32.溢れる気持ちが
あの夜、フロント子爵と会ったことは誰にも言ってない。言えば怒られるからとかではなく、言ってしまえば、それが現実だったと理解するから。
あの時、感じた気持ちは蓋をしなければならない。気付いてはいけなかったし、望んでもいけなかった。
髪を触りたいなどと言ってはいけなかったのだ。
けれど、本当はあの夜がとても心穏やかで幸せな気持ちであったことは、忘れたくないと思っている自分がいて、それに罪悪感を感じていた。
けれど、もしエイドリアンがフロント子爵との仲を知れば、きっと黙ってはいない。
幼馴染だと言った時のあの彼の独占欲。きっとフロント子爵をどうかしてしまう。それだけは避けたかった。
そもそも、今後あのような時間を過ごすことはもうない。
出産まで何事もないよう、私は静かに暮らす事にした。もう彼に近づいてはいけない。
私はこの子のために、生きればいい。
「ジェシカ様、どこか悪いのですか?」
「どうして?」
「なんだか泣きそうです」
鏡を見た。酷い顔だ。
「少し、疲れているだけ」
そう、疲れているから気分が落ち込みやすいだけだ。だから、少し休めば気分も上がるはず。そしたら、昨日のことなんか、綺麗な夜空だったってそれだけで終わるはず。
自分の気持ちを抑え込むなんて事は得意だ。そうやって生きてきたから。今回だってできるはず。
その時、下腹部にぽこっといったような感覚があった。
「あら?」
もう一度、ぽこぽこ。
これはお腹が動いているのじゃない。胎動だ。
「う、動いたわ!凄い、ぽこぽこって!」
「本当ですか?」
「間違いないわ。お腹の動きじゃない不思議な感覚よ……可愛い」
お腹を撫でる。
「胎動は初産婦は気付くのが遅めと言います。お腹が動くようなとんとん、ぽこぽこ、のように表現されますね」
「そう、まさにそんな感じなの。嬉しいわ、やっとあなたを感じられる」
お腹を撫でながら心の中で語りかける。絶対にママがあなたを守るからね、誰よりも愛情を注いでいくからと。
「不思議ですよね」
アンナが頷いている。ふと、思った事を口に出してみた。
「アンナはとても妊娠に関して詳しいわよね。誰か近くに妊婦さんがいたの?」
「え?あぁ、そうですね。そんな感じです」
「さすがね、色んなことから吸収するなんて、見習いたいわ」
私が褒めると歯切れ悪く「そんなことは」と言うアンナ。
その様子を見ていたアマンダが何か言いたそうにアンナを肘でこついた。
「えっと、ジェシカ様。その、私、言ってない事がありまして」
「どうしたの?改まっちゃって」
「その、実は……」
「あら?」
アンナが口を開くと同時に、窓から白い鳥が入ってきて、私の膝の上にすとんと落ちた。
その白い鳥はよく見ると紙で出来ており、羽を広げて一枚の紙を落とした。
紙に印字されている文字を見て、懐かしさにそのまま紙を開けば。
「ティアナからだわ」
「ティアナって、妹さんですか?」
「そうよ」
―――――――――――――――――――――――――
ジェシカお姉様。
お久しぶりです。お元気ですか?
妊娠されたと聞きました。おめでとうございます。体調はどうですか?今何ヶ月ですか?もし、良かったら、生まれた時に会いに帰ろうと思っているので、出産予定を教えて下さい。
ティアナ
――――――――――――――――――――――――――
相変わらずの様子に笑ってしまった。
妹のティアナは、兄と一緒で貴族令嬢としてのマナーも心得も何もかもゼロだ。実家にいる際、何度も言葉遣いに態度を改めるよう言っていたが、全く直る気配はなかった。
この文面からも分かるように、言いたい事を直球で言うため、何度、両親や家庭教師に諭されていたことか。
そんな私だって何度も注意したのだが。あの頃は、兄や妹のそんな性格が気になって気になってしかたなかったし、やや軽蔑もしていた。
貴族らしく、そう言っては2人に煙たがられていたと思う。
しかし、今はこの手紙を見ても、むしろ愛しさから笑みが出てくるし、そんなティアナに会いたいと思った。
「私もだいぶ変わったわね」
独り言のように呟く。
あの頃から周りから認められようと必死になりすぎて、兄や妹と向き合えずにいた。自分のことばかりだったと思う。
アマンダに手紙を見せれば、「これはまた……」と呆れ顔だ。
「久しぶりなのだから、季節の挨拶でも入れれば良いのですがね。相変わらずのご様子で」
「でも、分かるわ。私もあの堅っ苦しい挨拶の言葉なんか書くの面倒くさいもの」
アンナがティアナの手紙に同意する。
「それも、時と場合によればいいのよ」
私はティアナに返信を書こうと机に向かいペンを取った。少しの挨拶と彼女の質問に簡潔に述べて書き終わる。ふと、書き終わってからアンナを見た。
「これは、どうやって送ればいいのかしら?」
ティアナから届いた鳥が、私の頭上を旋回しており気になって仕方なかった。
「きっと、指示を出せばいいと思いますよ」
半信半疑で紙の鳥さんに呼びかけた。
「ティアナの鳥さん。これをティアナに持っていってくれるかしら?」
すると、鳥が私の手元に降りてきて手紙を口ばしで挟むと、すっと窓から空高くへ飛んでいった。
「凄いわね」
「是非、ティアナ様にあの魔法を聞きたいです」
興味津々な顔で窓の外を見つめているアンナ。アンナもだいぶ、魔法大好き人間ね。
「なんだか、あの鳥を見たら散歩したくなったわ」
「もうだいぶ肌寒いので、肩掛けをして行きましょう」
「ええ、ありがとう」
*
外は日差しはまだ暖かいため、そよそよと少し冷たくなった風が心地よく感じた。
「気持ちいいわね」
私達は気の向くままに歩いた。散歩くらいの運動はむしろ積極的にするようにと言われていたから、体調が良いのもあってか、調子に乗りすぎて30分も歩けば身体が疲れてきた。
「少し、あそこのベンチで休みましょう」
アマンダが私の様子を見て言う。
私たちは中庭のベンチに腰を下ろした。
「運動不足になっているわね……この所、食欲が沸いて食べすぎているし」
なんだか身体に脂肪が付いてきているのだ。二の腕の肉を摘み、溜息が出た。
「ジェシカ様はもともとお痩せになっていたので、全然まだまだ許容範囲ですよ」
「そうかしら……なんだか変わっていくのが恐ろしくて」
「いいんです。赤ちゃんのためにそれでいいんです」
アンナが腰に手を当てて言い切る。肝っ玉母さんみたいで笑ってしまった。
「アンナったら、アンナがお母さんみたいだわね」
そんな冗談を言っていれば、中庭に2つの影が現れた。よくよく見れば、女性2人だった。
「ミーシャ様と、テリア様……」
何やら真剣な表情で話し込んでいる2人。
先にミーシャ様が私達に気付き、そしてテリア様も私達を見て立ち止まった。
そのまま、2人は私の前へ来れば。
「ご機嫌よう、ジェシカ王太子妃殿下。体調の方はどうですか?」
テリア様が貼り付けた笑顔で言う。
「とても良いわ。気遣いの言葉を貰えてとても嬉しいわ」
昔からなぜか私を敵対視している彼女。もしかしたら、フロント子爵と幼馴染だったことを知っていたとか……?その嫉妬心からだとしたら、何となく嫉妬してしまい誰かを責めたくなる気持ちは分からなくはなかった。
「順調のようで何よりです。このまま、無事にご出産されることを願うばかりですわね」
「ええ、勿論そのつもりですよ」
言葉は丁寧だが、その裏に嫌味が含まれているのは私でも分かった。
「早く新たな王族が誕生するのが待ち遠しいですね」
ちらりとテリア様が横にいるミーシャ様を見た。
ミーシャ様はと言うと、あの可愛らしい笑顔は全くなく、敵対心丸出しの目で私を見ていた。
「本当に楽しみですね。ご誕生が」
にこっと笑うミーシャ様。なぜか、お腹に手を当てているミーシャ様が気になった。
まさか、ね。
「ミーシャ様は、毎日お勤めご苦労様です。治療室での仕事は慣れましたか?」
「それが、申し訳ないことに今は治療室をお休みさせて頂いているのです」
「どこか体調のでも悪いのかしら?治癒魔法は疲れやすいと聞くものね」
「えぇ、少し疲れが出たのかもしれません」
「それは、大事にした方がいいわね。あまり無理しないように」
「ジェシカ妃殿下はお優しいのですね。私も今後のために、見習いたいと思います」
今後?見習うって、何を?
「ジェシカ妃殿下。申し訳ありません。先に失礼しても宜しいですか?あまり冷えると良くないもので」
「あ、ごめんなさい……お大事になさって」
ミーシャ様は会釈をすると、やはりお腹に手を当てたまま、来た道を歩いていく。
「ジェシカ妃殿下。そういえば、最近になってリオン様と何だから親しくされている様子ですが……今後は気をつけて頂きたいものです。彼、近いうちに婚約する話が上がっていますの」
誰、とは言わないがきっと、自分のことだろう。一度断られているというが、実家の侯爵家の権力で無理やり婚約するつもりなのか。
「お兄様は誰とも婚約しませんよ」
「でも、後継は必要でしょう?」
「後継など、親戚から連れてくれば済む話です」
「すでに話が上がっている相手の事を考えれば、婚約を進めるべきよ」
「残念ながらその話が上がっている相手はお可哀想です。お兄様は誰かを好きになるなんてこと、ないですもの……訳ありなんです」
ぎょっとする。そんな言い方すれば変な解釈にもなりそうだけど。
「困ったものです、お兄様ったら」
頬に手を当てて困った表情のアンナ。
眉がぴくぴくしているテリア様。
今に見てなさい、そんな顔して肩を怒らせ、テリア様は戻っていった。
「本当に困った人です。妄想に拍車がかかってるんですから」
しっしっ、と手を払うアンナ。
「それより、ミーシャ様だけど……どう思う?」
私は、妊娠という言葉が頭に浮かんでいた。でも、まさか、そんなこと……。
もし、あの日、あの温室の日にエイドリアン様と関係を持ったとする。それは、100歩譲って許そう。愛し合う2人であれば、感情が昂ぶりそうなってしまっても仕方ないかもしれない。
だが、今は私が妊娠しており出産もこれからなのに、避妊もせずにいたという可能性に疑問しかなかった。
「まさか、よね?」
「温室の日だとしたら、1ヶ月前……そんなにすぐ分かるものですか?」
アマンダが聞く。
「人によります。早い人なら性行為をして2週間もあれば、つわり症状や熱っぽいなど出てきますから」
「まさか……本当に?」
「女のカン、はそう言っています」
私は衝撃で目眩がした。
嫉妬ではない、ただ、それが事実ならエイドリアン様への失望しかなかった。
王族として軽はずみに子を成す行動を取るなんて。側妃としての婚約もしていないのに。もし、彼女が妊娠していたのなら、貴族間のパワーバランスも崩れる可能性もあるのに。
何事も順序が大事だ、私達王族は。そう、教育されてきたはずなのに。あれは、一体何だったのだろう。
「少し彼女を調べる必要がありそうね」
「そうですね、こちらを混乱させるだけの演技かもしれませんし」
そうであってほしい。
アンナとアマンダが心配そうに頷いた。




