音楽室での出来事
それから少し経った、ある日の昼休み。
音楽の先生から新しい伴奏譜を渡したいからと呼ばれて私が音楽室に向かうと、誰かが弾いているピアノの音が聴こえてくる。
扉が開かれたままの音楽室からは、ピアノの音と一緒にキャッキャッと話す女の子たちの声も聞こえた。
繊細な音色だけど。誰かしら?先生?
グランドピアノの周りには数人の女の子たちが取り囲むようにいて、楽しそうに話をしている。
その中心でピアノを弾いていたのは碧くんだった。
優輝が話したとおり、本当にピアノ弾けるのね。
しかも、すごく上手。
それにしても、なんて繊細な音なのかしら……
そう思って入口のところで立ち止まって聴いていると、私の方に顔を向けた碧くんと目が合った。
彼は私を見て微笑んだ後、周りにいる女の子たちに「じゃあ次は…」と言って次の曲を弾き始める。
え?この曲…!!
心臓が一瞬で凍ってしまったのではないかと思うほどの衝撃を受け、その場で動けなくなってしまった。
彼が弾き出したのは………ドビュッシーの『月の光』だった。
ドビュッシーは19世紀後半~20世紀にかけて活躍したフランスの作曲家だ。
現在では作曲家として名を残しているが、ピアニストを目指し、わずか10歳という若さでパリ音楽院ピアノ科に入学した天才でもある。
残念ながら、ピアニストとしては道半ばとなってしまったのだが、その後作曲家として大輪の花を咲かせることとなる。
それまでのヨーロッパの音楽とは全く異なる手法を使って書かれた彼の音楽は、聴くものの想像力を掻き立てるような色彩を放ちながらも、流動するゆらめきの中に繊細さを感じさせる。
『月の光』は初期のころに書かれた『ベルガマスク組曲』の中に入っている作品で、印象派と呼ばれる色彩を見せ始めた頃のものだ。
ドビュッシー自身は、自分の音楽が印象派と呼ばれることを喜んではいなかったようだが……
ゆったりとした3拍子のこの曲は、息の長い旋律を歌うのが難しい。
また旋律を彩る和音が刻々と色彩を変化させていく。
ひとつひとつの音の質、色、重さ。自分の耳だけを頼りに音を創り出していく。
彼が軽く目を閉じて弾き始めた『月の光』は、まるで彼の思い描く情景が見えてくるようだった。
コンサートで聴いたピアニストとはまた違う景色が紡ぎ出される。
女の子たちもうっとりした表情で、弾いている碧くんを見ている。
どうして?どうしてこんな風に弾けるの?
次第にピアノの音に混じって、私は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえてくるのを感じた。
ドクン、ドクン、と波打つ音に翻弄されながら、気がつくとギュッと両手を握りしめていた。
私にはピアノの周りにいる女の子たちのように、うっとりと耳を傾けることはできなかった。それどころか、自分の瞳に暖かいものがじわじわと広がってくる。
私の演奏はコピーでしかなかった……
あの日、優輝と一緒に教室へと上がってきた碧くんは私が弾いた『月の光』を聴いていたはずだった。
だから今、私が来ていることに気づいて、あえてこの曲を弾いたのだろうか……
自分にはないものを見せつけられたかのようだった。
私のピアノなんて人の真似でしかなかった。
その演奏の中に私というのがなかった。
そんな演奏で人に感動を与えることなんて……できるはずがない。
敵わないと思った。
そして……同時に恥ずかしさがこみ上げてきた。
これまで私はピアノを弾くと褒められたり、賞をもらったりしていたから、自分は上手なんだと思いあがっていたと気づかされた。
再び彼が顔を向けて、私の方を見た。
柔らかい微笑みが広がっていたが、私はいたたまれない気持ちでいっぱいになり、涙がスーッと頬を伝う。
先生を探していたことも忘れて、私は逃げるように音楽室を後にした。
涙で滲んだ視界の先で、彼の表情が固まったように見えた気がした。
それからの私は、できる限り碧くんと顔を合わせることを避け続けた。
彼も同じように私を避けていたように思う。
教室も私がいる文系クラスは2階、理系クラスは3階だったから、よほどのことがない限り校舎内ですれ違うことはなかった。偶然すれ違うことがあっても、ぎこちない挨拶をかわすだけ。
結局、私たちはそのままの関係で卒業し、その後も会うことはなかったのだった。
今日までは……
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