第四話 朝粥と西水車小屋
# 第四話 朝粥と西水車小屋
境界行者組合の朝粥は、白く、温かく、そしてキサーラ・ディナン・メルにとっては、きわめて複雑な物体であった。
椀の中には、米に似た穀物が煮込まれている。
そこへ細かく刻んだ薬草、干し肉、塩、わずかな油が加えられていた。
表面には、青白い小さな光がひとつ浮かんでいる。
キサーラは、それを見つめた。
「これは何ですか」
「粥だ」
ニム・アラタが答えた。
「栄養補給用の流動食ですか」
「言い方」
「間違っていますか」
「間違ってはいないけど、飯がまずく聞こえる」
隣のバルグ・オルムが、すでに二杯目を食べていた。
「熱いうちに食え。冷めると薬草の苦味が出る」
「この光は」
キサーラは椀の上に浮かぶ微光を指した。
リュカ・セレネが短く答える。
「胃守の小精霊。旅人の腹を壊しにくくする」
「食品に精霊が付与されています」
「そう」
「食べても問題はありませんか」
「むしろ食べないと、店のおばさんが怒る」
それは栄養上の問題ではなく、社会上の危険らしい。
キサーラは匙を取り、慎重に粥を口へ運んだ。
熱。
塩味。
薬草の香り。
柔らかい穀物の感触。
舌の上で広がる脂。
喉を通り、胃へ落ちてゆく重さ。
すべて記録可能だった。
だが、ただの記録では足りなかった。
キサーラは数秒、動きを止めた。
「どうした?」
ニムが尋ねる。
「……悪くありません」
「それは褒めてるのか?」
「肯定的評価です」
「なら、うまいって言えばいい」
「うまい」
広間の隅で、粥をよそっていた大柄な女主人が笑った。
「金ぴかの姉さん、分かってるじゃないか。おかわりは?」
「一杯で十分です」
「遠慮はいらないよ」
「摂取上限ではなく、任務上の判断です」
女主人は、少しだけ首をかしげた。
「変わった子だねえ」
「よく言われます」
言ってから、キサーラは気づいた。
まだ、ほとんど言われていない。
だが、この先は何度も言われるだろうと予測されたため、返答として妥当と判断した。
ニムが笑いをこらえている。
リュカは、わずかに口元をゆるめた。
バルグは粥をかき込みながら、キサーラの腰に目を向けた。
「ところで、その剣だ」
キサーラは視線だけを下げた。
腰には、黄金色の細身の長剣が佩びられている。
鞘も柄も過度に美しいが、装飾品ではない。
それは、彼女の義体と同じく、外縁の隠遁圏で作られた装具であった。
「見た目は金だが、金じゃないな」
「はい」
「炉で打った気配もない。火の匂いがしない。なのに、妙に硬そうだ」
「高次相転移合金です」
バルグの手が止まった。
「何だ、それは」
「相を変える合金です」
「説明になってるようで、なってない」
ニムが横から覗き込む。
「名前はあるのか?」
「高次干渉剣アウルム・メル」
広間の何人かが、こちらを見た。
キサーラは視線の変化を検出した。
この名は、現地社会ではやや過度に仰々しいらしい。
バルグは低く唸った。
「アウルム・メル、か。聖剣みたいな名だな」
「聖なる要素はありません」
「持ち主がそう言っても、周りはそう見ないぞ」
リュカが静かに言った。
「抜かない方がいい」
「了解しています」
「本当に?」
「現時点では、通常戦闘さえ回避すべきと判断しています」
ニムが匙を置いた。
「それはありがたい。初仕事で町を半分壊されても困る」
「町の破壊は予定にありません」
「普通は予定しない」
朝食の後、マイラから渡された依頼札をもとに、四人は西水車小屋へ向かう準備を始めた。
リュカは短弓と矢筒を確かめる。
ニムは剣帯を締め直し、革袋に干し肉と水筒を入れた。
バルグは工具袋の中身を並べ、槌、楔、油差し、細い針金を順に確認していく。
キサーラはそれを観察した後、右手を軽く開いた。
掌の上に、琥珀色の光が一筋走る。
次の瞬間、細長い銀色の筒と、小さな試料容器が現れた。
ニムの動きが止まる。
「今、どこから出した?」
「琥珀庫です」
「こはくこ」
「局所位相格納領域です」
「……リュカ、分かるか?」
「高位の精霊倉みたいなもの?」
「近似しています」
バルグが興味を隠さずに近づいた。
「どのくらい入る?」
「体積より質量が制限要因です」
「重さか」
「はい。収納物の質量は消えません。ずれた位相領域へ移しても、位相錨に負荷が残ります」
ニムは眉を寄せた。
「つまり、袋は大きくても、重い物を入れると壊れる?」
「おおむね正確です」
「また出たな、おおむね」
バルグは真剣な顔で頷いた。
「それは分かる。鉱石を袋に詰めすぎれば、袋じゃなくて腰が死ぬ」
「近い理解です」
「俺にも分かる説明だった」
キサーラは少し考えた。
「では、今後は鉱石袋の例を使用します」
「いや、そこまで気に入らなくてもいい」
準備を終えると、四人は組合を出た。
リムナ・ヴェルの西門を抜けると、道はすぐに細くなる。
石畳は土道へ変わり、左右には麦に似た背の低い作物畑が広がっていた。
ところどころに水路が走り、その水面には薄い青い光が浮かんでいる。
キサーラは歩きながら、周囲の精霊反応を読んだ。
水路には、小さな水精がいる。
畑には土の微精霊。
道端の石には、古い標識精霊の残響。
その多くは安定していたが、西へ進むにつれ、水の反応だけが少しずつ乱れていった。
「検出しました」
キサーラは足を止めた。
「何を?」
「水系の応答に揺らぎがあります。周期は不規則。原因は未確定」
リュカは水路のそばへ膝をついた。
指先を水面に触れる。
「……怯えてる」
「水が?」
ニムが尋ねる。
「水じゃない。水にいる子たち」
バルグも水車小屋の方角を見た。
「あそこは古い歯車が多い。錆びた鉄と水精は、相性が悪い時がある」
「錆びた鉄が精霊を乱すのですか」
「鉄が悪いんじゃない。手入れされなくなった鉄が悪い。忘れられた道具は、よく拗ねる」
キサーラは、その表現を記録した。
忘れられた道具は拗ねる。
合理的表現ではない。
だが、この世界では時に事実に近い。
やがて、西水車小屋が見えてきた。
それは小さな川沿いに建つ、古い木造の建物だった。
大きな水車は半分ほど苔に覆われ、軸のあたりには赤黒い錆が見える。
水は流れている。だが水車の回転はぎこちなく、時折、引っかかるように止まり、また思い出したように動いた。
建物の周囲には、誰もいない。
ただ、昼間だというのに、小屋の窓の奥で青白い光が瞬いていた。
一つ。
二つ。
五つ。
十。
そしてまた、一つ。
光の数が、安定しない。
リュカが弓を手に取った。
「いる」
ニムも剣に手をかける。
「魔獣か?」
「違う。たぶん精霊」
バルグは工具袋を下ろした。
「まず水車を止めるか?」
キサーラは額の琥珀端末に意識を向けた。
視界の奥に、別の層が開く。
水。木材。錆。古い歯車。微細な機械部品。精霊群。
そして、その奥にごく薄く、旧文明由来の信号。
西水車小屋は、ただの水車ではない。
古い。
あまりにも古い。
「待ってください」
三人が彼女を見る。
「この小屋には、旧い構造が残っています」
「旧いって、どのくらい?」
ニムが尋ねた。
キサーラは、目を細めた。
「少なくとも、現在の町より古い」
「それはまあ、そうだろうな」
「おそらく、現在の文明より古い」
空気が変わった。
バルグの顔から笑みが消える。
リュカは森の方ではなく、水車小屋を見たまま、息を潜めた。
小屋の中で、青白い光がまた増えた。
その光の奥から、かすかな音が聞こえた。
水音ではない。
歯車の音でもない。
誰かが、泣いているような音だった。
キサーラは、右手を腰の剣に近づけた。
しかし、まだ抜かない。
リュカの言葉を思い出す。
まず聞く。
次に見る。
それから動く。
キサーラは、ゆっくりと水車小屋へ一歩近づいた。
「交信を試みます」
琥珀の光が、額で静かに灯った。




