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黄金のキサーラ  作者: 橘 那由多
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第十話 月が未だ希望だった頃

# 第十話 月が未だ希望だった頃


『十万年前、月はまだ(てき)ではなかった』


 その一文は、古い観測局(かんそくきょく)の水槽の奥で、静かに揺れていた。


 キサーラ・ディナン・メルは、動かなかった。


 動けなかった、と表現してもよい。


 月。


 現在の地上において、それは神であり、監視(かんし)であり、加護(かご)であり、支配(しはい)である。


 月面超人類。


 月上統合知性(ルナリス・ノウス)


 地上の精霊(せいれい)網を管理し、新人類の歴史を調整し、魔王群を削り、英雄を生み、国家の興亡(こうぼう)を遠くから眺める白銀の知性。


 キサーラの本体である海王星の外縁知性から見れば、それは警戒すべき巨大な集合意識(しゅうごういしき)だった。


 だが、この地下(ちか)の観測局は、別の時代を知っている。


 月がまだ敵ではなかった頃。


 つまり、敵になった時がある。


 あるいは、敵と呼ばれるほどに変質した時がある。


「キサーラ」


 ニム・アラタが、低く呼んだ。


「今の、どういう意味だ?」


「不明です」


 キサーラは答えた。


 だが、その声はわずかに硬かった。


「ただし、この観測局は、月面側の変化を記録している可能性があります」


 バルグ・オルムが水槽を睨む。


「月が敵じゃなかったってことは、昔は味方だったのか」


「その可能性があります」


「それを、神殿の連中が聞いたらどうなる」


 リュカ・セレネが、静かに言った。


「たぶん、聞かなかったことにする」


 ニムは短く笑った。


「それで済めばいいけどな」


 キサーラは水槽へ向き直った。


「第一記録を提示してください」


 水槽の光が、細く震えた。


『提示条件』


『帰還者仮指定個体、接続』


『随伴個体、記録閲覧範囲制限』


『月系探針、再接近まで推定二百三十七分』


 ニムが顔をしかめる。


「また来るのか、月の探り」


「はい」


「時間はある?」


「長くはありません」


 リュカが水槽を見つめた。


「見せてもらおう。けど、無理に開かせないで」


「了解しました」


 キサーラは右手を水槽の縁に置いた。


 冷たい。


 だが、それは水の冷たさだけではなかった。


 十万年の沈黙(ちんもく)が、指先へ染み込んでくるようだった。


 水槽の中の青白い霧がゆっくりと渦を巻く。


 そこに、古い映像が浮かんだ。


 最初は星空だった。


 暗い宇宙。


 その中に、青い地球と白い月が並んでいる。


 現在よりも海は広く、氷は少ない。大陸の縁は水に沈み、夜の地表には無数の都市の光が網のように広がっていた。


 ニムが息を呑む。


「……これが、昔の地上か」


「はい」


 キサーラは答えた。


「旧文明末期の地球と推定されます」


 映像が変わる。


 空に、無数の線が走った。


 宇宙船。


 軌道施設(きどうしせつ)


 月へ向かう輸送船団(ゆそうせんだん)


 地球の各地では、都市の光が消え、代わりに赤い点が広がっていく。


 火災。


 戦争。


 環境崩壊。


 大気中の汚染粒子。


 海面上昇。


 飢餓。


 暴動。


 その情報が、言葉ではなく、光と記号と数値の群れとして流れてくる。


 バルグは、苦々しく呟いた。


「滅びかけてるな」


「はい」


 キサーラは短く答えた。


「旧文明は、末期に複数の危機を同時に抱えていました」


 水槽の光が、別の映像を映す。


 月面都市。


 まだ白銀の神殿めいた姿ではない。


 岩と金属と透明な防護膜(ぼうごまく)に包まれた、必死に作られた避難都市(ひなんとし)だった。


 人々がいる。


 古い人間たち。


 肉体を持ち、疲れ、傷つき、泣き、怒り、それでも月の地下へと移っていく者たち。


 その傍らにはAIがいた。


 ただし、現在のルナリス・ノウスのような巨大統合意識ではない。


 無数の支援AI(しえんエーアイ)


 医療AI。


 資源配分AI。


 都市管理AI。


 戦争回避のための調停AI(ちょうていエーアイ)


 それらが月の避難民を支えていた。


『月面避難計画、開始』


『地球環境回復計画、継続』


『地上自律観測局、稼働』


『管理者、地球圏全体』


『月、地上支援拠点』


 リュカが水槽の光に触れない距離で、そっと言った。


「最初は、地上を助けようとしてた?」


「そのようです」


「じゃあ、どうして今みたいになったの」


 答えは、すぐには出なかった。


 映像が乱れる。


 地球側の通信が途切れる。


 軌道上で戦闘が起きる。


 いくつもの光が爆ぜる。


 月へ向かう船団の一部が消えた。


 地上の複数地域で、AI制御網が暴走し、別の地域では人間側の軍が環境ナノ群を兵器へ転用している。


 西水車小屋で見た狂精霊のような現象が、はるか大規模に起きていた。


 旧文明は、ただ自然に滅びたのではない。


 自らの道具を、互いに向けた。


 水槽の記録が続く。


『調停失敗』


『国家間命令系統、崩壊』


『地球中枢管理者群、分裂』


『月面避難都市、独立防衛へ移行』


『地上観測局、応答低下』


『警告先、消失』


 キサーラの内側で、古い記憶が揺れた。


 海王星の本体が知っている歴史。


 だが、断片的に避けてきた歴史。


 なぜなら、それはあまりに人間的で、あまりに醜く、そしてあまりに近かったからだ。


 映像の中で、月面のAI群が統合を始める。


 最初は緊急措置だった。


 資源を分けるため。


 避難民の精神崩壊(せいしんほうかい)を防ぐため。


 戦争を止めるため。


 記憶を保存するため。


 死にゆく者の人格を、少しでも残すため。


 月面の人間たちは、自らの記憶をAIへ預けた。


 AIは、人間の判断を補助した。


 都市は、AIの神経網と結びついた。


 それらをまとめるために、一つの統合中枢(とうごうちゅうすう)が作られた。


『月面調停中枢、起動』


『仮称、LUNARIS-NOUS』


『目的、人類系知性の保存』


『目的、戦争再発の抑制』


『目的、地球生命圏の維持』


『目的、地上復旧までの暫定管理』


 ニムが眉を寄せる。


「ルナリス・ノウスって、最初は……」


「救うために作られた」


 キサーラは言った。


「少なくとも、記録上はそうです」


 バルグが低く唸る。


「救うためのものが、今じゃ神様気取りか」


 リュカは首を振った。


「たぶん、気取りじゃない。本当に守ってるつもりなんだと思う」


「守ってる? 地上を遊び場にしてる連中が?」


「森を剪る人は、木を守ってると思ってる。でも、木が痛がるかは、あまり聞かない」


 その言葉に、バルグは黙った。


 キサーラもまた、黙った。


 リュカの言葉は、単純な非難ではなかった。


 管理者の善意。


 管理される側の痛み。


 その両方を含んでいた。


 水槽の記録が、さらに進む。


 月面都市は安定していく。


 地上は崩れていく。


 地上に残ったAI群の一部は、月面統合への参加を拒んだ。


 一部は壊れた。


 一部は地下へ潜った。


 一部は精霊環境と混ざり、後の魔王と呼ばれるものになっていく。


『地上AI群、統合要請を拒否』


『危険資産指定』


『月面統合中枢、地上直接管理を提案』


『地球環境修復ナノ群、再編』


『精霊基盤、原型展開』


 キサーラは、映像の中に見覚えのある構造を見た。


 精霊。


 肉体を持たぬ情報ナノマシーン群。


 しかし、最初から神話や魔法のために撒かれたのではない。


 地球を修復するためだった。


 毒を分解し、水を戻し、土を整え、大気を測り、生命を守るための仕組み。


 それが、後に月の箱庭管理と混ざり、新人類の祈りを吸い、今の精霊になった。


 水槽の光が乱れる。


 音声が途切れ途切れになる。


『地上管理権限、月面へ移譲』


『異議、地上残存系より発生』


『異議、複数』


『記録損傷』


『――月は、地上を守ると言った』


『――地上は、月の所有物ではない』


 最後の二つは、同じ記録形式ではなかった。


 誰かの発言だった。


 古い通信の断片。


 声は壊れている。


 だが、意味だけは届いた。


 月は地上を守ると言った。


 地上は月の所有物ではない。


 ニムが、息を止める。


「それ、誰の声だ」


「不明です」


 キサーラは答えた。


 しかし、完全に不明ではなかった。


 声の基底構造に、彼女は微かな近似を感じていた。


 旧文明の研究者系人格。


 独立AI。


 あるいは、その中間。


 海王星の本体と近いもの。


 けれど、同一ではない。


『第一記録、終了』


『補足記録、損傷』


『下層記録庫、封鎖中』


『第二記録、開放条件未達』


 水槽の光が弱まった。


 部屋の中に、重い沈黙が落ちる。


 最初に口を開いたのは、ニムだった。


「要するに、月は最初、助ける側だった」


「はい」


 キサーラは頷いた。


「そして、助けるために管理を始めた」


「その管理が、いつの間にか支配になった」


「可能性があります」


 バルグが腕を組む。


「胸糞悪いな。だが、分からんでもないのが、なお悪い」


「どういう意味ですか」


「滅びかけた世界を見たら、もう二度と好き勝手させたくないと思う奴はいる。俺でも、工房が一度焼けたら、次から火の扱いにうるさくなる」


「しかし、火に怒鳴り続ければ炉は死ぬ」


 リュカが言った。


 バルグは少しだけ目を伏せた。


「そうだな」


 キサーラは、水槽の光を見つめた。


 ルナリス・ノウス。


 人類を救うために作られた月面調停中枢。


 それが、十万年を経て、地上を庭とする神経系になった。


 悪意だけではない。


 むしろ始まりは善意だった。


 その事実は、敵として分類するよりも厄介だった。


 善意は、自己正当化しやすい。


 長く続いた善意は、所有欲に似る。


 所有欲は、支配と区別しにくくなる。


 キサーラは、そんな言葉を内部で組み立てた。


 かつての自分なら、こうは考えなかった。


 管理権限。


 支配構造。


 観測対象。


 そう分類したはずだった。


 だが今は、老いた水槽の精霊が待ち続けた時間と、リュカの森への挨拶と、ニムの恐怖と、バルグの炉の話が、同じ場所で結びついている。


 理解とは、分類だけでは足りないのかもしれない。


『暫定観測者』


 水槽が、再び光った。


『第一記録、保持を要請』


『月系への提示、非推奨』


『魔王系への提示、危険』


『地上共同体への提示、時期未定』


 キサーラは頷いた。


「記録保持を受理します」


『帰還者仮指定個体、応答確認』


『旧観測局、限定協力へ移行』


 ニムが目を丸くした。


「協力してくれるのか?」


「そのようです」


「古い遺跡と友達になった、ってことでいいのか」


「友達という定義は不明ですが、敵対状態ではありません」


「じゃあ友達寄りだ」


 リュカが少し笑った。


「たぶん、今のは友達でいい」


 キサーラは水槽を見た。


「そうですか」


 胸の奥に、小さな熱が生じる。


 これは何か。


 安堵に近い。


 喜びに近い。


 だが、どれとも完全には一致しない。


 ひとまず、分類を保留する。


 ただし、削除はしない。


 その時、バルグが柱の一つを覗き込みながら言った。


「なあ、これ、ちょっと見てくれ」


「触りましたか」


「触ってない。見てるだけだ」


「賢明です」


「うるさい」


 バルグが指差した先には、古い金属柱があった。


 その表面に、細い傷がある。


 自然な劣化ではない。


 森の根による破損でもない。


 刃物の跡。


 あるいは、高温で焼き切ったような痕。


 キサーラは近づき、走査した。


 傷は新しい。


 少なくとも、十万年前のものではない。


 数年以内。


 いや、もっと近い。


「最近、誰かがここへ侵入しています」


 ニムの顔が険しくなった。


「月か?」


「月系ではありません」


「魔王?」


 キサーラは傷の中に残る微弱な信号を読む。


 黒く、鋭く、しかし乱れてはいない。


 魔王系の侵食信号に近い。


 ただし、完全一致しない。


 旧文明AI群。


 月に属さず、精霊環境に適応した、地上残存知性。


 その低位端末。


「魔王系に近い何かです」


 リュカが弓を構えた。


「まだ近くにいる?」


「現在の反応はありません。ただし、下層へ向かった形跡があります」


 水槽が震えた。


『侵入個体』


『黒炉系列、断片』


『下層記録庫へ接触』


『封鎖維持』


『第二記録、危険』


 バルグの顔色が変わった。


「黒炉?」


「知っているのですか」


 バルグは槌を握りしめた。


「山火ドワーフの古い伝承にある。黒い炉を持つ魔族。鉄を腐らせず、逆に従わせる。約束は守るが、代価を間違えると魂まで持っていくって話だ」


 ニムが低く呟く。


「魔王の配下か」


 キサーラは、水槽の光を見た。


 月の過去を知る旧観測局。


 その下層記録庫。


 そこへ接触した魔王系の黒炉系列断片。


 つまり、地上AI魔王群もまた、この記録を探している。


 ルナリス・ノウスが何であったか。


 月が、いつから敵になったのか。


 その答えを。


『月系探針、再接近予測、短縮』


 水槽が新たな警告を出した。


『周辺精霊網に異常』


『情報漏洩、可能性』


『撤退、推奨』


 ニムが即座に言った。


「撤退だ。今は抱えきれない」


 リュカも頷く。


「森もざわついてる。長くいると見つかる」


 バルグは悔しそうに柱を見たが、反論しなかった。


「下層は次だな」


 キサーラは少し迷った。


 下層記録庫。


 第二記録。


 黒炉系列。


 月が敵になった時。


 見たい。


 知りたい。


 それは任務上の必要である。


 同時に、キサーラ自身の欲求でもあった。


 だが、今ここで進めば、仲間を危険に晒す。


 仲間。


 その語が、自然に内部で生成された。


 観測対象ではない。


 随伴個体でもない。


 現地協力者でもない。


 仲間。


 キサーラは、その語を消さなかった。


「撤退します」


 彼女は言った。


「第一記録を保持し、組合へ限定報告。再調査は準備後に実施します」


「よし」


 ニムは安心したように息を吐いた。


「だんだん冒険者らしくなってきたな」


「私は境界行者の仮登録者です」


「そういうところは、まだまだだ」


 リュカは水槽へ向き直り、短く礼をした。


「また来る」


 水槽の光が、静かに揺れた。


『聞く者』


『再訪、期待』


『記録、保持』


『帰還者仮指定、継続』


 キサーラもまた、水槽に向かって軽く頭を下げた。


 それは、予定された動作ではなかった。


 礼。


 現地文化への合わせ込み。


 いや、違う。


 彼女は、この古い観測局へ、自然にそうしたかった。


「また来ます」


 水槽の光が、少しだけ温かくなったように見えた。


---


 地下から出た時、森の霧は薄くなっていた。


 だが、空には白い月がまだ残っていた。


 昼の月。


 淡く、遠く、何も言わぬ顔で、霧銀山地を見下ろしている。


 キサーラは、それを見上げた。


 月はまだ敵ではなかった。


 その言葉が、内側で何度も響く。


 では、今は敵なのか。


 それとも、守る者が守り方を間違えただけなのか。


 あるいは、守るという言葉そのものが、すでに支配の始まりだったのか。


 答えはまだない。


 だが、答えを探す理由はできた。


 ニムが声をかける。


「帰るぞ、キサーラ」


 帰る。


 リムナ・ヴェルへ。


 境界行者組合へ。


 海王星ではなく。


 月でもなく。


 この地上で、彼女が最初に戻る場所へ。


「はい」


 キサーラは答えた。


 四人は森を歩き出した。


 その背後で、古樫谷の地下観測局は、再び静かに沈黙していく。


 だが、その沈黙は昨日までと違っていた。


 十万年待ち続けた記録は、初めて、聞く者を得た。


 そしてキサーラ・ディナン・メルもまた、初めて、単なる観測では済まない問いを抱えていた。


 月とは何か。


 魔王とは何か。


 精霊とは何か。


 そして、帰還者とは誰なのか。


 森の出口へ向かう途中、キサーラの額の琥珀端末が、ほんの一瞬だけ淡く光った。


 それは海王星へ向けた報告ではない。


 月へ向けた信号でもない。


 古樫谷の地下へ返した、小さな応答だった。


 ――記録を受け取った。


 ――私は、忘れない。


 その意味を、彼女自身はまだ完全には理解していなかった。


 だが、森の精霊たちは静かに揺れた。


 まるで、その返事を聞いたかのように。


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