白ごまがぶちまけられ、皿の端には緑色のおろしニンニクとわさび、そしてごま油が添えられている。
「……え……〝生〟って、」
みりあは何かを悟った表情をした。
「どうだい、この圧倒的な鮮度。これこそが、僕たちの眠れる本能を呼び覚ます熱源……」
「……ち、ち、ちょっと待ってや!」
「え?」
「生とか、生命の源流とか……ただの生肉のことだったん⁉」
みりあの魂の絶叫が、店内のカオスな迷宮に激しく木霊した。
「すべてを曝け出すって、鶏の内臓を曝け出すって意味やったんかい!!あたしの勝負ワンピと、ここまで何時間もかけた気合、どうしてくれんねん!!」
「何を怒っているんだい? 徹底した温度管理と繊細な冷製処理によって、素材本来の〝生〟の輝きが閉じ込められているんだ。これ以上に曝け出された命が、どこにあると言うんだい?」
「やかましいわ!! 命の源流って、もっとこう、男と女の……」
「男と女の……?」
「……ああもう! 言うてて虚しくなってきたわ……」
「なんだかよく分からないんだけど……一旦落ち着こう。ひと口、食べてごらん」
毒気を抜かれたみりあは涙目になり、半ば自暴自棄になって箸で深紅のレバーをごま油にくぐらせ、一切れ口に運んだ。
「……っ!!」
ひんやりと冷たく、ねっとりと舌に絡みつく濃厚な甘み。鮮烈な鉄分の香りと、それを包み込むごま油の香ばしさ。噛むほどに生きた旨味が、食道を通って全身へ流れ込んでくる。
「なんやこれ……悔しいけど、めっちゃ美味しい。ほんまに命の味がするわ」
「だろう? 鮮度が良いからこそ味わえる、本物の〝生〟さ」
「むぅぅ……でも、なーんか納得できひん」
「さあ、次はこれ。野生の極みである自家製つくね串さ」
続いて出されたのは、粗挽きの鶏肉がゴツゴツと丸められ、炭火で豪快に炙られた二本のつくね串だった。横には太陽のように鮮やかな黄身が添えられている。
「めっちゃええ匂いするやん……」
黄身をたっぷりと絡めてひと口齧ると、軟骨のコリコリとした食感とともに、閉じ込められていた熱い肉汁がジュワッと溢れ出す。
「熱っ!! でも……ウんマっ!!」
濃厚な甘辛いタレとまろやかな卵が、野生味あふれる肉の旨味を完璧にコーティングしていた。
「これも最高だろう? ほら、もっと野生を曝け出して」
「あー、これもたまらん!! もうどーでもええわ! この瓶のやつ、おかわりちょうだい!!」
みりあは、背中が開いたお洒落なワンピのことなどもう忘れた。泣いているような喜んでいるような顔でホッピーを豪快に煽り、つくねを食らい、血の滴るような鶏刺しを貪った。
◇ ◇ ◇ ◇
「ふー、食うた食うた。くそ〜思ってたのとちゃうけど、ある意味人生で一番旨い肉刺しやったわ」
「フフッ、満足してくれたようで良かったよ」
「あーあ、味だけはいつも本物やからなー」
食後の帰り道。三鷹の夜風が、露出したみりあの白い背中を心地よく撫でていく。それなりに上機嫌なみりあに対し、拓海は少しだけ言いにくそうに視線を彷徨わせて囁いた。
「……でも、今日のみりあちゃん、なんか変だよね?」
「えっ!……いや、そんなこと……」
「駅からずっと、隙あらば僕を押し倒しそうな殺気すら感じていたんだ」
ふいにみりあは立ち止まり、それに気づいた拓海が顔を向ける。
「……なんや……」
みりあは胸の奥に澱んでいた小さな熱を、ため息と一緒に吐き出すようにぼそりと呟いた。拓海は聞き取れず、怪訝な顔をする。
「え? 何か言ったかい?」
拓海が聞き返すと、みりあはさらに声を潜めて恨み節をこぼす。
「……なんや。子作りちゃうんかったんかい、って……」
「えっ、子作り⁉ なんで……?」
「だって! あんた、この間家族連れ見て『いいなぁ』って言うてたやんか!」
「家族連れ?…………あぁ、あれ? あれは家族連れの後ろにあった、渋い赤提灯のモツ焼き屋のことを言ったんだよ」
「モツ、焼き屋……」
「素敵な店構えでさ、今度一緒に……」
「はあぁぁぁぁぁぁ⁉」
その瞬間、みりあの脳内に数日前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。確かにあの時、拓海の視線は幸せそうな家族の頭上を通り越し、その奥でもうもうと煙を上げる煤けた赤提灯に真っ直ぐ注がれていた。そう、すべてがみりあの早とちりだった。
とっておきの勝負下着。背中を全開にしたワンピース。駅で彼を待っていた時の高鳴る鼓動。それらすべてが、自分一人だけの盛大な一人相撲だったという事実が、みりあの全身を容赦なく駆け巡る。
顔から火が出るほどの恥ずかしさと、勝手に期待して見事に空回りした自分へのくやしさ。そして、ほんの少しだけ胸の奥をチクリと刺す、「そうじゃなかったのか」という悲しみ。湧き上がる複雑でみじめな感情を、誰にも見せないように、一人でゴクリと喉の奥に飲み込み、地を這うような低い声で静かに言い放った。
「…………あとで、しばいたるからな」
「え、なんで、みりあちゃ……」
言葉を遮りスタスタと拓海から離れるように歩き出し、数歩進んだところでピタリと立ち止まる。そして、勢いよく振り返ると、顔を真っ赤にしたまま拓海に向かって叫んだ。
「この、どアホッ!!」
みりあはサンダルを激しく打ち鳴らして、静かな三鷹の住宅街を猛ダッシュで駆け抜けていった。
残された拓海は、ぽつんと一人きり。なぜ彼女が突然走り去ったのか全く理解できず、頭の上にいくつもの疑問符を浮かべて不思議そうに首を傾げている。
その頭上には、五月の生温かい夜風の中、ぼんやりと月が浮かんでいた。
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