キマイラ殺し
北海は荒れていた。
海と空の境目が失われている。灰色の波頭が砕け、白い飛沫が雨と一緒くたになって横殴りに吹きつける。その只中を、一頭の竜は飛んでいた。
ホーヴが翼を打つたびに巨体は浮き上がり、また沈んでゆく。ビョルロルヴは竜の上で身を伏せ、手綱を握りなおした。指の感覚はとうにない。外套は水を吸って鉛のように重く、革の手袋の内側まで濡れていた。
――陸まであと少しだ。
口に出したつもりだったが、声は風にちぎられ、自分の耳にさえ届かない。それでもホーヴは長い首をわずかに傾けて、右の目で騎手を見た。金色の瞳の下を、古い傷が斜めに走っている。鱗が裂け、肉が盛り上がったまま固まった、白っぽい筋だ。ビョルロルヴが物心ついたときから、その傷は老竜の頬にあった。
ユトランド半島の西の端、北海に臨む港町リーベ。そこにある伝竜使の厩舎を飛び発って三日目であった。
伝竜使とは、竜をもってして書状や軽い荷を運ぶ者たちのことだ。船なら風次第で一週間はかかる北海を、竜なら三日もあれば飛び渡る。この差がどれほど価値があることなのかは、言うまでもない。時と場合によっては、竜の運ぶ情報は、金よりも価値がある。クヌート大王がデンマーク、イングランド、ノルウェーの海を隔てた三国を束ねえたのも、竜が迅速に大王の命令を伝えるからに他ならない。
ビョルロルヴは海峡を越えようとしていた。そこから先は、ずっと嵐だった。
やがて雨の向こうに黒い線が浮かんだ。陸だ。イングランドの東岸である。ビョルロルヴは手綱を引き、竜を北へと向け、大きな川の河口を探した。目指すライクフォードの城は川の浅瀬を見下ろす丘の上にある、と組合長のオールムは言っていた。浅瀬を守るために城は築かれ、浅瀬を巡る戦いで大勢が死んだ、と。
要するに、まともな場所ではないということだ。
*
川筋を遡ると、丘の上に、石を積んだ塔の黒い影が見えた。
ホーヴは中庭に降りた。
回廊の篝火に雨垂れが落ち、じゅっと嫌な音を立てる。槍を手にした兵が三人、雨の中を駆け寄ってきて足を止めた。槍の穂先がわずかに震えている。寒いのだろうか。それとも、ホーヴに怯えているのか。後者であるならば、竜騎士を抱える城の兵にしては練度が足りない。
ビョルロルヴが鞍から滑り降りるより先に、竜舎番らしい男が近づいて手綱に手を伸ばした。
ホーヴの唇がめくれた。喉の奥で低い音が鳴る。熱い息が男の顔を打つ。男は泥を跳ね散らして飛び退った。
「触るな」ビョルロルヴは竜の首に手を置いた。「こいつは俺のほかには、誰にも手綱を取らせない」
竜舎番が、こわごわ中庭の奥を指さした。ビョルロルヴが手綱を引き、竜を厩舎へ入れた。屋根の下で、老竜はようやく翼をたたんだ。
兵たちが顔を見合わせている。その後ろから毛皮の外套をまとった初老の男が現われた。伯の家令だろう。
「伝竜使か。この嵐の中を」
「伯への書状を届けに来た。手渡しで、と言われている」
ビョルロルヴは外套の下から油布の包みを取り出した。中には革の書状入れがあり、その口は紐で縛られ、結び目に三つの封蝋が押されている。
ひとつは獅子。ユトランドの所領ラブンスレーヴを治める領主グリムの印である。ラブンスレーヴはデンマークでも指折りの竜の産地であり、その竜場を握る者が王国の空を握る、とまで言われるほどだ。
二つ目は山羊。ラブンスレーヴの聖堂の司教、ヘリベルトの印。ラブンスレーヴの竜は、司教の聖別を受けて初めて市に出される。教会の祝福のない竜を買う愚か者はいない。口さがない者たちは、教会が竜を飼っているわけではないが、竜に値札を付けるのは坊主たちだ、と吐き捨てる。
そして蛇。これはビョルロルヴにとって見慣れた紋だった。ビョルロルヴの親方である、オールムの指輪の印章で、伝竜使の組合の印でもある。オールムはラブンスレーヴの竜を買いつけて、北海帝国じゅうに売る竜商人でもあった。
竜を産む者、竜を寿ぐ者、竜を売る者。
この三人が揃って封蝋を押した書状を運ぶのは、初めてのことだった。領主と司教と組合長が、海の向こうの伯爵に何を伝えようとしているのか。考えかけて、ビョルロルヴはやめた。
騎手は荷を詮索しない――騎手になって最初に叩き込まれることだ。中身を知らぬ者だけが中身を守れる。知ったものは、知ったことで狙われる。王の密書であろうと商人の証文であろうと、騎手は命をかけて運ぶのだ。
それが正しいのだと、ビョルロルヴは今まで疑ったことがなかった。
*
広間の暖炉の前で待たされた。濡れた服からは湯気が立ち上がる。
炉端では、兵たちが声をひそめて話していた。
「大王が死んだそうだ」
「それで次は誰だ」
「こっちにいる兄のハーラルか、デンマークにいるハーデクヌーズか」
「うちの殿はどっちにつく」
「風の吹くほうさ。あの方は風向きを読むのがうまい」
「いや、ああ見えて義理堅いところもおありだ。ハーラルなら昔からよく知ってる」
「義理で首はつながらん」
「どっちにしろ」年かさの兵が火をつついた。「我らが伯は賢いお方。いずれ、一番いい道を選ばれる」
兵というものは、どこでも同じことをいう。主君は賢い、主君は正しい――そう信じなければ、明日も槍を持って立っていられないからだ。
ビョルロルヴは目を閉じたまま火に手をかざした。
暖炉の薪がはぜた。
「騎手」
家令が戸口に立っていた。
「伯がお会いになる。ついて来い」
ライクフォード伯アスビョルンは、熊のような男だった。
肩幅が広く、首は太く、灰色の混じった髭が胸まで垂れている。熊の毛皮を羽織り、居室の奥の大きな椅子に沈み込むように座っていた。年は四十手前だろう。かつて戦場で鳴らした体躯は、今は椅子の形に馴染み始めている。
伯はビョルロルヴの差し出した書状を受け取ると、封蝋を一つずつ親指でなぞった。
「獅子に山羊に蛇か。賑やかだな」
小刀で紐を切り、羊皮紙を火のほうへ傾ける。読み終えても顔を上げずに、もう一度読み、裏を返して何も書かれていないことを確かめ、三度目に目を走らせた。
その口元がかすかに歪んだ。
伯は戸口の衛兵に顎をしゃくった。
次の瞬間、ビョルロルヴの両腕は背中にねじ上げられていた。膝の裏を蹴られ、床に膝をつく。
「貴様は何者か?」
伯は羊皮紙を指先でつまみ、ひらひらと振ってみせた。
「この手紙にはお前を殺せと書いてある」
ビョルロルヴは伯を見上げた。
――殺せ。
意味は分かった。分かったが、それが自分に向けられたものだという実感がついてこない。
「……俺はただの騎手だ。リーベの、オールムの竜舎の。名はビョルロルヴ。アーサの息子だ」
「ただの騎手!」
伯は鼻で笑う。
「聞いたか、者ども。ただの騎手だそうだ。ただの騎手を屠るのに、領主と司教と組合長が、雁首そろえて封蝋を押した。ならば羊一頭潰すのに、王と教皇と皇帝が判を押したとて、わしはもう驚くまい」
伯は手紙に目を落とし、読み上げた。
「持参人とその竜を速やかに処分されたし――以上だ。罪状なし。理由なし。ないないづくしの手紙に、あるのは三つの印ばかり。妙だと思わんか、騎手よ」
「思う」
「わしもだ。わしの城で、わしの火にあたった客を殺せという。それも理由は知らせずに。お前はよほど大事な客のようだ」
「……しかし解せんのは、竜だ」不意に伯が言った。
「竜商人が竜まで殺せという。竜一頭で屋敷がひとつ買えるというのにだ。わしはお前の竜が中庭に降りるのを窓から見ていた。あの竜、どこで手に入れた。オールムの竜か」
「違う。物心ついた時からそばにいた。あいつは俺のほかには誰も乗せない。オールムでも手綱は取れない」
「右の目の下に、斜めの傷があったな」
「俺の生まれる前からある」
伯は黙った。
長い沈黙だった。伯の目はビョルロルヴの顔ではなく、もっとずっと遠いところを見ていた。
「二十年ほど前だ」
やがて伯が言った。声の調子が変わっていた。
「アッサンダン。クヌート王がこの国を獲った戦だ。イングランド王の軍旗が丘を埋め、クヌート王の竜騎士はわずか二十騎。わしは若く、愚かだった。功を焦って隊列を離れ、弓と投槍の待つ谷へ、一人で降りていった。気づいたときには、竜は翼を射貫かれ地を這い、槍兵どもがわしの喉めがけて投槍を振りかぶった」
伯は火を見ていた。
「そのとき、空から竜が来た。わしと槍の間に、翼を広げてな。槍は竜の顔を打った。目の下だ。血の涙を流しながら、そいつは怯みもせなんだ。わしを鉤爪で掴み上げて谷を抜け、そのまま敵の旗めがけて突っ込んでいきおった。あの日、竜も泣くのだとわしは知った。竜は血の涙を流すのだ」
伯の指が、自分の右目の下を斜めになぞった。
「蹄をなげる者。その竜の名だ」
ビョルロルヴは息をのんだ。
ホーヴ。母はそう呼んでいた。自分もそう呼んできた。それが何かの名を縮めたものだとは、考えたこともなかった。
「乗っていたのはラブンスレーヴのログンヴァルド。わしの戦友であり、命の恩人だ。国へ戻って三年ほどして、狩りの最中に竜から落ちて死んだと聞いた。竜騎の名手が、竜から落ちてな。弟のグリムが跡を継いで領主となった」
伯はビョルロルヴを見据える。
「ログンヴァルドには赤子がいた。司教が洗礼を授けた。その赤子は父親が死んだ年、乳母と父の竜と一緒にどこかへ消えた」
死んだ母が父親のことを一度も話さなかったこと。ときおり預かりものを見るような目で自分を見ていたこと。ホーヴが自分しか乗せないのは、自分が竜に慣れているからだと思っていたこと。それらがいちどきに、元の場所から離れ、別の形に組み上がっていく。
父の座を継いだ叔父、赤子を洗礼した司教。顔も覚えていない。どうでもいい、とは言わないが、遠い存在だ。
だが、ビョルロルヴと竜を何年も手元に置いてきた竜商人。伝竜使のいろはを教えてくれた師。父のない自分にとって、父親代わりだった竜舎の親方。
「オールムは知っておったのかもな」
ビョルロルヴは答えようとした。声が出ない。喉の奥に何かが詰まっていて、それを飲み込むのに、ひどく時間がかかった。
「気をつけて行け」三日前、オールムはいつもと同じ声で出発するビョルロルヴへ声をかけた。
――なるほどな。
自分は手札の一枚であった。手札は切るべきときに切るものだ。商人としては、何も間違っていない。
「……おそらくは知っていた」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
伯は呻き、額に手を当てた。
「わしは恩人の息子の手から、その息子の死を受け取ったのか。そしてこの手でその首を落とさねばならない。神よ、あなたはご覧になられたか」
先に顔を上げたのは、ビョルロルヴであった。
「伯よ。その手紙に、俺が何者であるかは書いていないのだな」
「ああ、書いておらん」
「なぜ書かなかったと思う」
「……言うてみよ」
「書けば、言い逃れができなくなるからだ」
自分の声がもう震えていないことに、ビョルロルヴは自分で驚いた。
「書かなければ、領主は甥のことなど知らなかったと言える。司教は領主に騙されたと言える。オールムは印章を盗まれたと言える。三つの封蝋は、三つの逃げ道だ」
伯が、わずかに身を乗り出す。
「では、逃げ道がないのは誰だ」
「刃を握ったあんただ」
ビョルロルヴは、ねじ上げられた腕の痛みをこらえて背筋をのばした。
「ライクフォード伯が、己の城で、己の火にあたった客を殺した。その客は戦友の忘れ形見だった――その噂が北海を渡るとき、残るのはあんたの名だけだ。三人は、あんたがこの手紙を火にくべると踏んでいる。あんたが逆らえないのを知っているからだ」
「……口の回る騎手だな。騎手は沈黙を美徳とすると思うておったが」
「俺もそう教わった。オールムから」
伯の眉がわずかに動いた。
「……キマイラだな」
ぽつりと言った。
「城の司祭が、ギリシアの話をしてくれたことがある。キマイラは獅子の頭と、山羊の胴と、蛇の尾を持つ怪物だ。火を吐いて国を焼く」
「その怪物が喰らう餌はひとつだけだ。ラブンスレーヴ産の竜という餌だ」ビョルロルヴは言った。「それで、あんたはその怪物のどこだ。足か」
「そうかもしれんな」
「いや」ビョルロルヴは首を振った。「足ですらない。いざとなればちぎって捨てられる、尻尾のその先っぽだ」
兵の一人が息を呑んだ。
伯が立ち上がった。椅子が床を擦り、熊が後ろ脚で立ったように、影が壁いっぱいに広がった。
「尻尾と言うたか。この熊を。蛇の尾のそのまた先と」
「首根っこを押さえられた熊を、ほかにどう呼べばいい」
「押さえられてなどおらん」
「なら、なぜライクフォード伯は封蝋三つに逆らえない」
伯はビョルロルヴを見下ろした。長いこと見下ろしていた。
それから不意に、肩を揺らして笑い出した。乾いた笑いだった。
「よかろう。どうせ死ぬ男だ、聞かせてやる」
伯は再び椅子に腰を落とした。
「まずはグリムだ。クヌートは死んだ。王が死ねば、王の与えた伯位など風に舞う藁よ。グリムはデンマークの宮廷に顔が利く。あやつが王の耳に一言ささやくだけで、わしの首はこの浅瀬に浮かぶこととなろう」
伯は火を睨んだ。
「ヘリベルトもだ。実はわしの妻は従妹でな。教会の定めでは許されぬ縁組みを、あの坊主が赦した。わしはこっそりヘリベルトに金を握らせたのだ。赦しが偽りであったと奴が漏らせば、わしの息子どもは一夜にして庶子となる。わが家名は地に墜ちることとなろう」
そこで伯は口を閉じた。
「いま一つは、お前のほうが詳しかろう」
「あんたの竜舎の竜はどこから来た」
「……竜の代金は、まだ半ばだ」
伯は吐き捨てるように言い、顔をしかめた。
「それだけならよい。騎手、お前は封を切らぬと言うたな」
「ああ」
「お前はな。だがオールムは切る」
ビョルロルヴは伯の顔を見た。
「あやつの伝竜使が運ぶ手紙は、一度あやつの机の上を通る。封蝋は熱した刃で剥がせば元に戻せる。オールムはわしらの秘密をみな知っておるのだ。わしが海の向こうへ書いた手紙は一文字残らず、蛇の腹の中を通っておるのだ」
中身を知らぬ者だけが中身を守れる。それはオールムに教わったことだ。
ビョルロルヴはしばらく何も言えずにいた。
「獅子に首を、山羊に血を、蛇に舌を握られて、この熊は踊っておるのだ」伯は低く言った。「さあ騎手よ。尻尾の先と呼んだ熊に、かける言葉はあるか」
「……ある」
ビョルロルヴは、伯の膝の上の羊皮紙に目をやった。
「その手紙を握っておけ」
「この紙切れをか」
「三つの封蝋がならんだ、殺しの命令書だ。理由が書いてないからこそ、どうとでも使える」
伯の指が、膝の上を叩いた。一度、そしてもう一度。
「手紙一枚で、キマイラが縛れるか」
「紙一枚であんたに俺を殺させようとした連中だ。手紙の価値は、連中のほうがよく知っている」
伯は鼻を鳴らした。
「お前を殺せば、わしは三人に貸しが作れる。お前を生かせば、三人を敵に回す。どちらが得かは、子どもでもわかる勘定だ」
「三人は、あんたに借りを作ったとは思わない。殺したのはあんただからな。あんたに残るのは血で汚れた手だけだ」
「それに……」自分の口から続きが出るのを、ビョルロルヴはどこか他人事のように聞いた。
「俺はまだ生きている。ログンヴァルドの子が、父親の竜と一緒に、あんたの城にいる。奴らにとってこれほど恐ろしいことはない。ラブンスレーヴには父の旧臣がまだいるはずだ。父に忠誠を誓った家来たちが。俺を使えば、あんたは奴らの喉に手をかけられる」
「まだ生きている、か」
伯は鼻で笑った。
「お前がログンヴァルドの子だと、誰が証す。乳母は死んだのだろう。お前に洗礼を授けた坊主は、お前を殺せと印を押した。お前が持っているのは、年老いた竜が一頭きりだ。竜を盗んだ男が、でたらめを喚いておるだけかもしれん」
「竜は盗人を背には乗せない」
「竜は賢いが物言わぬ。証明はしてくれん」
「その物言わぬ竜を、三人はわざわざ殺せと書いた。それに、あの傷を見て、最初に父の名を口にしたのは俺じゃない。あんただ」
伯は目をつぶった。
「旧臣たちとて同じことよ」伯はやがて言った。「二十年だぞ。主の死んだ家に二十年も忠義を尽くす阿呆が、どれほど残っておる。とうにグリムの足元に這いつくばっておるわ」
「そうかもしれない」ビョルロルヴは認めた。「誰も残っていないかもしれない。だが、それならなぜ三人は俺を殺す。誰も担ぐ者のいない孤児なら、厩舎の裏で喉を掻けばそれで済んだ。わざわざ海を越えさせて、あんたに頼む理由がない」
「……恐れておる、と言いたいか」
「恐れる理由が、まだラブンスレーヴには残っているということだ」
伯は立ち上がり、窓辺へ歩いた。雨が鎧戸を叩いていた。こちらに背を向けたまま、伯は長いこと動かなかった。
「……わしには息子が三人おる」
背中が言った。
「上は十五、下はまだ六つだ。お前を生かせば、グリムは新しい王に讒言をする。ヘリベルトは赦しを取り消す。オールムは竜の代金を今すぐ払えと言う。三つ揃えば、この城は次の冬を越せまい。恩人の子ひとりのために、わしは自分の子を三人、秤に載せねばならんのか」
「秤に載せたのは俺じゃない」
ビョルロルヴは言い放った。
「あんたの恩人の子と、あんたの息子たちを、同じ秤に載せたのは三人のほうだ。そして皿を傾ける役だけを、あんたに押しつけた」
伯が振り向いた。その手に、いつのまにか小刀が握られていた。羊皮紙の紐を切った、あの小刀だった。
伯は大股に歩み寄り、刃をビョルロルヴの喉へと当てた。鋼は冷たかった。兵たちの手に力がこもるのがわかった。
「今ここで済ませれば、秤なぞ要らん」
ビョルロルヴは目をそらさなかった。そらせば終わる。
「やるなら今だぞ」声がかすかに震えてしまったが、構わずつづけた。「だが、刃を握っているのはあんたの手だ。グリムでも、ヘリベルトでも、オールムの手でもない。そして、この先、息子たちの頭を撫でるのも、あんたのその手だ」
刃が、皮膚の上でわずかに沈んだ。
伯の手は震えていた。
やがて伯は、刃を下げた。
喉に残った冷たさが、遅れて震えに変わった。ビョルロルヴはそれを噛み殺して、伯の顔を見上げた。
「なぜだ」
「何がだ」
「なぜ、手紙を読んですぐに俺を殺さなかった。殺すべきだった。兵に俺を押さえつけさせたとき、そのまま喉を掻かせれば済んだ。あんたは三度も手紙を読み直した。決める暇はいくらでもあったはずだ」
伯は小刀を手の中で弄ぶ。
「理由が書かれてなかったからだ。でっち上げの罪状でもあればよかった。だが手紙には何もなかった。わけを知りたくなるのは人の性よ。それに、窓からあの竜を見た。見覚えのある傷を見て、確かめもせずに殺せるほど、わしは耄碌しておらん」
「ちがうな」
ビョルロルヴは言う。
「それなら、竜のことだけ訊けば済んだ。あんたは俺に喋らせた。逃げ道の話で身を乗り出した。命令の話で膝を叩いた。首輪の話は、自分からした」
「何が言いたい」
「あんたは愉しんでいる」
伯の手の中で、小刀が止まった。
「何年も首輪をはめられてきた熊の前に、三人の喉笛へ手が届くかも知れない手紙が舞い込んできた。本当は、あんたが考えていたのは、俺をどう殺すかじゃない。この手紙でキマイラをどう殺すかじゃないのか」
伯は何も答えなかった。
兵士たちが、主の顔を盗み見た。
やがて伯は、喉の奥で低く笑った。今度の笑いは乾いていない。
「今しがた、わしは若く、愚かだった、と言うたな」
伯は小刀を卓の上に放り出した。
「どうやら、年を経た今でも、まだ愚かであったらしい」
伯は手紙を見つめ、暖炉の火を見つめ、それからビョルロルヴの顔をじっと見た。
「……目が、ログンヴァルドに似ておる」
そして兵たちに向かって、片手を振った。
「放してやれ」
腕が自由になった。血が指先に戻ってくる痛みに、ビョルロルヴは顔をしかめた。
伯は手紙を丁寧に畳み、懐へしまった。
「嵐は明け方にはやむだろう。それまでに書くものがある。お前に運んでもらうとしよう。蛇の腹を通らずにな」
自分を生かしたのが、自分の舌だったのか、それとも父の面影だったのか。ビョルロルヴには、最後までわからなかった。あるいは伯自身にもわかっていなかったのかもしれない。
*
伯の言ったとおり、嵐は明け方に止んだ。
ビョルロルヴは一睡もできないまま朝を迎えた。
家令に呼ばれて居室へ行くと、伯は机に向かっていた。傍らに若い司祭が控えていた。
机の上には、文字の乾ききらない羊皮紙が一枚あった。
「読めるか」
「すこしなら」
「なら読め」
伯は羊皮紙をビョルロルヴのほうへ押しやった。
北方の言葉を崩した字で書いたものだった。綴りの怪しい単語を、指でなぞりながら読んだ。
――ラブンスレーヴの亡きログンヴァルドに仕えた者たちへ。ライクフォード伯アスビョルンより。
アッサンダンでともに戦った者の名において、ここに記す。
この書状を携える者こそは、ログンヴァルドの竜ホーヴヴァルプニルに乗る騎手である。かの竜は彼のほかに誰も背に乗せぬ。我はこの目で竜の傷を見、そしてかの者の顔を見た。
この者こそ、汝らの主君の子である――
その一行で、ビョルロルヴの指が止まった。
しばらくそのまま動かなかった。それから指を最初の字に戻し、もう一度読み直した。
昨日まで、自分は手紙の中身を知らない人間だった。知らないままで、自分を殺せという手紙を運んできた。だが今は手紙の内容を知っている。知った上で、手紙を運ぶ。
読み終えて顔を上げると、伯がこちらを見ていた。
「異存は」
「ない」
伯は頷き、羊皮紙を畳んだ。司祭が溶かした蝋を垂らし、伯が指輪の印章を押した。後ろ脚で立ち上がった熊の印だった。
手紙に押された、ひとつだけの封蝋を、ビョルロルヴは見つめた。
「あの三人からの手紙は、わしが預かる」伯は懐を叩いた。「返事は書いておいてやろう。手紙は確かに受け取った、とな。それだけしか書かねば、向こうが勝手に好きなように読みおるだろうよ」
伯は短く笑って、昨夜の小刀を取り、柄をこちらへ向けた。
「髪をひと房、切れ。死体から切り取ったものとして、返事に添える」
ビョルロルヴは小刀を受け取り、金色の髪をひと房、根元から切り落とした。伯はそれを麻布に包み、返書の上に置いた。
「その返事は、誰が運ぶ」
「オールムの騎手よ。いつものようにな」伯は肩をすくめた。
*
竜舎へと行くと、ホーヴは藁の上で、首を丸めて眠っていた。足音に気づいて片目を開き、それからゆっくりと首をもたげた。
伯が一歩近づいた。護衛の兵たちは身を固くする。
ホーヴは伯を見下ろした。鼻孔がふくらみ、伯の匂いを嗅ぐ。長いこと嗅いでいた。
それから竜は、首を下ろした。伯の胸の高さぐらいまで頭を下ろして、そこで止まった。
伯は手を伸ばして、右目の下の古い傷に触れる。竜は動かずに、金色の瞳で伯を見つめていた。
「覚えていたか」
竜は答えなかった。
「本当なら、この傷はわしの喉にあるはずだった」
伯は竜から手を離し、振り向かずに言った。
「さあ行くがいい、勇士ログンヴァルドの子ビョルロルヴよ。キマイラを殺しに」
*
ホーヴは城の上へと軽々と舞い上がった。
丘も城も見る間に小さくなり、やがて海が見えた。
波はまだ高かったが、空は晴れている。
ビョルロルヴは外套の下の書状入れに手を当てた。羊皮紙一枚にしてはずいぶんと重い。
ホーヴが首を傾け、右の目で騎手を見た。父もこの目に見られたのだ、と思った。
ユトランドの北、まだ見ぬ故郷の地ラブンスレーヴへ。
叔父と司教は赤子のころに会っているはずだが、その顔は覚えてはいない。知っているのは封蝋の獅子と山羊だけだ。
オールムの顔は知っている。自分を手元に置いて騎手として育ててくれた男。気をつけて行け、と言った男。
憎いのか――と自分に問うてみても、答えは出ない。出ないまま、手綱を握る指に力がこもった。
ホーヴの翼が朝の光を打ち、竜は北海の上を飛んでいった。




