第五章 温度 ③
赤煉瓦作りの建物が見えてきた。
こうしてホテルを眺めていると、歴史を感じる佇まいだ。
入り口は大きなアーチ型で、ようこそと両手を広げて出迎えてくれるよう。
門をくぐり、馬車が乗り入れられる広いアプローチを歩いていく。
回転扉を押してロビーへ入れば、都市の喧騒とはかけ離れた別世界だ。
どこか懐かしさを感じるオークの材の床。
三段のシャンデリアが淡い光で、蔦模様の絨毯を照らしている。
靴音を柔らかく包み込む絨毯からは、仄かにベルガモットとシダーウッドの香りがした。
お客様の話では、歩いていくうちに、この場所で、どんな特別なことが起こるのか、期待で胸がふくらむそう。
受付を見ると、接客中の従業員がいて、明るい笑顔でお客様に話かけている。
ロビーの椅子では、老紳士が静かに新聞を読んでいた。
これから出立なのかトランクを椅子の脇に置いている。
リラックスした横顔だ。
ホテルの匂い、音、光。そして、人の声。どれもが私の胸をときめかせる。
――ああ、ホテルの温度だ。
お休みをもらう前は、この温度を感じられなかった。
ホテルが出す雰囲気が、私の居場所だと告げている。
ここで働きたい。
制服を着て、お客様と向き合いたい。
私はフィンさんに視線を向け、目を細めた。
「ロビーまで付き合ってくださってありがとうございます」
「いえ……」
「私、またホテルで働きたくなりました」
彼を見上げて、ほほ笑む。
私は今、支配人に百点をもらえる笑みを浮かべているだろう。
フィンさんは私の声を聞いて、嬉しそうに目を細めた。
「……それはよかったです」
彼は何も言わずに私を愛しそうに見つめていた。
その眼差しだけで充分だ。今、言葉はいらない。
「フィンさん、私、これから支配人に会って話をしてきます。今日は、本当にありがとうございました」
まっすぐにお辞儀をすると、彼は中折れ帽を取り、穏やかな笑みを返す。
「待っています」
「でも……」
「時間もありますし、ここが好きなので」
流れるようにロビーを見渡し、フィンさんは気持ちよさそうに目を細める。
「いい、空間ですよね」
その笑顔と言葉に、きゅっと胸が締め付けられる。
フィンさんに甘えたくなった。
私は前でそろえていた指をもじもじと動かしたあと、フィンさんに向かって、口角を持ち上げた。
「じゃあ……行ってまいります」
「はい。いってらっしゃいませ」
彼にもう一度、お辞儀をして私はスタッフルームへ足を運んだ。
受付のカウンターを通り過ぎるとき、お客様の対応を終えた従業員と目が合った。
マーガレットだ。
「セリア!」
心配していたのよ、という心の声が顔に書いてある。
「マーガレット、心配をかけてごめんなさい。出勤のことで、支配人とお話をしたくて……あの、支配人はどこに?」
「支配人なら自分の部屋にいるわよ。……セリア、辞めないわよね?」
ふいにマーガレットは、恐る恐る尋ねる。
「……私が言えた義理じゃないけど、セリアと一緒に働いているのは楽しかったから……できれば、……うん。できればでいいの」
「マーガレット……」
「大変だって分かっているから……。ごめんね、気持ちをぶつけちゃって!」
私は何度も、首を横に振った。
「マーガレットがそう思ってくれるの、嬉しいわ。私、ホテルに居たい」
マーガレットは安心したような表情を浮かべた。
「待ってるからね」
小さな声で言われて、マーガレットは持ち場に戻っていく。
彼女が私と働きたがっていたとは気づかなかった。
私は本当に、悲しみに囚われて、他の人の思いを見えていなかったのだろう。
腹に力を入れて、支配人の部屋へと向かった。
部屋をノックしようとして、拳を握ったまま、手が止まった。
「あなたには時間が必要です――」と言われたときのあの厳しい眼差しを思い出してしまう。
私は鷹のようなあの瞳に射抜かれて、平気だろうか。
「……もう、大丈夫」
小さく落とすように言って、胸に手を置いて大きく深呼吸する。
肺がゆっくり膨らみ、ゆっくりしぼんでいく。細く長く息を吐いて、私は再び手をかるく握った。
そして、扉をノックする。
コンコン。気持ちのいい音がした。
しばらくして、ドアが不意に開かれる。
支配人は私を見下ろし驚いた顔をしていた。私はすぐに頭を下げる。
「お久しぶりでございます」
一礼して、まっすぐ支配人を見上げた。
「突然ですが、お時間をいただけないでしょうか」
支配人はドアを大きく開いた。
「お入りください」
私は会釈して、部屋に入った。
テーブルをはさんで対面に座った私は、さっそく支配人に話を切り出した。
「私また、ホテルで働きたいです。出勤シフトに入れてくださいませんか」
支配人は背筋を伸ばして、軽く手を握って膝の上にのせていた。
私の心まで見透かすような鋭い視線に負けないよう、私も見つめ返す。
ここで折れたら、また一からやり直しだ。
沈黙が続くほど、緊張感は増していった。
それでも黙って彼を見ていると、ふっと支配人の表情が緩んだ。
「いい目をされるようになりましたね」
緊張を忘れ、きょとんとすると、支配人はまた顔を引き締める。
「出勤されるといいでしょう。来週からはいかがですか?」
「ぜ、ぜひ」
嬉しくて声が上ずった。すぐにしゅっと背筋を伸ばして、また緊張感を保つ。
「では日曜日から来てください。しかしフロントではなく、研修を受けてください」
支配人は同じ受付のエレナさんを観察して、彼女が優れているテクニックを吸収しなさいと言った。
「分かりました。エレナさんをお手本にして自分なりに技術を磨きます」
支配人との面会を終えた私は、はやる気持ちを抑えられないまま、廊下を歩いていく。
受付を横切ると、マーガレットとは別の人がお客様の対応を終えて頭を下げているところだった。
ふとマーガレットが私に気づいて、目が合う。
私が小さくOKサインを出すと、彼女は、ぱっと顔を明るくした。
『待っているよ!』と声を出さずに笑ってくれた。
ロビーに目を向けると、フィンさんはソファに座って、鏡張りの窓の外を眺めていた。
足音を立てずに近づいたのに、フィンさんは振り返って立ち上がる。
少しびっくりしたけれど、私は彼に一礼した。
「お待たせいたしました」
フィンさんが腰を屈めて、私だけに聞こえるようにささやく。
「いい結果になったみたいですね。よかったです」
その声が、特別なものに聞こえてしまった。
私は相当、浮かれているらしい。
フィンさんが私を見る目に、愛情のかけらが見える気がしてしまうのだから。
「またホテルに復帰します。歩きながらお話しますね」
私はフィンさんと並んで歩きながら、ホテルの回転扉を押した。
支配人と話した研修のお話を彼に話す。
「エレナさんという方をモデルにして、対応の仕方を勉強します。エレナさんは私がホテルの受付を始めたときにも、研修をしてくださって、私の憧れのホテリエなんです」
「エレナさん……ああ、凛とした女性ですね」
「ええ。バトラー服が似合いそうな麗人です。ああいうふうに、きびきびと仕事ができたらいいなって」
「セリアさんは充分、きびきびされていますけども」
「そう……ですか? 私、まだまだ甘えているところがあると思います」
ホテリエの方々は、私よりずっと前にいる。
私が一番、若いからというのは言い訳になってしまうぐらい、ホテルの仕事に情熱を傾けて、かっこいい人たちが多い。
「遺産整理をきびきびされていましたよ。大切な人を亡くした人が、できることじゃありません」
「……それはフィンさんが導いてくれたおかげです」
褒められて恥ずかしくなりながら、私はちらりと彼を上目遣いで見上げる。
「フィンさんがいなかったら、本当に途方にくれていました。ありがとうございます」
彼は中折れ帽を指でつまみ、軽く持ち上げた。
「いいえ。セリアさんが頑張ったからです」
褒め合いになってしまった。それが気恥しくもあり、嬉しくもある。
私はフィンさんに送ってもらい、またお菓子を食べに行こうと約束した。




