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<27・蒼穹>

 完全に寝坊した。時計を見て、ジュディ・マウンテンは真っ青になる。

 ウランベール連邦国立研究所・生物科学研究室の朝は、早い。

 なんといっても、ジュディが所属しているのは少人数制の小さなラボである。一人交代が遅れれば当然、前任がいつまでたっても仮眠が取れない食事ができないなんて事態になりかねないのだ。自分達が研究しているのは、モンスターと呼ばれる生物達の生態調査である。生き物を観察し、記録をつけなければいけない都合上、記録は毎分毎秒変わっていくことだ。常に誰かが張り付いて、檻や水槽の様子をチェックしつづけなければいけないのである。


――あああ絶対!絶対怒ってる……ヘレナさん絶対怒ってるよう!


 このラボの教授である、ヘレナ・アルコーストは。とにかく規則に厳しいことで有名だった。三十代を超えてから大学に入り直し、生物学の研究を一から始めて教授にまで上り詰めた研究所のお局である。齢六十二歳。はっきり言って、みんなに恐れられる“怖いおばあさん”だった。六十を過ぎたのにピンピンしていて、大剣を担いで自ら研究対象のモンスターを狩りに行くし、馬にも乗って遠くまで行くしという恐ろしい人である。あれば不細工だったらまだしも、美人だから余計怖さに拍車がかかってくるのだ。――なんでも数十年前に、内乱が起きたアナウン王国から逃げてきたという話らしいが、実情は定かではない。噂の真相を確かめる勇気がある者など、このラボには一人も存在していないからである。

 そう、彼女の正体云々よりも大事なことがあるのだ。――ジュディが朝の八時に交代予定であった前任担当者というのが、よりによってそのヘレナ教授その人であるということである。

 雷が落ちるとわかっていても、とにかく急いでラボに向かうしかない。彼女はとにかく厳しく恐ろしい人だが、その知識量と研究熱は本物なのである。どれだけ厳しくとも、彼女の下で生物研究がしたいと考えて集まってきた者達がこのラボには揃っている。ジュディもまたその一人。大学在学中にヘレナが書いた論文を見て、非常に感銘を受けたのだ。

 何故ならヘレナがやっているのは、ただの生物の生態調査や研究だけではない。

 彼女はこの国に、全く新しい革命を齎そうとしているのである。


「あばばば、ヘレナ教授!すみません、寝坊しましたあ!」


 研究室のドアを開いて飛び込んだ直後、ジュディは足下に落ちていたレポートらしきものでつるっと足を滑らせることになった。

 あ、これはあかん、と思ったものの。体が危機に対応できなければ、事前の察知は全く意味がないわけで。


「ぷぎゃああ!」


 ジュディはそのまま、見事に床とキスをするハメになった。目の前で星が散る。くらくらする顔のすぐ横を、舞い上がった真っ白な紙がひらひらと落下するのが見えた。よくよく観察してみれば、研究室の床はあっちもこっちも紙、紙、紙。どうやら大量のレポートが床一面にバラ撒かれている状態であるらしい。


「な、なんですか、これぇ……?」


 ズレてしまった眼鏡を直しつつ、ぼさぼさの頭を掻きながらジュディは言った。きっと今の自分は女性として非常にみっともない顔になっているのだろう。たらり、と垂れた鼻血をとっさに白衣の裾で拭ってしまって即座に後悔した。これは絶対シミになる。後で手洗いするのが非常に面倒くさい。本当に何をやっているのやら、自分は。

 まあそれは、床に資料を広げて這いつくばっている、目の前の女教授にも言えることであったが。


「あら、ジュディ。遅かったじゃない。三十分も遅刻するなんて、いい度胸ね。このあたくしを待たせるなんて、いつからそんなに偉くなったのかしら」


 ヘレナは顔も上げず、不機嫌そうにそう言い放った。白髪だらけになったこげ茶の髪が、机より低い場所で動いている。すみません教授!とフライング土下座をとっさに披露しようとして、ジュディは土下座するスペースもないことに気づいてしまう。文字通り、紙が散らばりすぎてて足の踏み場もない有様なのだ。これは転んでも仕方ないだろう、と思う。一部資料に自分の鼻血が飛び散ってしまったが、これは悪いのは自分ではないような気がしている。

 一体ヘレナは何をそんなに真剣に見ているのだろう、と思ってジュディは資料の一枚を拾い上げ、気がついた。そこに書かれているのは全て、“ジャイアント”とつく巨人系モンスターの資料であったのだから。


「フローズン・ジャイアント?これ、アナウン王国に生息する巨人系モンスターですよね。どうしたんですか、急に」


 研究者にありがちなことのひとつが、整理整頓が極端に下手ということである。ヘレナもその例に漏れず、資料を整頓するのも探すのも極端に下手くそという悪癖があった。何かを探すために床一面にレポートを広げてしまっているのがまさにいい例である。机の上でやれよと言いたいところだが、ヘレナのけして狭くないはずの机の上はすでに大量の本が積み上がり、今にも崩れ落ちそうな状況なのだからどうしおうもなかったのだろう。

 そのすぐ隣にはリクオウガメの水槽がある。このまま地震が起きたら終わるんじゃ、とジュディは青ざめた。後でこっそり片付けさせてもらうしかあるまい。大目玉喰らうのはわかっているが、それはそれ、研究対象の安全が第一である。


「……ガソリンに代わる、全く新しい燃料が作れるかもしれないのよ」


 ヘレナは顔を上げることもせずに、資料を睨みながら必死でメモを取っている。年配の女性がお尻をあげて這い蹲りながら、一心不乱で何かを書いているというのはなかなかシュールな光景だった。


「ジャイアント系モンスターは、この国でも多く生息していて生態も明らかになりつつある。でもフローズン・ジャイアントを始めとする一部の種は、アナウン王国などにしか生息しない。しかも今、あっちはまだまだ内紛で大変なことになってるでしょ。とてもじゃないけど、モンスター捕獲してこっちに送ってくれなんて言える状況じゃないじゃない」

「まあ、そうですね。平和的な植民地支配で評判だった王国が、その実どこぞの共和国で虐殺やら人身売買やら人肉販売やらやってたなんてことがわかっちゃったわけですから」

「そうそう。だから、フローズン・ジャイアントの硬い外皮や体液について、全然調査が進んでなかったのよ。あたくしの記憶が正しければ、あのモンスターの外皮を応用すればかなり安価でかなり丈夫な自動車部品が作れるはず、ってところまではわかってたんだけど」


 彼女は、モンスター達を研究することによって、新しい“乗り物”を開発しようとしているらしい。なんでも、モンスター達の体液や外皮などは、多くの機械に応用できる素晴らしい素材の宝庫であるというのだ。

 近年ガソリンが高騰し、かつ一部の部品の価格が跳ね上がったことで以前より高価なものとなりつつある自動車。ウランベール連邦は乗り物の技術が発展し、物流がスムーズに行われることによって成長を遂げてきた国である。そうでなければ、アナウン王国の十倍もあるこの広い大地の隅々まで、多くの荷物を運んで街を広げていくことなどできないからだ。

 そのガソリンの一部が、材料を生み出す油田のあいつぐ枯渇・閉鎖により足らなくなり始めている。加えて、アナウン王国が戦争のために急激に乗り物開発を始め、油田の買い占めを始めたから余計に問題になっているのだ。このままでは、この国の物流にも大きなダメージが及ぶのは免れられない。その前に、ガソリンに代わる燃料や、もっと安価で丈夫な部品の原材料を考えなければならないという状況である。そんな中、政府が目をつけたのはモンスター達の存在であり、モンスター達の研究を進めることによって新しい乗り物開発に役立つのではないかと提唱したのもまた目の前のヘレナ教授であるのだった。

 彼女は四十代で教授になって以来、二十年以上この研究室であらゆるモンスター達の研究を進めている。ガソリンに代わる燃料や材料がなかなか見つからず――研究は袋小路に入ってしまったと思われていたのだが。


「ガソリンの危険性、問題性と言われていたことのうちひとつはその揮発性と可燃性。ガソリンはほっといてもすぐに蒸発してしまう上、簡単に火がついて爆発してしまうため事故が多いことでも知られていたわ。蒸発してしまうということは、それだけ燃料として無駄が多いということでもあるのよね。なら……蒸発とは程遠い、極めて冷たい温度で、しかも少量で効率よく使える燃料があるとしたらどうかしら」

「え!?そ、そんなのあるんですか!?」

「それがあったのよ。フローズン・ジャイアント……大昔に自分で狩ったこともあったのにすっかり忘れていたわ。あのモンスターが有用なのは外皮だけじゃない、血液もだったってこと」


 これだわ、とヘレナは一枚のレポートを拾い上げる。そして他の資料を踏みつけながら(いいのだろうか、そんなぐちゃぐちゃにして)こっちにずんずんと歩いて来た。


「フローズン・ジャイアントに関する研究資料。取り寄せられたのはそれだけしかないんだけど」

「う」


 資料にはずらずらと細かい文字が並び、イラストが一部挿入されている。ジュディは顔をしかめた。アナウン語は自分には読めないからだ。何十もの文字の組み合わせで意味が変わるという、数多く存在する言語の中でも極めて厄介な言葉のひとつがアナウン語である。自分には、謎の模様がぐちゃぐちゃに書き連ねてあるようにしか見えない。


「アナウン語……私読めないんですけど」


 ジュディが渋い顔で告げれば、どうにかそこに思い至ったらしいヘレナが“あらごめんなさいね”と苦笑気味に返してきた。


「ざっくり説明すると。フローズン・ジャイアントは外皮に霜を張り付かせるほど体温が冷たいのよ。そして、氷点下を超える体温にも関わらず活動停止しない……どころか、血液を凍らせることもなく循環させることができるのよね。その理由は、極めて低温状態にもかかわらず、特定の物質と混じることで爆発的なエネルギーを生み出すことができるからなんだけど」

「それで体を動かしてると?え、人間の大人より大きな体なのに、ですか?」

「そうよ。……その爆発的なエネルギーを生み出すために、彼らは特定の植物を食べて生活していたことがわかっている。それが、ミクリの実。彼らは一日一粒のミクリの実を食べるだけで、あの冷たい体を自由自在に動かしているのよ。……彼らの血液とミクリの実の成分を調べて、乗り物に応用することができれば。文字通り、この国の運搬に革命を起こすことができるかもしれない、とは思わない?」

「ふええ……」


 そういえば、自分達が今中心となって記録をつけている生物のひとつが“ミニ・ジャイアント”というジャイアント種の突然変異である。巨人と付くにもかかわらず、突然変異で人間の手のひらサイズになってしまった生物だ。恐らくその観察の過程で、ヘレナはフローズン・ジャイアントの特性を思い出したのだろう。


「そういえば、ヘレナ教授って、どうしてそんなに新しい乗り物を作りたいんですか?生物研究なんて、正直乗り物そのものに関われる仕事じゃないし……乗り物が好きってだけの人なら、設計や開発の方に行きそうなものじゃないですか」


 ふと、ジュディは長年疑問に思っていたことを告げる。

 ヘレナが元アナウン王国の人間であったらしいこと。しかも、かつてはかなり良いところのお嬢様であったらしいこと――までは噂で聞き及んでいる。だが、そんな人間が何故、内乱が起きたとはいえ貴族の身分を捨てて逃げてきたのかはわからないし(恐らく、名前も変えているのだろう。彼女の本名がなんであるかは当然ジュディも知らないことである)、若者に混じって大学に入り直したのかも定かではない。しかも、こんなお金にもならない研究所で、この年になってもなお不健康な生活を続けているのである。

 その熱意は、一体どこから来るのだろうか。彼女の過去と何か関係があるのだろうか。そんな疑念を抱くのは、至極真っ当なことではなかろうか。


「……まあ、そういう質問も出るわよね」


 彼女は白衣の裾を払いながら立ち上がると、少しだけ遠い目をした。緑色の瞳の奥には、かつて捨ててきた故郷の景色が浮かんでいるのだろうか。


「あたくしの……初恋の人がね。乗り物の研究をしたがっていたのよ。アナウン王国はわりと最近まで、物流を馬車に頼っていたから……非効率だと思っていたんでしょうね。自動車が上級貴族専用の乗り物だっていうのも実に時代遅れでしょう?……残念ながら志叶わずして亡くなってしまったのだけれど」

「そう、だったんですか。すみません、辛いことを訊いて」

「いいのよ。あたくしは、あの人と……あの子のことを一生忘れずに生きていくと決めたんだから」


 命の恩人なのよ、と。そう告げる彼女の顔は。まるで遠い遠い少女時代に思いを馳せるように、穏やかな笑みを浮かべていたのだった。


「あの二人のために、社会の役に立ち……やりたいことを精一杯やって幸せになること。それが、あたくしの義務なの」


 人生は、何度でもやり直せる。生きている限り、何度でも。

 そして幸せになるためにできることに、遅いなんてことはないのだと彼女は言う。自分の周囲の人々にも、そのように生きて欲しいのだと。


「だからジュディ。貴女も若いうちから……精一杯、自分の幸せを抱きしめて生きなさいな。幸せも、人の命も、有限だからこそ価値あるものなのだから」


 木漏れ日が差し込む研究室。今日も空は、透けるように青く晴れ渡っているのだ。

 まるで今のヘレナのことを、今はいない誰かがずっと見守っているかのように。

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