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 時計の音がする。

 カチカチと、普段なら周りの音に紛れているような細い音だ。

「悪くない。実に悪くない」

 聞き覚えのある女の声がした。

 どこで聞いたのかはわからない。

「君は実につまらない男だ。最初から最後まで選択の余地がなくクズだった。重要事柄は他人に委ねて、自らはほとんど選択しなかったところが特にクズだ。非常に私好みだ。悪くない」

 時計の音が煩い。

 頭の中で徐々に大きくなっている。

「大切な物をなに一つ守り通せなかった。君の失望がなによりも愛おしい。最後には自身さえも死に絶えた。君の絶望がなによりも愛おしい。だから私は君に一つの希望を与えよう。さあ、やり直したまえ。無慈悲な時間の流れに私は一雫の慈悲を与えよう」

 頭が割れそうだ。

 音が大きい。

 止めてくれ。

「まったく堪え性のないやつだな君は」

 もう声すら聞こえない。

 脳みそを直に殴りつけられているようだ。

「少し君との時間を楽しませろよ。……ああ、わかったよ。君のようなやつを手元においておくのも不愉快だ! さっさと行ってしまえよ。寂しくなんかないさ! ふんっ。でも仕方ないから労ってやるよ、よくがんばってくたね。ありがとう。君の死に様は、悪くなかったよ」

 





 柔らかな朝の日差しが窓を突き抜ける。

 めざまし代わりのアラームがけたたましく荒ぶっていた。

「う、あー……」

 目を開けるのが嫌で手探りで携帯電話を探す。それらしき物を掴んで引き寄せる。が、丁度同じくらいのサイズのゲーム機だった。なんだか残念な気分になりながら、あたりを見渡す。

 俺の部屋があった。

 本棚には乱雑にコミックが押し込まれている。竹刀が立てかけてある。壁紙は白いが、日焼けして少しくすんでいる。障子が少し破れているのは、飼い猫のせいだ。ベッドが硬く、多少肩が凝っているのを感じる。満杯のゴミ箱には、コンビニ弁当の箱がねじ込まれている。

「……俺の部屋だ」

 鳴り続ける携帯電話を掴んだ。アラームを止めて、日付を確認する。2008年だった。七月の三日だ。

 ああ、帰ってきたんだ。

 立ち上がろうとすると、転んだ。したたか顔面を打った。一人じゃなかったからかなり恥ずかしい。とりあえず二階のある俺の部屋を出て、一階に行く。歯を磨こうと思った。んで、洗面台に立って鏡を覗き、自分がなんで転んだのか理解した。

体が一回り小さい。

 そりゃそうか。三年くらい前だと、俺はまだ高校二年生だ。

 歯を磨きながら何気なく首を振るとバキバキと骨が鳴った。

 さて、こっからが正念場だなぁ。

 階段を降りてくる足音がする。歯磨き粉を吐いて口の中を濯ぐ。

「いってきます」

 玄関のほうから声がする。

「ゆーきっ」

 俺は妹の名前を呼んだ。

「え、なに?」

 萎縮したような声で答える。俺は玄関に歩く。

 優紀は疲れたように俯いていた。伸ばしっぱなしの黒髪の影になって、一層表情は陰鬱に見える。制服がかわいいことで有名な進学校のブレザーも、痩せ型でスっと背の高い体型もそんな顔してたら台無しだ。

 優紀は学校でハブられている。靴はなくなるし、教科書はゴミ箱に入ってるし、トイレに入ってたら上から水が降ってくる。机は裏返しになってたり教室の外に放り出されていたり、花瓶が乗っていることもあった。その度、優紀は一日中靴を探し、教科書をゴミ箱から拾い、保健室で衣服と髪の毛を乾かす。人がやった机を自分で戻す。殴られたり蹴られたりは、死ぬ直前まではしていなかったようだ。一つ一つは小さいことだが、毎日のように続くそれらは、優紀の精神を少しずつ削り取っていった。

 そうして優紀は死んだ。首を吊って自殺した。何もかもを知ったときには何もかも手遅れだった。この世にたった一人しかいない俺のかわいい妹は、悪意すらないただの愉悦のために殺された。

 びっくりするけどさ、優紀と同じクラスのやつら、結構みんな葬式で泣いてたんだぜ? だからそのときには夢にも思わなかったんだ。両親も呆然としていた。なんで死んじまったんだって。

今度は間違えない。間違ってなるものか。

「お前、今日学校休め」

 驚いたような、恥ずかしいような。

 俺の見たことのない顔になる。

「どう、して……?」

 掠れた声で絞りだす。

「当分行かなくていいからさ、どっか遊びにいこう。俺もサボるわ。学校なんてめんどくせーだけだもんな。別に行かなくてもよくね?」

「お父さんとお母さんに……怒られるよ?」

「いいから。大丈夫だから。よくがんばったな。お前はよくがんばったよ」

 優紀の頭を抱く。小さかった。ぽんぽんと頭を撫でて見た。途端に胸に掛かる重みがどっと増す。俺の胸元に倒れ込んできた。優紀が膝をつく。

 それから。

「う、ああ。あああああっ。あああああああああああああ」

 声の限りを尽くして泣いた。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていくTシャツと、小さく震える優紀を見て、俺はこいつを休ませてやろうと思った。

 …………。

三十分ほど優紀は泣きっぱなしで、俺はそろそろかなり暇になってきていた。たしかにね、俺が異世界で死ぬほど頑張ったのはこいつのためですよ。半分くらいは。けどもちろん高三の俺には「受験、やり直してーな!」みたいな欲望もあってですね。総合的な手段として「時間を戻してくれ」って頼んだんだけどさ。

…………。

 まあいいか。これまで優紀は誰かの前で泣くことさえできなかったのだ。それって大した進歩だろ? 多分。

「うう……」

「泣き止んだか?」

「うるしゃい。泣いてない」

 つまらない意地を張る。

 かわいいなー、と思った。

「午後はどっか遊びに行こうぜ。行きたいとこあるか」

「にぃちゃんとなんてどこも行きたくない」

 ただのツンデレなので聞こえない振りをした。

「遊園地でもいくか」

 優紀の肩がそれまでと違う震え方をした。

 わかりやすいやつ。と俺は少し笑った。

「着替えてこいよ」

「うぅ……」

 なぜか一発殴られた。たぶん照れ隠しだろう。俺の手から離れた優紀が自室に戻っていく。足取りはまたフラフラしてるが、今朝に比べたら生気があるように感じた。

 俺はとりあえず鼻水と涙に塗れたTシャツを着替え、財布だけ持って優紀を待った。

 マンションの九階から外を見る。電車がすぐ近くを走っていく。一等地と言っていい場所なのだろう。父親も母親も、それぞれそれなりの企業で働いていて、それなりの地位を持っている。ただあんまりいい親ではなかったと思う。金を掛けることが愛情だと思っているタイプの親だった。

 妹が出てくる。

 私服に着替えた優紀からは、今朝の陰鬱な雰囲気が幾らか薄くなっていた。

「よし、行くか」

「うん!」




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