第六章 医師の息子
夏の暑さが、少しずつ糸満の街に広がり始めていた。
朝から蝉の声が響き、学校へ向かう生徒たちの顔にも、夏休みを待ち遠しく思う気持ちが表れている。
そんな中、克利は一人、教室の窓から外を眺めていた。
「克利!」
後ろから真弘の声が飛んできた。
「何ぼーっとしてんだよ。」
「別に。」
「またそれかよ。」
真弘が笑う。
「最近のお前、淳二みたいだぞ。」
「俺と一緒にするなよ。」
少しだけ笑った。
そこへ淳二たちも集まってくる。
いつもの七人。
以前と変わらない。
けれど、みんなの中には少しずつ『卒業後』という言葉が入り込んでいた。
「そういえば、進路どうする?」
美海が聞いた。
「俺は野球。」
真弘が即答する。
「知ってる。」
ひかりが笑った。
「じゃあ、克利は?」
克利は一瞬、黙った。
「・・・俺?」
「うん。」
「医者じゃないの?」
美海が何気なく言った。
その瞬間、克利の笑顔が止まった。
「・・・そうだな」
それだけ答えた。
誰も気づかなかった。
その言葉が、克利自身の言葉ではなかったことに。
放課後。
克利は一人で学校に残っていた。
机の上には進路資料。
医学部。
医学科。
大学名。
偏差値。
入試科目。
そこには、自分が進むことを前提にしたような資料が並んでいた。
克利は一枚の紙を手に取る。
「医者・・・。」
小さく呟く。
嫌いな仕事ではない。
むしろ尊敬している。
父親が医師として患者と向き合う姿を、幼い頃から見てきた。
苦しんでいる人を助ける。
誰かの命を救う。
それがどれほど大変で、どれほど尊い仕事なのかも分かっている。
だからこそ、迷っていた。
「・・・俺、本当に医者になりたいのかな。」
答えは返ってこない。
その夜。
城間家の食卓には、いつもと変わらない夕食が並んでいた。
父親。
母親。
兄。
妹。
そして克利。
家族五人が揃っている。
「克利。」
父親が口を開いた。
「はい。」
「そろそろ医学部の受験について、具体的に考えたほうがいい。」
箸が止まる。
「・・・うん。」
「夏休みに入ったら、予備校のことも考えよう。」
「父さん。」
「ん?」
克利は少し迷った。
「俺・・・。」
言葉が出てこない。
父親は待っている。
「・・・何でもない」
「そうか」
食卓には、またいつもの空気が戻った。
けれど、克利の胸の中には重たいものが残った。
食事が終わった後。
母親が洗い物をしている。
克利が近づいた。
「母さん。」
「どうしたの?」
「俺が・・・もし、医者にならなかったら・・・どう思う?」
母親の手が止まった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく。」
母親は息子を見つめた。
「あなたは、どうしたいの?」
「分からない。」
「そう。」
母親はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、
「焦らなくてもいいんじゃない?」
とだけ言った。
克利は小さく頷いた。
翌日。
大城先生に呼ばれた。
「城間、進路のことなんだが」
「はい」
「医学部を考えているんだろ?」
「・・・父はそう思っています」
大城先生が顔を上げた。
「そうか・・・お前の気持ちはどうなんだ?」
「俺は・・・」
言葉が詰まる。
「分かりません。」
「そうか。」
先生は責めなかった。
「親が敷いた道を歩くことが悪いわけじゃない。」
「・・・」
「その道がお前ににとって、納得して、自分自身が本当に、歩きたい道ならな。」
克利は顔を上げた。
「でも、自分の人生まで親に決めてもらう必要はない。」
その言葉が胸に刺さった。
「先生。」
「ん?」
「親に逆らうことになりますか?」
大城先生は首を横に振った。
「自分の人生を考えることと、親に逆らうことは違う」
克利は何も言えなかった。
数日後。
克利は父親の勤務する病院を訪れていた。
廊下を歩く。
看護師が忙しそうに行き交っている。
患者の声。
医師たちの会話。
消毒液の匂い。
ここには、父親の人生が詰まっている。
「克利?」
声をかけられた。
振り返ると、若い女性医師が立っていた。
「久保田先生。」
久保田茜。
まだ若い医師だった。
「どうしたの?」
「父に用があって。」
「そっか。」
茜は笑った。
「せっかくだから、少し見ていく?」
「いいんですか?」
「邪魔しないならね。」
克利は頷いた。
しばらくして。
茜が患者と話している姿を、克利は遠くから見ていた。
優しく話しかける。
患者の話を聞く。
時には厳しい表情も見せる。
それでも最後には笑顔を見せる。
診察が終わると、茜は小さく息を吐いた。
「疲れますか?」
克利が聞いた。
「うん。そりゃあ人間だもん、疲れるよ。」
茜は笑った。
「大変だけど、医者は患者と向き合うからね、病に苦しんでる患者に向き合う、ま、そうは言っても私も医者の前に人間だから疲れない、なんてことないから。」
茜が笑顔を見せながら、そう言った。
「・・・それでも、久保田先生は医者になったんですよね。」
「うん、そうだよぉ」
「どうして?」
茜は少し考えた。
「人を助けたいと思ったから」
「それだけですか?」
「それだけじゃないよ」
茜は笑った。
「自分がこの仕事をしたいと思ったから。」
克利は黙った。
「克利君。」
「はい。」
「もしかして、医者になるか悩んでる?」
図星だった。
「・・・はい」
「お父さんが医者だから?」
「それもあります」
茜は少し考えてから言った。
「じゃあ、一つだけ覚えておいて。」
「はい」
「医者になることが正解かどうかじゃない」
茜は真っ直ぐ克利を見る。
「自分で選んだかどうかだよ」
克利の心に、その言葉が残った。
その日の夕方。
克利は病院を出た。
空は赤く染まっていた。
父親の背中が遠くに見える。
白衣を着て、患者のところへ向かっている。
「親父・・・」
尊敬している。
大好きな父親だ。
だからこそ、苦しい。
父親と同じ道を歩かないことが、父親を否定することのように思えてしまう。
その夜。
父親の書斎。
克利は父親の前に座っていた。
「話がある。」
「何だ?」
「俺・・・医者になるって決めたわけじゃない。」
父親は黙った。
「そうか。」
「怒らないの?」
「怒る理由がない。」
「でも、父さんは俺が医者になると思ってたでしょ?」
「ああ。」
「どうして?」
父親は少し考えた。
「お前ならできると思ったからだ」
「・・・」
「父さんは、お前に苦労してほしくない。」
「だから医者?」
「それもある。」
父親は静かに続けた。
「人を助ける仕事だからな。」
克利は拳を握った。
「でも、それって俺の人生だよね?」
父親の表情が変わった。
「・・・そうだな」
「なのに、最初から全部決められてるみたいで・・・」
声が震える。
「俺の人生なのに!」
父親は黙っていた。
克利は立ち上がった。
「俺は・・・親父になりたいのか、それとも親父に認めてもらいたいだけなのか……分からないんだよ!」
そう言って部屋を出た。
扉が閉まる。
父親は一人残された。
机の上に置かれた古い聴診器を見る。
「・・・そうか。」
父親は小さく呟いた。
「そこまで悩んでいたのか。」
翌日。
七人が集まった。
克利は昨日のことを話した。
「親父と喧嘩した。」
「マジか。」
真弘が驚く。
「何で?」
「医者になりたくないって言った。」
淳二が黙って克利を見る。
「・・・お前、すごいな。」
「何が?」
「俺なんて、夢がなくて悩んでる。」
淳二は笑った。
「お前は夢を決められて悩んでる。」
克利も笑った。
「お互い面倒だな。」
「本当にな。」
二人は笑った。
ひかりも笑う。
けれど、7人の中にいる誰もが、それぞれ違う苦しみを抱えている。
それが少しずつ見え始めていた。
夕方。
克利は糸満漁港へ向かった。
そこには、やはり蒲生がいた。
「おや。」
「こんばんは。」
「今日はお前か。」
克利は海を見た。
「蒲生さん。」
「ん?」
「俺、医師の息子なんです。」
「知ってる。」
「……知ってるんですか?」
「この街に長くいれば、それくらい分かる。」
克利は苦笑した。
「俺、医者になるかどうか分からなくなりました。」
蒲生は海を見たままだった。
「そうか。」
「親父は医者になってほしいと思ってる。」
「そうだろうな。」
「俺も親父を尊敬してます。」
「なら、なればいい。」
「・・・でも。」
「なりたくないのか?」
「分からないんです。」
蒲生はしばらく黙っていた。
やがて、
「レールってのはな。」
克利を見る。
「走りやすいんだ。」
「・・・」
「道が決まってるから迷わん。」
蒲生は海へ視線を戻す。
「だがな。」
少し間を置く。
「そのレールの先が、お前の行きたい場所とは限らん。」
克利は黙っていた。
「親父さんの背中を追うのもいい。」
「・・・」
「追わんのもいい」
蒲生は静かに言った。
「最後に決めるのは、お前だ。」
その言葉を聞いた克利は、海を見つめた。
帰宅すると、父親がリビングにいた。
「克利。」
「何?」
「昨日は……すまなかった。」
克利は驚いた。
父親が謝るとは思っていなかった。
「父さん・・・。」
「克利、お前の人生を、父さんが決めることはできない。」
「・・・」
「父親として、医者になってほしいと思っている。それは本当だ。」
父親は正直に言った。
「でも、お前が別の道を選んだからといって、父さんの息子じゃなくなるわけじゃない。」
克利の目が潤んだ。
「・・・本当に?」
「ああ。」
父親は笑った。
「ただし、自分で選んだ道なら最後まで自分自身で頑張れ。」
克利は頷いた。
「分かった。」
その夜。
克利は父親の書斎に入った。
机の上には、いつもの聴診器が置かれている。
手に取る。
冷たい金属。
幼い頃から何度も見てきたものだった。
「父さん・・・。」
尊敬している。
だからこそ、自分の道を選びたい。
克利は聴診器を机に戻した。
そして窓の外を見る。
糸満の夜。
海の向こうには、まだ何も決まっていない未来がある。
「俺は・・・城間克利だ。」
初めて、自分の名前を強く意識した。
医師の息子だから医者になるのではない。
城間克利自身が選んだ人生を歩く。
まだ答えは出ていない。
医者になるかもしれない。
別の道へ進むかもしれない。
それでも――。
今日初めて、克利は父親の敷いたレールの上から、自分の足で一歩だけ外へ出た。
その頃。
糸満漁港では、蒲生良介が一人、海を眺めていた。
「・・・自分の道か」
蒲生は遠い昔を思い出すように目を細めた。
五十年前。
蒲生は、自分にも、選ばなければならない道があった。
しかし、その記憶の扉は、まだ固く閉ざされている。
蒲生は何も語らず、いつものように海を見つめ続けた。
そして夜の糸満に、静かな波の音だけが響いていた。




